藤原 紀香(ふじわら のりか、本名:陣内 紀香(じんない のりか、旧姓:藤原)、1971年6月28日 - )は、日本の女優、女性タレント。兵庫県西宮市出身。所属事務所はサムデイ。神戸親和女子大学文学部英文科卒。ミス日本グランプリ受賞者。
資格は、英語検定2級、着物着付け3級など。趣味は、女磨き、写真、釣り、加圧トレーニング、映画鑑賞、タンゴ、スポーツ全般、アロママッサージ。
両親と弟の4人家族である(一般人の為、基本的には非公表)。2006年にお笑い芸人の陣内智則と婚約した。
来歴
1971年、兵庫県西宮市生瀬地区(宝塚市近郊)で生まれる。
1990年、親和女子高等学校卒業後神戸親和女子大学に進学。
1992年、神戸親和女子大学在学中に、第24回ミス日本グランプリを受賞。
1993年、東レ水着キャンペーンガール。
1993年、朝日放送の関西ローカル番組・ナイトinナイト『クイズ!紳助くん』の初代アシスタントに。1997年12月までの長期間の出演。
1994年、アサヒビールイメージガールとして活躍。
1995年、阪神・淡路大震災で被災し、「人生、いつ終わるかわからないから」と達観して上京。
1997年、映画『CAT'S EYE』で、泥棒三姉妹の長女の泪(るい)役を演じる。
1998年、フジテレビ系テレビドラマ『ハッピーマニア』に出演し高視聴率を記録した。
2000年、香港映画『CHINA STRIKE FORCE』(邦題:スパイN)に出演。
CMにも数多く出演し、過去「CMの女王」と言われたこともある(CM総合研究所のCMタレント年度別好感度ランキングで1999年と2000年に一位を記録)。特に、J-PHONE(現ソフトバンクモバイル)のCMは衝撃的で、世間の話題を呼んだ。J-PHONEは藤原紀香のCMの効果で、大きくシェアを伸ばした。
2002年、日韓親善大使。
2006年12月26日、お笑い芸人の陣内智則と2人そろって記者会見を行い、2006年12月10日に結納を済ませたこと、2007年2月17日に生田神社にて挙式を行うことを発表した。
2006年、世界で一番ユーザーが多いソーシャルネットワーク、MySpaceをはじめる。
2007年2月17日、生田神社で陣内智則と挙式(挙式の様子は非公開)。衣裳は十二単におすべらかし(陣内は束帯)、お色直しは白無垢に高島田(陣内は黒紋付袴)。
2007年3月、ヒロインを務める予定だった舞台「ささやき色のあの日たち」(2007年8月)を「海外で別の仕事がある」として降板。
2007年4月、「テレビブロス」の「2006年ドラマ版ラジー賞」の「ワースト女優賞」に選ばれた(「だめんず・うぉ〜か〜」主演女優として)。
2007年4月10日、加古川市役所にて陣内智則と入籍。この日が、今上天皇の結婚記念日だったため、皇室を意識した行動ではないかと一部から憶測を呼んだが、婚姻届を二人で提出しに行く為に、双方のスケジュールを調整した結果、偶然同じ日になっただけだという。
2007年5月30日、披露宴を行った。
人物
中学時代はバスケットボール部に所属し、高校時代は落語研究会に所属していた。芸名は「親和亭かつお」だった。
『クイズ!紳助くん』の初代アシスタントの面接にいったところ、たまたま通りかかった紳助が待合室を覗き「中古車センターに新車のフェラーリが置いてある!!!」と飛び抜けた存在であった。
ピアスをせず、また仕事で髪を染めることがあってもすぐに黒髪に戻すなど、古風な一面がある。
体型が峰不二子に似ていると自負(『SRS』の番組内でコスプレした事があり、自身も50歳60歳になっても「峰不二子」の容姿でいたいと2007年2月16日の『スポーツニッポン』のインタビューで語っていた)。
和歌山県出身の両親が結婚前によく紀ノ川周辺でデートをしており、思い出深い「紀ノ川」の「香り」にちなんで紀香と命名された。
母親は紀香と同じ大柄で若き日にはミスコンに出場したこともあるが、家族に反対され芸能界入りを諦めた。その為紀香の芸能活動にはとても協力的だという。2006年12月10日に結納の時に、うつむいて顔を隠して車に乗っていた為、報道陣に影武者として写真を撮られているが、影武者のつもりはなかった。また、同年の5月30日の披露宴に父と共にブラウン管に初めて写った。
著書『藤原主義』(幻冬舎文庫、ISBN 978-4-344-40413-7)によると、芸能界デビュー当初は実家から新幹線や飛行機で仕事場に通っていたが、阪神大震災で親戚や知人を亡くして「やり残したことを後悔しながら死ぬのは嫌だ。これからは自分の夢に向かって生きていこう」と決意し、親元から離れて上京することを決意したとのこと。その時、家族会議が行われ、母から「成功出来んかったら帰っておいで。」と言われるが最終的には上京を認めた。上京の際、父がトラックに荷物を積んで一緒に東京へ行ったという。
大黒摩季ファンを公言しており、カラオケではかなり歌うらしい。また本人とも親交がある。
ラジオDJパーソナリティである玉川美沙と同年齢で同じ関西人という繋がりで親交があり、彼女の番組『玉川美沙たまなび』(文化放送)にもゲスト出演した。(2006年10月13日放送)
無類の風水好きでも知られ、陣内智則との交際・結婚についても風水建築デザイナーの直井由美里に相性を診てもらっている。風水で良いとされる、黄色や五角形を好んで身につけているのもこのためである。
国際活動や人道支援への協力
2002年には、韓国の女優キム・ユンジンとともにサッカー・ワールドカップ日韓共催大会の親善大使に起用され、両国の交流に貢献した。
内乱後のアフガニスタンに赴き、戦災についてのテレビレポートを行ったほか、元々は趣味から身につけた写真技術を駆使して現地での取材を行い、2004年から2005年にはJICA(独立行政法人 国際協力機構)の『ピース・トーク・マラソン』に賛同して、写真展を日本各地で行い人道支援の寄付募集などのチャリティー活動に努めている。当時使用した一眼レフディジタルカメラ(富士フイルム製FinePixS2・S5)は東京ミッドタウンのフジ本社に保存されている。
2006年には、国連スタッフと共に独立運動の混乱の最中であった東ティモールへ向かって写真取材を敢行し、後にニューヨーク市内で国家支援を訴える写真展を開催し、その開会式においてスピーチを行った。
作家井上ひさしとの対談の際には、日本国憲法第9条は堅持すべきであるとする立場をとり、反戦平和を主張したが、一方では2007年の東京都知事選挙で改憲を主張する石原慎太郎のマニフェストに応援メッセージを寄せており、矛盾を指摘する意見もある。
2007年日本赤十字社の啓蒙のモデルをしている。
スポーツに対する造詣
サッカーに関してはW杯の日韓親善大使以外にも、2002年10月から12月に横浜FCのユニフォームスポンサー(NORIKA NET)に就任したこともあった。現在もトレーニングウェアのスポンサーとなっている。横浜FCがセレッソ大阪と対戦した際(対戦当時はJ2に降格していた)、セレッソ(当時)の大久保嘉人に「(横浜FCのスポンサーに藤原がついたことなんて)関係ないです。おばさんには興味がありませんから」と言われ、この発言に対して藤原のファンから抗議が寄せられた。
格闘技にも精通し(格闘技そのものより、「男らしく強い男性(所謂マッチョ)」が好きという見方もある)フジテレビやTBSで放送される『K-1』の中継の司会を務めている(特に年末のグランプリには毎年の様に登場しており、これを見ないと『年を越せない』と言っている)。また、2003年からフジテレビが独占放映中の2年に1度の『世界柔道選手権』の司会も務めている。
2004年、フジテレビのアテネオリンピックキャスターを務めた。
中央競馬所属の「ロイヤルキャンサー」という馬の名付け親でもある。キャンサーとは蟹を意味し、藤原の誕生星座「蟹座」にちなんでいる。同馬の馬主は、藤原を支援してくれているイザワオフィス代表の井澤健である。
高校時代にMBSの選抜甲子園のセブンティーンリポーターとして出演し、任務終了時に涙を流していた。結婚披露宴にもその映像が流された。現在もMBSに放送資料としてその映像とスチール写真が保存されている。
格闘技情報番組『SRS』の初代ビジュアルクイーンだったが、1999年に卒業。その際、藤原の卒業を祝って、アンディ・フグ、桜庭和志、フランシスコ・フィリォなどの著名格闘家が一堂に会し、それぞれエキシビジョンマッチや演武を披露した。その際アンディ・フグに「あなたがこの番組を卒業しても、あなたは格闘技の歴史の一部です。いつまでも格闘技を愛し続けてください。」という言葉を贈られ、たいへん心を打たれたという。[1]
プロ野球に関しては、以前は巨人ファンの芸能事務所社長に配慮して巨人寄りの発言をしていたが、最近になって夫の陣内により実は阪神ファンだということが明らかにされた。奇しくも2007年5月30日の結婚披露宴当日は地元甲子園球場で阪神対西武の交流戦が開催されており、夫と親交がある今岡誠と桧山進次郎がホームランを放って勝利し、桧山はヒーローインタビューで記者団に対し「今日打ててうれしいです」と二人を祝福した。そしてその足で披露宴二次会に駆けつけ、ホームランを打った際に貰うトラッキー人形を紀香夫妻にプレゼントした。
お笑いに対する造詣
ブレイクする前に関西ローカルの『クイズ!紳助くん』の初代アシスタント(1993年10月から1997年12月)を務めたこともあり、その際に司会の島田紳助とトーク中心に絡んでいたことが彼女のお笑いに対する理解や、女優としてコミカルな演技を求められた際の演技力向上に寄与したとされている。上京を決意した時に紳助から「東京は戦う場所や!決して甘く考えたらあかん!」と激励された。現在も紳助とは交友がある。
才色兼備の女性がオタク青年と出会い最初は嫌悪感を示していたものの、その真摯な求愛姿勢に徐々に心を動かされてついには結ばれるという、ドラマ『59番目のプロポーズ』でお笑いタレント陣内智則とともに主役を演じた際、陣内と息のあったコミカルタッチな演技も披露して、このドラマのハッピーエンド同様に交際を始め結婚するに至った。
陣内智則以外でも、『あなたの人生お運びします!』ではDonDokoDonの山口智充、『だめんず・うぉ~か~』では雨上がり決死隊の宮迫博之と、近年お笑いタレントとの共演が多い。
フジテレビ警察で、上様の正室・信子役で登場した際に、岡村巡査部長の「上様に、イカれちゃったの?」発言にも、バラエティの出演の多い小池栄子でさえ答えに窮する中、「この三人は、みーんな上様にイカれちゃってるの」と返し、お笑いをよく分かっている女優というテロップまで流された。
雨女
自身が「雨女」であると公言している。ただし、入籍後は変化があったとも語っている。
内戦後のアフガニスタンに赴いて取材訪問を行った際には、その従前3年間にわたって降雨のなかった枯れ地に、恵みの大雨をもたらした。
乾期のケニアに訪問した際には、例年の通り乾期中の飲料水確保に苦労していた現地の伝統民族マサイ族が大喜びするほどの降雨をもたらした。
FIFAワールドカップ2002における日韓親善大使を務めた際には、職制上10回以上訪韓したが、晴れる日は皆無で、おしなべて降雨か降水確率の高い曇天であった。
2007年2月17日生田神社で挙式した際、当初の本人の予想通り雨天となった上、挙式後の記者会見が終わった瞬間に雨が降り止んだ。
2007年5月30日の、ホテルオークラ(神戸市)においての結婚披露宴当日も、前日までの晴天が嘘のように雨天になった。しかし、本番になると雨はやんだ。
結婚披露宴
2007年5月30日、、ホテルオークラ(神戸市)にて結婚披露宴挙行。その模様は日本テレビ系にて放送。
司会は徳光和夫と松本志のぶ(日テレアナウンサー)が務め、乾杯の音頭に芸能界では先輩だが、事務所では後輩に当たる宇津井健、その後は郷ひろみの歌のプレゼント、島田紳助からの祝辞、ムーディ勝山からの「19時に始まり21時半に終わる披露宴の歌」と題した歌のプレゼント等で盛り上げた。他にも紀香と陣内にゆかりの有名人が多数出席した。
視聴率は関東地区では24.7%、名古屋地区では31.0%そして2人のお膝元である関西地区では40.0%という高視聴率となり、21世紀に入ってからの結婚披露宴中継で最も高い数字をマークした。
ブランド業立ち上げ進出
実は藤原紀香がNEW YORK DIARYというブランドを立ち上げ、パンスト中心のアパレル業に進出してた事は意外に知られていない。自身がプロデュースしたパンストビジネスだが、どうしても二番煎じの感が強く、“パンスト御殿”までを建てた神田うのほどの成功を収める事ができなかった。他にもアクセサリー、ペットアイテム、サングラス、衣服もあり。結局どれも短期間で撤廃してしまい、現在はネットオークションのみで一部の商品が手に入るのみとなった。
藤原紀香が陣内智則と結婚してどれくらい経つだろう?綺麗になったと思う。陣内も前向きに仕事をしている感じが伝わってくる。なんか、芸能界の中では、とても珍しい夫婦。お互い、人間を磨きあって、幸せな生活を続けて欲しい。
資格は、英語検定2級、着物着付け3級など。趣味は、女磨き、写真、釣り、加圧トレーニング、映画鑑賞、タンゴ、スポーツ全般、アロママッサージ。
両親と弟の4人家族である(一般人の為、基本的には非公表)。2006年にお笑い芸人の陣内智則と婚約した。
来歴
1971年、兵庫県西宮市生瀬地区(宝塚市近郊)で生まれる。
1990年、親和女子高等学校卒業後神戸親和女子大学に進学。
1992年、神戸親和女子大学在学中に、第24回ミス日本グランプリを受賞。
1993年、東レ水着キャンペーンガール。
1993年、朝日放送の関西ローカル番組・ナイトinナイト『クイズ!紳助くん』の初代アシスタントに。1997年12月までの長期間の出演。
1994年、アサヒビールイメージガールとして活躍。
1995年、阪神・淡路大震災で被災し、「人生、いつ終わるかわからないから」と達観して上京。
1997年、映画『CAT'S EYE』で、泥棒三姉妹の長女の泪(るい)役を演じる。
1998年、フジテレビ系テレビドラマ『ハッピーマニア』に出演し高視聴率を記録した。
2000年、香港映画『CHINA STRIKE FORCE』(邦題:スパイN)に出演。
CMにも数多く出演し、過去「CMの女王」と言われたこともある(CM総合研究所のCMタレント年度別好感度ランキングで1999年と2000年に一位を記録)。特に、J-PHONE(現ソフトバンクモバイル)のCMは衝撃的で、世間の話題を呼んだ。J-PHONEは藤原紀香のCMの効果で、大きくシェアを伸ばした。
2002年、日韓親善大使。
2006年12月26日、お笑い芸人の陣内智則と2人そろって記者会見を行い、2006年12月10日に結納を済ませたこと、2007年2月17日に生田神社にて挙式を行うことを発表した。
2006年、世界で一番ユーザーが多いソーシャルネットワーク、MySpaceをはじめる。
2007年2月17日、生田神社で陣内智則と挙式(挙式の様子は非公開)。衣裳は十二単におすべらかし(陣内は束帯)、お色直しは白無垢に高島田(陣内は黒紋付袴)。
2007年3月、ヒロインを務める予定だった舞台「ささやき色のあの日たち」(2007年8月)を「海外で別の仕事がある」として降板。
2007年4月、「テレビブロス」の「2006年ドラマ版ラジー賞」の「ワースト女優賞」に選ばれた(「だめんず・うぉ〜か〜」主演女優として)。
2007年4月10日、加古川市役所にて陣内智則と入籍。この日が、今上天皇の結婚記念日だったため、皇室を意識した行動ではないかと一部から憶測を呼んだが、婚姻届を二人で提出しに行く為に、双方のスケジュールを調整した結果、偶然同じ日になっただけだという。
2007年5月30日、披露宴を行った。
人物
中学時代はバスケットボール部に所属し、高校時代は落語研究会に所属していた。芸名は「親和亭かつお」だった。
『クイズ!紳助くん』の初代アシスタントの面接にいったところ、たまたま通りかかった紳助が待合室を覗き「中古車センターに新車のフェラーリが置いてある!!!」と飛び抜けた存在であった。
ピアスをせず、また仕事で髪を染めることがあってもすぐに黒髪に戻すなど、古風な一面がある。
体型が峰不二子に似ていると自負(『SRS』の番組内でコスプレした事があり、自身も50歳60歳になっても「峰不二子」の容姿でいたいと2007年2月16日の『スポーツニッポン』のインタビューで語っていた)。
和歌山県出身の両親が結婚前によく紀ノ川周辺でデートをしており、思い出深い「紀ノ川」の「香り」にちなんで紀香と命名された。
母親は紀香と同じ大柄で若き日にはミスコンに出場したこともあるが、家族に反対され芸能界入りを諦めた。その為紀香の芸能活動にはとても協力的だという。2006年12月10日に結納の時に、うつむいて顔を隠して車に乗っていた為、報道陣に影武者として写真を撮られているが、影武者のつもりはなかった。また、同年の5月30日の披露宴に父と共にブラウン管に初めて写った。
著書『藤原主義』(幻冬舎文庫、ISBN 978-4-344-40413-7)によると、芸能界デビュー当初は実家から新幹線や飛行機で仕事場に通っていたが、阪神大震災で親戚や知人を亡くして「やり残したことを後悔しながら死ぬのは嫌だ。これからは自分の夢に向かって生きていこう」と決意し、親元から離れて上京することを決意したとのこと。その時、家族会議が行われ、母から「成功出来んかったら帰っておいで。」と言われるが最終的には上京を認めた。上京の際、父がトラックに荷物を積んで一緒に東京へ行ったという。
大黒摩季ファンを公言しており、カラオケではかなり歌うらしい。また本人とも親交がある。
ラジオDJパーソナリティである玉川美沙と同年齢で同じ関西人という繋がりで親交があり、彼女の番組『玉川美沙たまなび』(文化放送)にもゲスト出演した。(2006年10月13日放送)
無類の風水好きでも知られ、陣内智則との交際・結婚についても風水建築デザイナーの直井由美里に相性を診てもらっている。風水で良いとされる、黄色や五角形を好んで身につけているのもこのためである。
国際活動や人道支援への協力
2002年には、韓国の女優キム・ユンジンとともにサッカー・ワールドカップ日韓共催大会の親善大使に起用され、両国の交流に貢献した。
内乱後のアフガニスタンに赴き、戦災についてのテレビレポートを行ったほか、元々は趣味から身につけた写真技術を駆使して現地での取材を行い、2004年から2005年にはJICA(独立行政法人 国際協力機構)の『ピース・トーク・マラソン』に賛同して、写真展を日本各地で行い人道支援の寄付募集などのチャリティー活動に努めている。当時使用した一眼レフディジタルカメラ(富士フイルム製FinePixS2・S5)は東京ミッドタウンのフジ本社に保存されている。
2006年には、国連スタッフと共に独立運動の混乱の最中であった東ティモールへ向かって写真取材を敢行し、後にニューヨーク市内で国家支援を訴える写真展を開催し、その開会式においてスピーチを行った。
作家井上ひさしとの対談の際には、日本国憲法第9条は堅持すべきであるとする立場をとり、反戦平和を主張したが、一方では2007年の東京都知事選挙で改憲を主張する石原慎太郎のマニフェストに応援メッセージを寄せており、矛盾を指摘する意見もある。
2007年日本赤十字社の啓蒙のモデルをしている。
スポーツに対する造詣
サッカーに関してはW杯の日韓親善大使以外にも、2002年10月から12月に横浜FCのユニフォームスポンサー(NORIKA NET)に就任したこともあった。現在もトレーニングウェアのスポンサーとなっている。横浜FCがセレッソ大阪と対戦した際(対戦当時はJ2に降格していた)、セレッソ(当時)の大久保嘉人に「(横浜FCのスポンサーに藤原がついたことなんて)関係ないです。おばさんには興味がありませんから」と言われ、この発言に対して藤原のファンから抗議が寄せられた。
格闘技にも精通し(格闘技そのものより、「男らしく強い男性(所謂マッチョ)」が好きという見方もある)フジテレビやTBSで放送される『K-1』の中継の司会を務めている(特に年末のグランプリには毎年の様に登場しており、これを見ないと『年を越せない』と言っている)。また、2003年からフジテレビが独占放映中の2年に1度の『世界柔道選手権』の司会も務めている。
2004年、フジテレビのアテネオリンピックキャスターを務めた。
中央競馬所属の「ロイヤルキャンサー」という馬の名付け親でもある。キャンサーとは蟹を意味し、藤原の誕生星座「蟹座」にちなんでいる。同馬の馬主は、藤原を支援してくれているイザワオフィス代表の井澤健である。
高校時代にMBSの選抜甲子園のセブンティーンリポーターとして出演し、任務終了時に涙を流していた。結婚披露宴にもその映像が流された。現在もMBSに放送資料としてその映像とスチール写真が保存されている。
格闘技情報番組『SRS』の初代ビジュアルクイーンだったが、1999年に卒業。その際、藤原の卒業を祝って、アンディ・フグ、桜庭和志、フランシスコ・フィリォなどの著名格闘家が一堂に会し、それぞれエキシビジョンマッチや演武を披露した。その際アンディ・フグに「あなたがこの番組を卒業しても、あなたは格闘技の歴史の一部です。いつまでも格闘技を愛し続けてください。」という言葉を贈られ、たいへん心を打たれたという。[1]
プロ野球に関しては、以前は巨人ファンの芸能事務所社長に配慮して巨人寄りの発言をしていたが、最近になって夫の陣内により実は阪神ファンだということが明らかにされた。奇しくも2007年5月30日の結婚披露宴当日は地元甲子園球場で阪神対西武の交流戦が開催されており、夫と親交がある今岡誠と桧山進次郎がホームランを放って勝利し、桧山はヒーローインタビューで記者団に対し「今日打ててうれしいです」と二人を祝福した。そしてその足で披露宴二次会に駆けつけ、ホームランを打った際に貰うトラッキー人形を紀香夫妻にプレゼントした。
お笑いに対する造詣
ブレイクする前に関西ローカルの『クイズ!紳助くん』の初代アシスタント(1993年10月から1997年12月)を務めたこともあり、その際に司会の島田紳助とトーク中心に絡んでいたことが彼女のお笑いに対する理解や、女優としてコミカルな演技を求められた際の演技力向上に寄与したとされている。上京を決意した時に紳助から「東京は戦う場所や!決して甘く考えたらあかん!」と激励された。現在も紳助とは交友がある。
才色兼備の女性がオタク青年と出会い最初は嫌悪感を示していたものの、その真摯な求愛姿勢に徐々に心を動かされてついには結ばれるという、ドラマ『59番目のプロポーズ』でお笑いタレント陣内智則とともに主役を演じた際、陣内と息のあったコミカルタッチな演技も披露して、このドラマのハッピーエンド同様に交際を始め結婚するに至った。
陣内智則以外でも、『あなたの人生お運びします!』ではDonDokoDonの山口智充、『だめんず・うぉ~か~』では雨上がり決死隊の宮迫博之と、近年お笑いタレントとの共演が多い。
フジテレビ警察で、上様の正室・信子役で登場した際に、岡村巡査部長の「上様に、イカれちゃったの?」発言にも、バラエティの出演の多い小池栄子でさえ答えに窮する中、「この三人は、みーんな上様にイカれちゃってるの」と返し、お笑いをよく分かっている女優というテロップまで流された。
雨女
自身が「雨女」であると公言している。ただし、入籍後は変化があったとも語っている。
内戦後のアフガニスタンに赴いて取材訪問を行った際には、その従前3年間にわたって降雨のなかった枯れ地に、恵みの大雨をもたらした。
乾期のケニアに訪問した際には、例年の通り乾期中の飲料水確保に苦労していた現地の伝統民族マサイ族が大喜びするほどの降雨をもたらした。
FIFAワールドカップ2002における日韓親善大使を務めた際には、職制上10回以上訪韓したが、晴れる日は皆無で、おしなべて降雨か降水確率の高い曇天であった。
2007年2月17日生田神社で挙式した際、当初の本人の予想通り雨天となった上、挙式後の記者会見が終わった瞬間に雨が降り止んだ。
2007年5月30日の、ホテルオークラ(神戸市)においての結婚披露宴当日も、前日までの晴天が嘘のように雨天になった。しかし、本番になると雨はやんだ。
結婚披露宴
2007年5月30日、、ホテルオークラ(神戸市)にて結婚披露宴挙行。その模様は日本テレビ系にて放送。
司会は徳光和夫と松本志のぶ(日テレアナウンサー)が務め、乾杯の音頭に芸能界では先輩だが、事務所では後輩に当たる宇津井健、その後は郷ひろみの歌のプレゼント、島田紳助からの祝辞、ムーディ勝山からの「19時に始まり21時半に終わる披露宴の歌」と題した歌のプレゼント等で盛り上げた。他にも紀香と陣内にゆかりの有名人が多数出席した。
視聴率は関東地区では24.7%、名古屋地区では31.0%そして2人のお膝元である関西地区では40.0%という高視聴率となり、21世紀に入ってからの結婚披露宴中継で最も高い数字をマークした。
ブランド業立ち上げ進出
実は藤原紀香がNEW YORK DIARYというブランドを立ち上げ、パンスト中心のアパレル業に進出してた事は意外に知られていない。自身がプロデュースしたパンストビジネスだが、どうしても二番煎じの感が強く、“パンスト御殿”までを建てた神田うのほどの成功を収める事ができなかった。他にもアクセサリー、ペットアイテム、サングラス、衣服もあり。結局どれも短期間で撤廃してしまい、現在はネットオークションのみで一部の商品が手に入るのみとなった。
藤原紀香が陣内智則と結婚してどれくらい経つだろう?綺麗になったと思う。陣内も前向きに仕事をしている感じが伝わってくる。なんか、芸能界の中では、とても珍しい夫婦。お互い、人間を磨きあって、幸せな生活を続けて欲しい。
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