俊足巧打でプロ野球の阪神、大洋(現横浜)などで活躍した加藤博一(かとう・ひろかず)氏が21日午後0時54分、肺がんのため神奈川県横須賀市内の病院で死去した。56歳。佐賀県出身。通夜は1月23日(水)午後7時、葬儀・告別式は1月24日(木)午後1時から延命寺(神奈川県逗子市逗子3の1の17)で。喪主は妻晴代(はるよ)さん。
1970年に佐賀・多久工高(現多久高)からドラフト外で西鉄(現西武)に入団。76年に阪神へ移籍し、80年にはリーグ5位の打率3割1分4厘をマークした。83年に大洋に移ると、快足の高木豊選手、屋鋪要選手とともに「スーパーカートリオ」を結成。86年にはプロ17年目で初めてオールスターゲーム出場を果たした。
90年に現役引退後は野球評論家として活躍した。
▼野球解説者で元阪神の江本孟紀氏の話 昨年11月にお見舞いに行った時には、4月までには治して仕事を頑張ると言っていた。解説でも一緒にやってきて、思い出はいっぱいある。早いよな。
(スポーツ・ニッポンより引用)
加藤さんとは、番組をやっている。もう12年以上前だが、当時の世界情勢の中で特に注目されていた「ボスニア・ヘルツェゴビナ問題」を生放送で解説して貰う為に打ち合わせの為、逗子の高台の御自宅まで御邪魔して、千葉大学の先生に僕が教えて貰った事を、僕が加藤さんに教えた。優しい人だった。笑顔が印象的。
今、「NEWS ZERO」で加藤さんの訃報に接し、とてもショックを受けている。
加藤 博一(かとう ひろかず、1951年10月9日 - 2008年1月21日)は、佐賀県多久市出身のプロ野球選手(外野手)、野球解説者。右投両打。
来歴・人物
多久工業高等学校(現・佐賀県立多久高等学校)から1970年、テスト生で西鉄ライオンズに入団。二軍暮らしが続き、公式戦の出場は1972年の3試合にとどまった。
1976年に阪神タイガースに移籍し、レギュラーに定着。1979年に阪神と因縁のある江川卓に強い男として売り出した。プロ入り後の初本塁打も初登板試合の江川から打ったものであり、翌年を含めて江川から3本の本塁打を放っている。
1980年、打率.314で打率ベストテンの5位に入るとともに広島東洋カープの高橋慶彦と盗塁王争いを演じ、阪神から1956年・吉田義男以来の盗塁王誕生かと思われたが、高橋の38盗塁に及ばず34盗塁でタイトルを逃した(阪神の盗塁王はその後世紀を超えて赤星憲広が出現するまで誕生しなかった)。
1983年に横浜大洋ホエールズに移籍すると、2番打者に定着し、1985年には近藤貞雄監督の下、高木豊、屋鋪要と「スーパーカートリオ」を結成。3人で3ケタの148盗塁を記録し、個人では48盗塁とリーグトップの39犠打を記録した。1986年には17年目で初のオールスター出場を果たす。目立った数字は残せなかったものの、そのキャラクターでファン、選手に親しまれ、1990年まで21年間の現役生活を送った。
現役時代から「面白いキャラクターの野球選手」として有名で、プロ野球界オフの主役としてプロ野球ニュースなどにたびたび登場していた。大洋時代に同じ阪神OBである江本孟紀も出演するテレビ番組で「第二の江本孟紀を目指す」と繰り返し、江本がテレて苦笑する中で、阪神時代から旧知の島田紳助に『加藤さんの場合は、江本さんではなく、第二の板東さん!』と芸人としてのツッコミを受けたことがある。
1991年よりフジテレビの野球解説者を務めた。
短距離ヒッターであり、小細工のきくタイプであるが、意外と大柄で180cm近くある。また、前述のように江川卓を比較的得意としており、時折打ち崩して存在をみせつけていた。
2008年1月21日午後0時54分、肺癌のため横須賀市内の病院で死去。享年58(56歳没)
家族によると、2年前に肺がんと診断され、がん治療のため入退院を繰り返しており、2007年2月には左肺を摘出していた。その後は回復し、すぽると!やCSプロ野球ニュースなどで活躍していたが、左足大腿骨に癌が転移し、2008年1月に容態が悪化していた。
エピソード
西鉄時代初期、薄給で食うにも困る経済状況ゆえシーズンオフに靴問屋の整理作業から飲食店のカウンターなどまで各種アルバイトをして糊口をしのいだ経験がある。(現役時代後年テレビ番組で明かした)
西鉄時代、初打席が対南海戦であった。捕手の野村克也に、野村:『若いね、いくつ?』、加藤:『20です。』と答えた瞬間にど真ん中にストライクの球が来たが、緊張のあまり手が出なかった。しかし、後日、同じく南海戦で打席で屁をかましてしまい、捕手の野村、球審まで手で仰ぐほどの臭さだったという(フジテレビ系『笑っていいとも!』テレフォンショッキング本人出演時より談)
タレントの才能は古くから有名で、阪神時代のオフの納会などには、ピンクレディーの形態模写をやってチームメイトの人気を集めた。選手時代晩年は、フジテレビの「プロ野球ニュース」でレギュラーコーナーを担当していた。
1981年の阪神ファン感謝デーでは、阪神甲子園球場で福間納や似鳥功(打撃投手)らとともにイモ欽トリオの形態模写を披露して、阪神ファンの人気を不動のものとする。大洋移籍後も阪神ファンの人気は変らず、1985年のシーズンで阪神が優勝に近づく頃に、多くの阪神ファンから「胴上げまでにまだ間に合うでえ、加藤!早よ(阪神へ)帰ってこい!」との声援を多く見受けた。同じ阪神から移籍した江夏豊や田淵幸一らとは違う声援を阪神ファンから受け続けた『阪神OB』の現役選手だった。現役引退後も関西のテレビ番組等では『阪神OB』として出演している。
高校時代は中堅手だったため、西鉄での入団会見では「背番号8をつけるまでやめない」と宣言、阪神時代の1981年に実現した。前任者の島野育夫からは「ケガする番号だからやめたほうがいい」と言われ、掛布雅之からも「32で結果を出したんですから32が加藤さんにとって一番いい番号なんじゃないですか?」と助言されたものの、プロ入りしてからの夢だったので32から変更したところ、島野の言うように怪我をしてしまった。加藤の後に、阪神で背番号8を受継いだ選手は吉竹春樹、田尾安志、久慈照嘉、本西厚博、佐々木誠、沖原佳典らと移籍か期待に応えられずに早々に引退している選手が多く続いている。なお、久慈の阪神復帰後の背番号は32で、本西も阪神在籍時は32→8だった。
なお現役時代、加藤は75→67→35(以上西鉄・太平洋時代)→32→8(以上阪神時代)→22→44(以上大洋時代)と7つの背番号をつけていた。大洋時代にフロントから「22番を銚子利夫に譲るから」と打診を受けた時に「背番号をルーキーに取られるぐらいなら引退する」と激怒したが、数日後には持ち前のプラス思考で「背番号を倍にしたら成績も倍になるかもしれない」と考え、44への変更を了承した。
ちなみにベースボールマガジンで背番号について関本四十四と対談した時には、「自分は44を『ヨイヨイ』と読んでいたが、ファンからは『シッシッ』と追い払われた」「背番号を22の倍の44にしたら成績が上がったから、今度背番号をその倍の88にしたらコーチにでもなれるかなと思っていたら、行き先が8チャンネル(=フジテレビ)だった」と笑いのネタにしていた。
大洋・横浜のファンであるやくみつるは後年、「スーパーカートリオ」の他の二人を引き合いに出して、加藤を堅実で信頼感のある選手であったと述べている。
大洋時代の1983年6月4日阪神戦(横浜スタジアム)、岡田彰布の左中間へのフライを追ってレフトの長崎啓二と衝突。この時長崎の顔面と加藤の顔面がぶつかったのでプロ野球珍プレー好プレー大賞では「空中キッス」と呼ばれ珍プレー大賞を受賞した。なお、受賞したのは加藤だけである。
後輩である掛布が東北楽天ゴールデンイーグルスの監督オファーを受けたように報道されたがその後田尾安志監督を発表されたことについて、田尾監督が解任された後にCSプロ野球ニュースにて「掛布は楽天の取引先である三井住友銀行の西川善文頭取とも会わされ、三木谷浩史オーナーと1週間後に会って翌日発表と決まっていたが、1週間経たないうちに田尾監督を発表した。楽天はおかしい」と問題提起した。
島田紳助・KONISHIKIとは古くからの親友として知られ、紳助からは「世界の福本(豊)に対し、町内の加藤」とよく言われた。
髪型は現役時代からパンチパーマだった。
打席でのヒッティングマーチは「蒲田行進曲」。加藤が代打に告げられた時のスタンドからの「ひろかずコール」は名物であった。現在では珍しくなくなった選手名連呼コールのはしりともいえる。加藤は、スタンドのファンがきっちり3回コールするのを待って打席に入っていた。
現役20年以上で「リーグ優勝」を1度も経験しなかったのは史上初である。
趣味は下駄の収集だった。