昨日の地元の新聞「河北新報」の記事です。
《「きれいな川で大きくなって」福島・矢祭の久慈川 小学生が稚アユ放流》
「東北で最も早くアユ釣りが解禁される福島県矢祭町の久慈川で二十六日、地元の小学生八十人がアユの稚魚を放流した。」云々の記事とともに、「はだしで流れに入り、アユを放流する子どもたち」と説明する写真つき。
この日放流したアユは12cmで、45,000匹、今年全体の放流量は20万匹とのこと。6月4日の解禁日には、20cmくらいに成長しているだろうとのこと。
矢祭町といえば、町長の反骨精神が全国的に知れ渡った町で有名です。住基ネットに参加しないといち早く態度を鮮明にした人だったと思いますが、町政の舵取りもいろいろとユニークな施策を実施しているようで、私は個人的にも注目しています。これからも単独でも自主独立路線を邁進して欲しいなと思っています。
でも、今日の本題は矢祭町の町長のことではありません。
「全国各地で園児や児童によるアユやホタルの放流が行われている。そういったニュースを聞きながら時々思うのだが、子どもたちが魚やホタルを『放流』する意味は一体何なのだろうか?
『環境保全の意識を育てるために』といったことが根底にはあるように思えるのだが、はたして放流をすることで環境保全の意識が芽生えるのだろうか?
『放流しなければ、魚やホタルがいないほど身の回りの環境が悪くなって来た』という厳しい現実を教えているのであればいくらかは理解できる。しかし、そのような話を私はきいたことがなく、単なるイベントにしか見えないことがある。
このような事例を見るにつけ、私たちの自然との付き合い方が薄っぺらなものになったことをいやおうなく感じさせられる。身近から生き物がいなくなったから放流するというのは、あまりにも安直で、放流はまるで壊れた機械の部品交換のようですらある。・・・中略・・・
園児や児童によるアユやホタルの放流は言うまでもなく善意の下に行われている。それだけに批判めいたことは口にしにくいのだが、子どもたちへと引き継ぐべきものを間違っているのではないかという不安をぬぐうことができない。
子どもたちには最後の命を振り絞って産卵する親アユの姿や群れをなして懸命に川を上る稚アユの姿を見せてあげたい。そういった生き物の姿を当たり前に見ることのできる環境を次の世代へきちんと引き継いでいきたいものである。」
以上の引用は、これまで何回か紹介してきた「ここまでわかったアユの本」3章 アユの放流再考 6放流の意味を考える のなから引用したものです。
単純な私はなるほどなあと納得してしまいます。 産卵といえば鮭の産卵はよく知られているし、よく放送もされていますが、アユはあまり放送はされていません。
アユの場合は、産卵よりは春先の遡上アユ、堰堤を必死に乗り越えようとするアユの姿が新聞等では報道されています。
産卵の様子は、どうすれば子どもたちに見せられるか、そのためには産卵床をきちんと整備しておかなければならないし、河川環境の整備という課題に行き着くのでしょうか。とりあえずはTVで毎年晩秋に、晩秋の風物詩(といっていいものかどうか)として放送してくれることを祈りましょう。こんな他人事ではよくないですね。