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どこに潜伏?受刑者の脱走から1週間

2018-04-15 20:21:43 | ニュースまとめ・総合
どこに潜伏?受刑者の脱走から1週間



2018年4月15日 18時59分

日テレNEWS24

愛媛県の刑務所から受刑者の男が脱走して1週間が経った。警察は、15日も男が潜んでいるとみられる広島県尾道市の島を捜索しているが、発見には至っていない。

15日も広島県尾道市の向島では警察が980人態勢で平尾龍磨受刑者の捜索にあたった。今月8日、愛媛県今治市にある松山刑務所大井造船作業場から平尾受刑者が脱走して以降、窃盗などの被害が7件発生している。

地域の不安が広がる中、今治市の作業場を山下貴司法務大臣政務官が訪れ、脱走時の状況を聞いた。
警察は、島内の防犯カメラを増やすなどして平尾受刑者の早期発見に全力を挙げる方針。

リフォーム前提で中古物件を買うのもアリ その実例

2018-04-15 20:20:13 | ニュースまとめ・総合
リフォーム前提で中古物件を買うのもアリ その実例



2018年4月15日 16時0分

NEWSポストセブン


 リフォーム番組を見ると、賃貸で暮らす人間は、つい「直す家があるだけマシじゃないか」と悪態をついてしまうが、リフォームする前提で中古物件を買うという方法もある。ともにデザイン関係の仕事をする宮本潤さん、理恵子さん夫妻は、「思い通りにデザインした空間を手に入れたい」(潤さん)と、あえて中古物件を購入してフルリフォームした。

「内装はデザインでどのようにでも変えられます。立地や治安、耐震性などにこだわって物件を探しました」

 サポート役を担ったのは、購入からリフォームまでトータルに提案するリビタ社。

「物件探しからローン関係、建築家の紹介までワンストップなので、安心してリフォームに取り組めました」

 狭かった間取りは、キッチンが主役の明るく開放的な室内に生まれ変わった。床材や塗料、家具など、随所に宮本夫妻のこだわりが反映されている。

 壁付けだったキッチンを取り壊し、キッチンをリビングダイニングの主役に。フルリフォームだからこそ、大胆な変更が可能になった。

 玄関部分に設けたフリースペースも。マンションにありがちな狭い玄関が、土間を広くとることで開放的に変わった。現在は潤さんのワークスペースとして使用。カーテンで仕切る工夫も潤さんのアイデア。

 リビングの一角に設けた子供部屋は、リビングに面して横長の開口部を設け、壁と天井の間に空間を作ることで驚くほどの開放感を生み出す。ブルーグレーにペイントした壁の色がリビングと調和する。

「こんな家に住みたいというイメージがはっきりしていれば、リフォーム前提で中古を買うのもアリかなと思います」

小泉純一郎が「東大ゼミ」で明かした、竹中起用と安倍後継を決めた理由

2018-04-15 20:18:54 | ニュースまとめ・総合
小泉純一郎が「東大ゼミ」で明かした、竹中起用と安倍後継を決めた理由


2018年4月12日 11時0分

文春オンライン


 初の回想録『決断のとき』(集英社新書)を今年2月に出版した小泉純一郎は、現職時代から「回顧録は出さない」と言い続けてきた。実際、2009年に政界を引退してから10年近く、その類の取材依頼はすべて断ってきたのだ。

 筆者が2015年に月刊誌「文藝春秋」で、引退後初のロングインタビューを担当して以降、小泉は「原発問題のみ」という条件付きではあるが、マスメディアの個別取材を応じるようになった。だが、いまだに評価の分かれる数々の政治決断について語ることは、頑なに拒んできた。
小泉は若い人との対話を好む


『決断のとき』の編集作業は1年以上に及んだ ©常井健一

 そんな分厚い壁をぶち破り、「最高権力者」と呼ばれた男の人生遍歴をまとめ、世に問うたのが『決断のとき』だ。

 なぜ、平成を代表する総理経験者が、筆者のような無名のフリーライターを相手に半生をとことん語り、一冊の本に仕上げようとしたのだろうか──。『決断のとき』を出版してから読者によく聞かれる質問だが、筆者は約1年間、田舎の両親よりも頻繁に対面してきたのに、そんな肝心なことをうっかり聞きそびれてしまった。

「総理のご意向」を忖度するに、ただ単に、筆者の取材攻勢が最もしつこかったからだろう。名も力もあるエリート記者たちがジャーナリズムの基本であるはずの「本人取材」を諦めていく中、気づけば、筆者一人だけが追い続けていた。

 それだけのことだ。

 筆者に限らず、現在76歳の小泉は若い人との対話を好む。特に息子の孝太郎(39)・進次郎(36)と同世代を相手にすると、普段は無口の元首相が驚くほど饒舌になる傾向がある。

 かつて東大法学部にあった名門ゼミ・蒲島郁夫ゼミの第7期生も、小泉のストライクゾーンだった。今回も「#1」に引き続き、東大卒エリート20人に行った3時間近くに及ぶ「特別講義」の中で、小泉が語った秘話の数々を惜しみなく披露したい。

(一部敬称略)
総裁選で「無党派は宝の山だ」と訴えた

元東大生D では、なぜ小泉さんは5年5か月に及ぶ長期政権を維持することができたのでしょうか。

小泉 私が一番大事にしたのは無党派層だった。実は、選挙でも政党や団体に入ってない有権者が多く支持してくれる候補は強い。それをわかっていた。国民の圧倒的多数は無党派だから、そういう人々はどう考えているかっていうことを自分の選挙でも常に考えてきた。自民党総裁選挙に出た時も、自民党員が投票する選挙なのに「無党派は宝の山だ」と訴えていたんだ。

 たしかに、初めて選挙に立候補した時から「支持団体は大事だ」といろんな人に聞かされてきたよ。立候補すればわかるけど、選挙運動を一生懸命手伝ってくれるのは、党組織と業界団体。農業、漁業、建設業、郵便局もそう。さまざまな団体があって、各地区で自民党公認候補を応援してくれる。頼りになるんです。

 ところが、業界団体というのは自分の業界が良くなることを中心に考える。それに、支持団体の会員というのは全人口から見れば、ごくわずかなんだよ。自民党員だって多い時でも、全国1億人の中で数百万人ぐらい。つまり、いつの時代でも、世の中の圧倒的多数は党員になってない人間です。そういう無党派がなにを考えているかまで考えないと政治家は務まりません。

 総理になれば、なおさらですよ。自民党総裁だけれども、総理というのは全国民のためのリーダーなの。野党の言うことも聞かなきゃいけない。そういうことを考えて、私は総理としてやってきた。だから、団体の言いなりになるのは党のためにならないと言ったわけだ。「国民あっての自民党なんだ」という考えをずっと持っていたから、自民党が反対していた郵政民営化もできたんじゃないか。無党派を大事にする。今でもその考えは変わらないですよ。

蒲島 政治学的に言うと、小泉総理が現れる以前は選挙にとって「総理は誰でもいい」というのが選挙の理論だったんですよ。選挙結果に対する党首イメージの影響はほとんどない、と。でも、それが森(喜朗)総理、小泉総理の2人が現れたおかげで、党首のイメージというのがいかに投票行動を決める上で大事かということになった。だから、小泉政権というのは大きな理論的な貢献をした。日本の選挙の理論を変えたんです。

「今こういうことを決めてきた」の一言で

元東大生E 我々のゼミで『小泉政権の研究』(木鐸社、2008年)を書くために、総理秘書官をしていた方にインタビューした時、こんなお話を聞かされたことがありました。小泉さんが経済財政諮問会議をやっていた会議室から出てきて、必ずしも調整が終わってないことを報道陣のぶら下がり取材を受けている最中に「今こういうことを決めてきた」というふうに言ってしまった。そうすると、もうそれは決まったことにせざるを得ない、と。小泉さん自身は意図的にそういうことをやっていたのでしょうか。

小泉 経済財政諮問会議は私が総理になる前、森政権の時にもあったんです。構成メンバーは同じだけども、一番の違いは、会議を実質的に主宰する大臣が竹中平蔵さんだったということです。

 竹中さんは学者だから、必ずしも役人の言うことを聞き入れるわけじゃない。今の経済の問題で何が大事かということをとことん議論しようとする。役人と十分に事前調整ができていないことでも、経済財政諮問会議に持ってきて、財務大臣、総務大臣、経産大臣、日銀総裁、経団連代表らとの議論で決めていく。さらに、それを全部議事録に起こして、オープンにした。誰がどういう発言をしたかが誰でも見られるようにしたんだ。

 竹中さんのやり方に対して、反対する人は役人の中にも政治家の中にもいたよ。ただし、あくまでもオープンに議論する中で決めるようにした。議論が収拾つかない時は、私が発言するんだよね。私はどっちかというと黙っていることが多かったけど。それで決まったことは、その日のぶら下がりでオープンにした。

「竹中大臣を辞めさせれば、あんたを応援する」

 やっぱり反対があっても、議論の末にまとまっていくと、それなりの政策になってきたんです。それは、自由な活発な議論を促し、そのための準備をしてきた竹中さんの役割が大きかったと思うな。役人の見解と竹中さんの見解は違う場合があるんだけど、侃々諤々の議論をした後に政治家が判断する。私はあんまり党内の反対は気にしなかったから、最終的にはなんでも自分で判断した。

 ある時、面白いことがあったんだよ。あるかなり有力な政治家が「総理に会いたい」と言って官邸に来たんだ。総裁選がある前に、「竹中大臣を辞めさせれば、あんたを応援する」と言ってきた。私は「それはできない。続投させる」と返事したら、その人は総裁選で私を応援したよ。5年5カ月続いた私の内閣で、ずっと大臣を続投したのは竹中平蔵さん、ただ一人です。
「森さんの閣僚になってくれないか」と頼むと……

元東大生F 竹中さんとはどのような経緯でお知り合いになられたんですか。

小泉 竹中さんは慶応で教えていて、テレビでもいろいろ発言して、活躍していたでしょう。私の友人が親しくしていて、「ああいう人の意見を聞いておいたほうがいいぞ」と言うから紹介してもらって、総理になる前から5~6人で経済政策の議論をひそかにしていた。

 森さんが総理になった時、「竹中さんを何とか大臣にしたい。小泉さん、親しいだろ。口説いてくれ」と言われたの。で、竹中さんと食事して、「何とか森さんの閣僚になってくれないか」と頼んだんだよ。なかなか「うん」と言わないんだ。「私は森派の会長をしているんで、森政権を支えていく立場なんだ。竹中さんが大臣なってくれ。何とかオーケーしてくれよ」と言ったんだけど、頑として言うことを聞かない。「私はその器ではありません」とか「学者と政治家とは違います」とか言われて。

 で、最後に俺が「頼む、頼む」と言っても言うこと聞かないんだよ。「仮に小泉内閣ができたらオーケーします」と言うんだよ。「そんなのいつできるか分かんねえぞ」と言ったんだけれども、俺はその言葉を忘れなかったんだよ。

蒲島 で、総理になって、すぐ……。

小泉 「あんた、小泉内閣だったら受けると言っていたじゃねえか」と言った。竹中さんは「そんなこと言いましたっけ」と笑っていた。それで小泉政権で大臣になった。
安倍さんは経産省にだまされちゃったね

元東大生G 今の安倍晋三さんは、世間では小泉さんが後継者として育てた総理ということになっています。小泉さんが総理在任中、安倍さんを官房副長官、党幹事長、党幹事長代理、官房長官と、いろんな要職につけられた。当時、どのようにお考えになって安倍さんを重用されたのかということをお伺いしたいと思います。

小泉 まず、自民党はそれまでは「派閥順送り人事」が当たり前だったんです。当選回数に応じて、各派閥の推薦で人事が決まる。こういうのを壊さなきゃいかんということで、若い安倍さんを重用した。

 安倍さんは森政権の官房副長官をやっていたでしょう。私と安倍晋三さんのお父さんの晋太郎さんは、同じ派閥で親しかった。安倍さんはお父さんの秘書をしていたから、昔から付き合いもあった。

 その安倍さんが森総理の間、官房副長官として内閣の勉強をしているわけだから、私が総理になった時にはそのまま続投させた。やっぱり、旧来の自民党とは違う、野党とも違うという印象を与えるために、安倍さんというのは絶好の人物だったから。ということで、その後も、官房長官、幹事長として使った。

 ところが、今じゃ、原発の考えは俺と違うんだよ。安倍さんは経産省の考えに毒されていると思うんだけどね。これはわからないね。安倍さんに会うたび、「経産省にだまされるなよ」と言っているんだけど、今、だまされちゃったね。残念なんだけどね。
憲法9条を普通の感覚で読めば、自衛隊は憲法違反

元東大生G もう一つ、質問したいことがあります。安倍政権の憲法に対する考え方についてはさまざま議論があるところですが、そういった現政権の姿勢についてどのようにお考えでしょうか。

小泉 日本国憲法9条は、おかしいですよ。

 2項(前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない)では、「自衛隊は戦力じゃない」と言っているんだから。戦力のない国がどうして国民を守れるの。変えなきゃいかん。海外で武力行使しないというのはいい。しかし、自衛隊に戦力がなかったら持っている価値ないじゃないか。戦力がなきゃ、侵略された場合、防衛できませんよ。

 9条を普通の感覚で読めば、自衛隊は憲法違反ですよ。しかし、今の条文で自衛隊は合憲だと解釈しちゃうんだから、今、日本人というのはいかにもあいまいなことが好きだね。融通無碍、現実に合わせる。

 おかしいんだけども、なんで9条そのものを守ろうとする人が多いのかというのは、あの無謀な戦争に影響がある。第2次世界大戦。今、考えてみれば、アメリカと戦って、勝てるわけがないでしょう。なのに、戦争に突入しちゃった。300万人以上の国民を亡くしてしまった。その後遺症があるんですよ。軍隊忌避、軍隊アレルギーで、この9条ができた。
現実を直視しろということ

 しかし、実際はアメリカの武力があるから今、日本は守られているわけ。将来的に自衛隊は戦力があると認めるのは当たり前の考えだと思うんですよ。

 ただし、それをやるには手順がある。9条の改正を与野党とも選挙の争点にしちゃいかんというのは、私の考え方。野党第1党と合意ができるような改正をするべき。3分の2以上の国会議員が「これは妥当だ」、国民の大半も「そうだな」と思えるような状態で改正をすべきです。そのためにはまだ時間が必要かな。そういう考えを持っている。

元東大生G 閣議決定で9条の解釈を変えるとか、改憲の発議を強行するとか、そういったことについては懸念を持たれているということですか。

小泉 いずれも必要ないと思っています。いざ危機が起こった時、「この9条じゃまずいな」ということが誰にでもわかる。そうなるまで、時間が必要だな。

蒲島 極めて常識の政治ですね。

小泉 現実を直視しろということ。誰が自衛隊は戦力を持たないと思っているか。憲法9条改正というのはいつの日か、自然に盛り上がって、妥当な線に落ち着く。

日本人なら知っておくべき特攻の真実~右でもなく、左でもなく… 当事者の証言とデータから実像に迫る

2018-04-15 20:16:53 | ニュースまとめ・総合
日本人なら知っておくべき特攻の真実~右でもなく、左でもなく… 当事者の証言とデータから実像に迫る


2018年4月15日 13時0分

現代ビジネス


攻撃の成功がそのまま死につながる「十死零生」という、世界の戦争史の中でも稀な作戦ゆえ、戦後70年を超えても未だ評価の定まらない「特攻」。ある者は、「究極の愚策」と罵り、ある者は、国に殉じた若者たちの美談を讃える。そうなってしまった背景には、生き残った負い目から口を閉ざした元隊員たちの一方で、自己正当化をはかった一部の指揮官たちの存在が影響しているのは間違いない。実際に、この作戦はいかに採用され、いかに実行されたのか。神立氏が集めた数百人の元搭乗員、関係者の証言とデータから、その実像に迫る。
元隊員の間でさえ、特攻への評価に温度差がある

太平洋戦争末期の、日本陸海軍の飛行機、舟艇、戦車などによる体当たり攻撃、いわゆる「特攻」は、「あの戦争」の一つの象徴として、いまなお論考が重ねられ、関連書籍が出版され続けている。

かくいう私も、「特攻生みの親」とされる大西瀧治郎海軍中将の親族、副官、特攻を命じた側の参謀、命じられた搭乗員、見送った整備員、そして家族を喪った遺族……数百名の関係者に直接取材を重ね、『特攻の真意――大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』を上梓(2014年。単行本版は2011年)した。

10数年かけて当事者を訪ね歩き、資料を漁り、本を著す作業のなかで気になったのは、任務の遂行すなわち「死」を意味する戦法の異常性ゆえか、特攻関連の情報がいくつかの傾向に偏っていて、中正な立場から書かれたものが皆無に近いことだった。

――特攻がいかに愚策だったかを強調し、「上層部」を罵倒するために史料や数字を恣意的に引用しているもの。それとは逆に、命じる側の自己正当化のため、あるいは「右寄り」の論調を補強するための美化。さらに、「特攻の母」鳥濱トメさんのエピソードのように、情緒に訴え、「泣かせる」読み物。そして、「国のためではなく愛する者のため」と、戦後世代に耳あたりのいい価値観で、隊員たちの精神性を一括りにする物語。

特攻当事者が編纂した戦没学徒の遺稿集も、たとえば『きけ わだつみのこえ』(1949年)と『雲ながるる果てに』(1952年)では、それぞれ「左」と「右」に分けられるほどにニュアンスが違う。当の特攻隊員の間でさえ、「特攻」への評価や意識にはかなりの温度差があったのだ。

二度出撃して、敵艦に遭わず生還したある元特攻隊員は、私のインタビューに、

「特攻が嫌だと思ったことは一度もない。俺たちがやらないで誰が敵をやっつけるんだ。私の仲間には渋々征ったようなやつはいない。それだけは、覚えておいてくださいよ」

と言い、また、四度の出撃から、これも敵艦と遭わずに還ってきた別の元特攻隊員は、

「死ぬのがわかってて自分から行きたいと思うやつはいないでしょう。みんな志願なんかしたくなかった。私も志願しなかったけど、否応なしに行かされたんです」

と言った。また、直掩機(特攻機の護衛、戦果確認機)として、爆弾を積んだ特攻機(爆装機)の突入を見届けた元特攻隊員のなかには、

「離陸してから突入するまでずっと、爆装機の搭乗員の顔は涙でくしゃくしゃで、かわいそうでした……」

と回想する人もいる。その直掩機も、もし途中で敵戦闘機に遭遇したら、爆装機の盾となって、命に代えても突入の掩護を全うすることを求められていたのだ。

人それぞれ、置かれた状況も違えば、感じ方、捉え方も全然違う。「生存本能」と「使命感」のはざま、言葉を替えれば「個体保存の本能」と「種の保存の本能」がせめぎ合う、人の生死の極限状態であり、当事者の数だけ異なった捉え方があるのは当然である。一人の心の内にも、そのとき、そのときでさまざまな感情が去来することを思えば、元隊員たちのどの言葉にもウソはないと思うし、逆にそれが全てではないとも思う。

昭和20(1945)年3月9日、出撃待機中の第二〇五海軍航空隊・神風特攻大義隊の隊員たち。

現在の視点で歴史上の事実を分析することは大切だが、それには常に、当時の価値観を俎上に乗せこれと比較するのでなければ、事実が真実から遊離してしまうし、批判も的外れなものになってしまう。紙を読み、頭で考えるだけでなく、当事者への直接取材が欠かせないゆえんである。

特攻作戦にいたるまでの道のりについてはここでは省き、私の取材範囲は主に海軍なので、海軍を例にとって、特攻についての的外れな批判、ないしは間違った通説をいくつか挙げてみる。――「海軍を例にとって」と、わざわざ断りを入れるのは、陸軍の特攻隊と海軍の特攻隊は、手段は同じでも成り立ちが違い、それを一緒にしてしまうと間違いが生じるからだ。
離陸後、指揮所に機銃をぶっ放してから出撃した者も


まず、特攻隊員が選ばれたのは「志願」か「命令」か。これをどちらかに決めてしまおうとする議論が目立つが、無駄なことである。実際にはケースバイケースで、特攻隊が出撃する以前の昭和19(1944)年8月、日本内地の航空隊で、「必死必中の体当り兵器」(のちの人間爆弾「桜花」や人間魚雷「回天」などを指す)の搭乗員が募集されたときには、はっきりと志願の形がとられているし、志願しても長男や妻帯者は外すような配慮もなされた。

だが、同年10月17日、フィリピン・レイテ島の湾口に位置するスルアン島に米軍が上陸、日本の主力艦隊のレイテ湾突入を掩護するため、敵空母の飛行甲板を一時的に破壊する目的で神風(しんぷう)特別攻撃隊が編成される段になると、なにしろ敵はもうそこまで攻めてきているわけだから、編成には急を要する。

第二〇一海軍航空隊(二〇一空)で、最初の特攻隊指揮官に選ばれたのは、満23歳、母一人子一人で新婚の関行男大尉である。特攻隊編成を命じた大西瀧治郎中将の副官を務めた門司親徳主計大尉は、筆者のインタビューに、

「大西中将としても、死を命じるのが『命令』の域を超えているのはわかっている。だからこそ、最初の特攻隊は志願によるものでなければならず、『指揮官先頭』という海軍のモットーからいっても、指揮官は海軍兵学校出身の正規将校でなければならない。大西中将は、真珠湾攻撃以来歴戦の飛行隊長・指宿正信大尉に手を上げてもらいたかったんです。

ところが二〇一空の飛行長・玉井浅一中佐が、指宿大尉を志願させなかった。指宿大尉が出ないとなると、当時二〇一空に海兵出の指揮官クラスは関大尉と、もう一人の大尉しかいなかった。もう一人の大尉は、戦闘に消極的で部下からやや軽んじられていたこともあり、関大尉しか選びようがなかったんでしょう」

と、語っている。関大尉は玉井中佐からの、限りなく強制に近い説得に応じて、特攻隊の指揮官を引き受けた。残る下士官兵搭乗員も、体当り攻撃の話に一瞬、静まり返ったが、玉井が「行くのか、行かんのか!」と一喝すると、全員が反射的に手を上げた。

昭和20年4月28日、台湾・宜蘭基地から発進する、二〇五空特攻大義隊のブリーフィング。壇上に立つのは司令・玉井浅一中佐

支那事変(日中戦争)、ソロモン、硫黄島と激戦を潜ってきた角田和男少尉は、昭和19(1944)年11月6日、部下の零戦3機とともに飛行中、エンジン故障で不時着した基地で、

「当基地の特攻隊員に一人欠員が出たから、このなかから一人を指名せよ」

と命じられ、

「このなかから一人と言われれば、自分が残るしかない」

と覚悟して特攻隊を志願した。角田さんは、

「昭和15(1940)年、第十二航空隊に属し、漢口基地から重慶、成都空襲に出撃していた10ヵ月の間、搭乗員の戦死者は一人も出なかった。それが、昭和17(1942)年8月から18(1943)年にかけ、ソロモンで戦った第二航空隊(途中、五八二空と改称)は、補充を繰り返しながら一年で壊滅、しかし一年はもちました。

昭和19(1944)年6月に硫黄島に進出した二五二空は、たった三日の空戦で全滅し、10月、再編成して臨んだ台湾沖航空戦では、戦らしい戦もできなかった。そんな流れで戦ってきた立場からすると、特攻は、もうこうなったらやむを得ない、と納得する部分もありました」

と言う。それまでの苦戦の軌跡を十分に知る角田さんは、特攻を否定することができなかったのだ。

志願書に「熱望」と書いて提出した搭乗員のなかには、周囲の目から見ても、本心から志願したに違いない、と伝えられる例もあれば、出撃直前、零戦の操縦席から立ち上がり、

「お母さん! 海軍が! 俺を殺す!」

と叫んで離陸していったという例もある。さらに、離陸後、超低空に舞い降りて、指揮所上空で機銃弾をぶっ放して飛び去って行ったという例もある。角田氏は、出撃前夜の搭乗員が、目を瞑るのが怖くて眠くなるまでじっと起きている姿と、笑顔で機上の人となる姿をまのあたりにして、

「そのどちらもが本心であったのかもしれない」

と回想している。

角田和男さん。右は昭和19(1944)年11月、フィリピンで特攻待機中。左は、昭和20(1945)年、敗戦後、ふたたび着ることのない飛行服姿で撮った1枚。 角田さんは、「私は口下手だからうまく言えませんが、特攻隊員の心情を、この2枚の写真から察してください」と言う

特攻が常態化してからは、隊員の選抜方法も、「志願する者は司令室に紙を置け」というものから、「志願しない者は一歩前に出ろ」などという方法がまかり通るようになり、そしてついには、志願の手順もなく特攻専門の航空隊が編成された。

特攻隊は志願か否か、突き詰めることに意味はない。仮に志願だとしても、積極的志願か、消極的志願か、環境による事実上の強制による志願か、やぶれかぶれの志願か、志願して後悔したのか……その本心は、当事者自身にしかわからないし、現に「命令」で選ばれたことが確実な例もあるからだ。
特攻部隊より通常部隊のほうが戦死率が高かった

また、よく言われる俗説に、

「身内の、海軍兵学校卒のエリート士官を温存し、学生出身の予備士官や予科練出身の若い下士官兵ばかりが特攻に出された」

というのがあるが、これも全くナンセンスである。特攻で戦死した海軍の飛行機搭乗員のうち、少尉候補生以上の士官クラスは769名(資料によって差がある)、うち予備士官、少尉候補生は648名で全体の85パーセントを占める。確かに、数字からは俗説にも理があるように見える。だが、この数字には母数がない。

海軍兵学校出身者のうち、一部の例外をのぞき特攻隊員となったのは、昭和13(1938)年に入校、昭和18(1943)年に飛行学生を卒業した69期生から、昭和16(1941)年に入校、昭和20(1945)年に飛行学生を卒業した73期生までで、その間に養成された飛行機搭乗員は1406名。うち795名が戦死している。

戦死率は56.5パーセント。いっぽう、特攻作戦の主力になった予備学生13期、14期、予備生徒1期の搭乗員は合わせて8673名にのぼり、うち戦没者は2192名。戦死率25.2パーセント。

つまり、海兵69~73期と、予備学生13期、14期、予備生徒1期の搭乗員を比べると、総人数比で86パーセントを占める予備士官、少尉候補生が、特攻戦没士官の85パーセントを占めるのは、単に人数比によるものと見た方が妥当である。

総戦没者数に対する特攻戦死者数の割合は、海兵が15.2パーセント、予備士官、少尉候補生は29.6パーセントだが、これも、特攻作戦開始以前に戦没した海兵出身士官の人数287名を除くと、海兵の数字は23.8パーセントとなり、「特攻に出さず温存されていた」と言われるほどの差は出てこない。沖縄作戦に投入された海軍機はのべ7878機、うち特攻機はのべ1868機で、出撃機数に対する特攻機の割合は23.7パーセントだから、それとほぼ同じ数字である。

士官と下士官兵搭乗員の、特攻戦没者の人数比も同様に説明がつく。「軍隊=身内をかばう悪しき組織」とした方が、特攻を批判するには都合がよいのはわかるけれど、母数を無視するのはフェアな態度ではない。

「十死零生」の特攻隊と、生きて何度でも戦うほかの部隊とで、隊員の精神状態を比較することはむずかしい。だが、単純に部隊の戦死率を比較すると、意外な数字が出てくる。

たとえば、昭和17(1943)年から18(1944)年にかけ、ラバウルで戦った第二〇四海軍航空隊の、18年6月までに配属された零戦搭乗員101名の消息を追ってみると、76名がそこから出ることなく戦死し、残る25名のうち、13名がその後の戦いで戦死。生きて終戦を迎えたのは12名のみである。ラバウルでの戦死率はじつに75パーセント、終戦までの戦死率は88パーセントにのぼる。

それに対して、昭和20(1945)年2月5日、沖縄戦に備え、特攻専門部隊として台湾で編成された第二〇五海軍航空隊は、103名の搭乗員全員が、志願ではなく「特攻大義隊員を命ず」との辞令で特攻隊員となったが、終戦までの戦死者は35名で、戦死率は34パーセントである。

さらに、二〇五空と同じ時期、昭和20年4月から終戦まで九州、沖縄上空で戦った戦闘三〇三飛行隊は、特攻隊ではないが、89名の搭乗員のうち38名が敵機との空戦で戦死、戦死率は43パーセントにのぼっている。戦闘三〇三飛行隊長は、「特攻反対」を貫いた岡嶋清熊少佐である。

――数字だけで語れるものではないことは承知している。だが、沖縄へ特攻出撃を繰り返した特攻専門部隊より、通常の部隊の方が戦死率が高かったという、一面の事実がここにはある。

特攻出撃で、一度の出撃で戦死した隊員も多いが、たいていは数時間前の索敵機の情報をもとにしたり、自ら敵艦隊を探しながらの出撃となるので、4回や5回、出撃して生還した隊員はいくらでもいる。そもそも、特攻作戦最初の、関大尉率いる「敷島隊」からして、4度めの出撃で敵艦隊に突入したものだ。

いっぽう、特攻隊以外の航空隊について、零戦搭乗員の戦友会であった「零戦搭乗員会」が調査したところ、「搭乗員が第一線に出てから戦死するまでの平均出撃回数8回、平均生存期間は3ヵ月」だったという。初陣で戦死した搭乗員も多かった。開戦劈頭の真珠湾攻撃に参加した搭乗員も、終戦までに80パーセント以上が戦没している。何度も出撃し、戦果を挙げて生きて還ることのできる搭乗員は、実際には稀だったと言っていい。

ここまで冷徹な数字が並んでは、どちらが人道的だとか酷いとか、議論しても始まらないように思える。歴戦の搭乗員である角田和男さんが、特攻に直面し、「もうこうなったらやむを得ない」と納得してしまうのも、こんな素地があったからこそなのだ。
特攻は味方より敵の戦死者が多い稀な戦果を挙げた

では、特攻隊が挙げた「戦果」をどう評するべきだろうか。この点、日本側の記録にも不備があり、戦後長い間、連合軍側の情報も限られていたことから、ややもすれば過少に見積もられていた。

連合軍側の死傷者数にも諸説あるが、米軍の公式記録などから、航空特攻によるとおぼしき戦果を拾い上げると、撃沈55隻、撃破(廃艦になった23隻をふくむ)198隻、死者8064名、負傷者10708名にのぼる。日本側の特攻戦死者は、「(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍2531名、陸軍1417名、計3948名である。

これをどのように捉えるか。

「敵艦一隻を沈めるのに70名以上が犠牲になった」「巡洋艦以上の大型艦が一隻も沈んでいない」「隻数ではなく総トン数で表すべき」との識者の声もあるが、これらの意見についても、「海兵出を温存していた」説と同様の偏りがみられる。

特攻隊編成以前、日本の航空部隊が、巡洋艦以上の大型艦を撃沈したのは、昭和18(1943)年1月30日、ソロモン諸島レンネル島沖で、陸攻隊が米重巡「シカゴ」を撃沈したのが最後である。特攻隊編成後(ただし最初の突入前日)の昭和19(1944)年10月24日、艦上爆撃機「彗星」が、米空母「プリンストン」に急降下爆撃で命中弾を与え、撃沈しているが、昭和18年、ソロモン諸島をめぐる戦い以降の、日本のどの航空作戦よりも大きな戦果を挙げたのが、ほかならぬ特攻だった。

日本海軍機動部隊が米海軍機動部隊と互角以上にわたりあった最後の戦い、昭和17(1942)年10月26日の「南太平洋海戦」では、米空母「ホーネット」、駆逐艦一隻を撃沈、ほか四隻に損傷を与えた。日本側の沈没艦はなく、損傷四隻、搭乗員の戦死者148名、艦船乗組員の戦死者約300名。

「敵艦を〇隻沈めるのに〇人が犠牲になった」という論法にたてば、このときも、敵艦一隻を沈めるために特攻と同様、70数名の搭乗員が戦死している。米軍戦死者は航空機、艦船あわせて266名だから、沈没艦こそ出なかったものの、人的損失は日本側の方が多かった。

それが、特攻作戦では、結果論とはいえ、死者数だけをとっても、敵に特攻戦死者の二倍以上の損失を与えている。特攻だけに気をとられていると気づきにくいことだが、味方が失った人命より敵の死者の方が多いという例は、太平洋戦争においては稀である。

昭和19年10月30日、米空母フランクリンに特攻機命中。角田和男少尉は、直掩機としてこの模様を上空から見ていた

現代の日本人が感情的に受け入れがたいのは承知であえて言うと、戦闘の目的は、より多くの敵の将兵を殺傷し、敵の戦闘力を弱体化すること。そう捉えれば、特攻隊の挙げた戦果はけっして小さなものではなかった。

また、最初の特攻隊の目的が「敵空母の飛行甲板を破壊」することだったように、そもそも大型艦を250キロや500キロ爆弾を積んだ飛行機の体当たりだけで撃沈できるとは、特攻作戦の渦中にいた者でさえ思っていない。沈まないまでも戦列を離れさせればよかったわけで、「撃沈した艦船の総トン数」で戦果を評価するのは、当時の実情とは大きくズレた見方と言える。


特攻隊員を、「特攻兵」や「兵士」と呼ぶのも正しくない。陸海軍の階級は、下から兵、下士官、准士官、士官(尉官、佐官、将官)となり、下士官以上は「兵士」ではないからだ。元軍人の多くが存命だった20年前なら、うっかりこのような表記をすれば当事者から注意を受けたものだが、いまやチェックする人もほとんどいなくなってしまった。

ではどう呼ぶか。「特攻隊員」、「将兵」である。「士官」であれば、たとえ任官したばかりの若い少尉でも「将」であって「兵」ではない。これらを「兵士」と一括りにするのは、警察官に例えると、巡査部長も警部補も警部も警視もみな「巡査」と呼ぶのに等しい、かなり乱暴なことである。

昨今の「兵士」という言葉の使われ方からは、「搾取する側(上層部)」と「搾取される側」をことさらに分けようとする、プロレタリアートな階級史観の匂いが感じられる。だが、「上層部」はつねに愚かで無能、「兵士」はその被害者、と雑に分けてしまうと、責任の所在がかえって曖昧になってしまうのではないか。
「俺は死ぬ係じゃないから」


「上層部」や「司令部」を批判し、糾弾するのは簡単だし、俗耳にも入りやすい。陸海軍は73年前に消滅しているから、いくら悪口を言っても身に危険が及ぶ心配もない。しかし、「上層部」や「司令部」の「誰が」「どのように」命令をくだしたかまで掘り下げなければ、いつまでも批判の矛先が曖昧模糊としたままで終わってしまう。

海軍の特攻でいえば、その方針を最初に決めた軍令部第一部長(作戦担当)・中澤佑少将(のち中将)、第二部長(軍備担当)・黒島亀人大佐(のち少将)の存在は、もっと注目されてよい。昭和19(1944)年4月4日、黒島大佐は中澤少将に、人間魚雷(のちの「回天」)をふくむ各種特攻兵器の開発を提案、軍令部はこの案を基に、特攻兵器を開発するよう海軍省に要請した。

8月には人間爆弾(のちの「桜花」)の開発もはじまり、9月、海軍省は軍令部からの要望を受けて「海軍特攻部」を新設している。「回天」も「桜花」も、もとは現場の隊員の発案によるものだが、中澤、黒島の二人が同意しなければ、形になることはおそらくなかった。

中澤は、「策士」「切れ者」と評されるが、自ら主導したマリアナ沖海戦の大敗に見るように、作戦家としての能力には疑問符がつく。大西瀧治郎中将が日本を発つ前、東京・霞が関の軍令部を訪ね、「必要とあらば航空機による体当たり攻撃をかける」ことを軍令部総長・及川古志郎大将に上申し、認められたという、よく知られた話がある。

及川は、「ただし、けっして命令ではやらないように」と条件をつけたと伝えられる。だが、このことを、その場にいたかのように書き残した中澤は、実際にはその日、台湾に出張していて不在だったことがのちに判明している。

黒島は、昭和16(1941)年、聯合艦隊司令長官・山本五十六大将の腹心として、真珠湾攻撃作戦を事実上立案したことで知られるが、昭和17(1943)年、ミッドウェー海戦敗戦の責任の一端は彼にもある。この黒島が、特攻兵器の開発を中澤に提案した。

では、戦場の「上層部」はどうだったか。フィリピンで、大西中将の第一航空艦隊に続いて、福留繁中将率いる第二航空艦隊からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を送り出したことがある。このときの特攻隊の生還者のなかには、

「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞと。それに対して福留中将は、握手もおざなりで、隊員と目を合わさないんですから」

という声がある(このシーンは現在、NHKのWebサイト、「戦争証言アーカイブス」の「日本ニュース」第241号―昭和20(1945)年1月―で見ることができる)。当事者ならではの実感のこもった感想だろう。昭和20年5月、軍令部次長に転じた大西中将は、最後まで徹底抗戦を呼号し、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。

特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。

大西の最期については、多くの若者に「死」を命じたのだからという醒めた見方もあるだろう。しかし、特攻を命じ、生きながらえた将官に、大西のような責任の取り方をした者は一人もいなかった。

中澤佑少将は、台湾の高雄警備府参謀長に転出し、台湾から沖縄へ出撃する特攻作戦を指揮した。その中澤(終戦後、中将に進級)が、大西の自刃を聞き、

「俺は死ぬ係じゃないから」

と言い放ったのを、大西中将が軍令部に転じたのちも台湾に残った副官・門司親徳さんが耳にしている。門司さんは、

「大西中将は、『俺もあとから行くぞ』とか『お前たちだけを死なせはしない』といった、うわべだけの言葉を口にすることはけっしてなかった。しかし、特攻隊員の一人一人をじっと見つめて手を握る姿は、その人と一緒に自分も死ぬのだ、と決意しているかのようでした。

長官は一回一回自分も死にながら、特攻隊を送り出してたんだろうと思います。自刃したのは、特攻を命じた指揮官として当たり前の身の処し方だったのかもしれない。でも、その当たり前のことがなかなかできないものなんですね」

と回想する。

第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉。昭和20年5月13日、台湾にて、大西の軍令部への転出に際し て撮影された1枚

戦後、昭和21(1946)年から平成17(2005)年まで、特攻隊が最初に突入した10月25日に合わせ、東京・芝の寺にかつての軍令部総長や司令長官、司令部職員や元特攻隊員が集まり、「神風忌」と称する慰霊法要が営まれていた。

参列者の芳名帳には、及川古志郎、福留繁、寺岡謹平をはじめ、特攻に関わった「上層部」の指揮官たちの名前が、それぞれ生を終える直前まで残され、良心の呵責を垣間見ることができる。だが、中澤佑、黒島亀人という、最初に「特攻」を採用したはずの軍令部第一部長、第二部長の名はそこにはない。

戦後、かつて特攻を命じた側、命じられた側の関係者が60年間、ひそかに集っていた「神風忌」慰霊法要の参会者名簿
無駄死にではなかったことの根拠

特攻作戦を実行するとき、大西瀧治郎中将が、腹心の参謀長・小田原俊彦大佐に語った「特攻の真意」が、前出の元特攻隊員・角田和男さんを通じて残っている。大西中将は昭和9年、角田さんが予科練に入隊したときの教頭、小田原大佐は昭和16年、角田氏に計器飛行を一から教えた飛行長で、いずれも浅からぬ縁のある上官だった。

小田原大佐はその後、戦死したが、特攻出撃を控えた角田さんに、

「教え子が、妻子をも捨てて特攻をかけてくれようというのに、黙って見ていることはできない」

と、大西中将から「他言無用」と言われていたというその真意を話してくれたのだ。それは、要約すれば、特攻は「敵に本土上陸を許せば、未来永劫日本は滅びる。特攻は、フィリピンを最後の戦場にし、天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ、講和を結ぶための最後の手段である」というものだった。

しかもこのことは、海軍砲術学校教頭で、昭和天皇の弟宮として大きな影響力を持つ海軍大佐・高松宮宣仁親王、米内光政海軍大臣の内諾を得ていたという。つまりこれは、表に出さざる「海軍の総意」だったとみて差し支えない。

角田さんは戦後、戦没者の慰霊行脚を続けながら、慰霊祭で再会した門司親徳さんとともに、大西中将の真意の検証を続け、ついに最初の特攻隊編成に立ち会った第一航空艦隊麾下の第二十六航空戦隊参謀・吉岡忠一元中佐と、大西中将夫人・淑惠さんから、間違いないとの証言を得た。

特攻隊員たちの死を「無駄死に」であったとする論評もあるが、それは戦争の大きな流れを無視した近視眼的な見方によるものだ。

「フィリピンを最後の戦場に」という大西の(つまり海軍の)思いは叶わなかったが、和平を促す「ポツダム宣言」が連合国側から出されたこと、日本が、それを多数決でなく「天皇の聖断」という形で受諾したことは、日本本土を敵の上陸から救い、「和平派」と「抗戦派」との間で起こりかねなかった内乱も防ぎ、多くの国民に復興と平和をもたらした。若者たちが、命を捨てて戦ったからこそ、瀬戸際で講和のチャンスが訪れ、日本は滅亡の淵から甦ることができた。

――ただし、それは、あの無謀な戦争を防ぐことができたなら、払う必要のなかった大きすぎる犠牲であったことは確かである。

戦没者に「無名戦士」などいない。一人一人に名前があり人生があり、家族があり、もしかしたら恋人もいたかもしれない。そんな一人一人がもし命永らえていたら、どれほどのことを成し遂げたかを思えばなおのこと、戦争の惨禍は想像を絶する。

日本を、あの無謀な戦争に導いた為政者や陸海軍上層部、それを煽り続けたマスメディアの責任、そして戦争に一時は熱狂して後押しした国民の姿は、「政府が」とか「世間が」という漠然とした議論ではなく、「どこの誰が、どうした」というところまで、これからも掘り下げていかねばならないだろう。

過ちを繰り返さないために、反省することは大切だ。しかしその反省は、あくまで「事実」に基づいたものではならない。現代の高みから感情的に特攻隊員を無駄死に呼ばわりしたり、逆に美化したりするところからは、教訓など生まれてこない。

「われわれは英雄でも、かわいそうな犠牲者でもない。ただ自分の生きた時代を懸命に生きただけ。どうか特攻隊員を憐憫の目で見ないでほしい」

――数年前に亡くなった、学徒出身のある元特攻隊員が遺した言葉である。

「パスワードも覚えられない社員は危機意識低すぎ!」でネット炎上 専門家に管理のコツを聞いた

2018-04-15 15:44:31 | ニュースまとめ・総合
パスワードも覚えられない社員は危機意識低すぎ!」でネット炎上 専門家に管理のコツを聞いた


2018年4月14日 17時0分

J-CAST会社ウォッチ

会社のパソコンや銀行、アマゾンや楽天などの通販サイトに個人のスマートフォン...... 日常生活ではいくつものパスワードを使うが、全部覚えている人はどれだけいるだろうか。そのうえ、会社のセキュリティー担当から「定期的なパスワード変更」の指示が入ると......

インターネットで、「パスワードを覚えられない危機意識の低い社員が多いことに唖然とする」と、セキュリティ担当者の怒りの投稿が炎上ぎみの騒ぎを起こしている。「何様のつもり」「やり過ぎ」という批判だけでない。じつは最近、「パスワードの変更は不要」という潮流になっているというのだ。
何回もパスワードを変更するのは古い、変えないのが最近の潮流

話題のきっかけは、女性向けサイト「発言小町」(2018年3月11日付)への投稿。会社の情報システム部門でセキュリティ対策のマネージメントをしているという人が、セキュリティ強化のため、「3か月に1回だったパスワード変更を1か月に1回にする」と伝えたところ、社員から不満の声があがった。そればかりか、社員の中には2つのパスワードを使い回して交互変更している者もいて、「社員のセキュリティ感覚の低さは病気としか言えないレベルだ」と、悲憤慷慨した。

社員がパスワードを3回間違えるとログインできない設定にしているが、パスワードを忘れてパソコンの初期化を頼みにくる者が後を絶たない。「彼らは『紙に書かないように言われた決まりを守ったからだ』などと言い訳をし、私に逆ギレの態度だ。どうしたら社員の危機意識を正常にできるだろうか」とアドバイスを求めたのだった。

この投稿に、「社員の危機意識なんてどこでもそんなもの。そこを社員に負担をかけずに安全策を講じるのがセキュリティ担当者の仕事ではないか」と、猛反発する声が大半。

たとえば、「あなたはシステムのお守りが仕事かもしれないが、社員はそうではない。毎月パスワードを変えさせれば、どこかに記録しておかないと忘れるのがふつうだ。パスワードを覚えさせることに執着せずに、他のもっとユーザーに優しい認証方法を検討すべきだ。カード認証や指紋認証、顔認証、それらを合わせた二要素認証などいろいろある」。

また、「何回もパスワードを変更する方法は古い。最近はパスワードを変更しなくてもいい風に変わっている」と、投稿者のセキュリティ担当としての「資質」に疑問を投げかける人も多くいた。

なかには、「投稿者は力を入れるところを間違えている。2017年に米国国立標準技術研究所(NIST)が出したガイドラインでは、パスワードの定期的な変更はしないほうがいい旨が記されている。日本でも内閣サーバーセキュリティセンター(NISC)や総務省からも同様のことが言われている。パスワードを数字やアルファベットの大文字小文字を組み合わせた複雑なものにする。そして定期的な変更はせず、流出時は速やかに変更するのが最近の流れだ」と、専門家のような指摘もあった。
専門家に聞く「自分にしかわからない複雑なパスワードを作る」

さらに、その複雑で他人にはわからないパスワードの作り方と覚え方についてはこんなアドバイスがあった。

「たとえば『5m16YK2』。5歳でマリちゃんに片思い、16歳でヨシコさんと付き合い、その後結婚して2児に恵まれた。これなら自分にしかわからず、覚えやすいでしょう」

確かに総務省は2017年11月、ログインなどに使うパスワードの管理の方針を「定期的に変更すべき」から「定期的な変更は不要」に変えた。同省ホームページの「国民のための情報セキュリティサイト 安心してインターネットを使うために」の中には、こう書いてある。

「実際にパスワードを破られアカウントが乗っ取られたり、サービス側から流出したりした事実がなければ、パスワードを変更する必要はありません。むしろ定期的な変更をすることで、パスワードの作り方がパターン化して簡単なものになることや、使い回しをするようになることのほうが問題となります」

パスワードを安全に管理保存するオススメ無料ソフト

さて、勤め先やわが家のパソコン、スマホなどでパスワードをいくつも使い分け、どうやって覚えるかなどセキュリティに悩んでいる人も多いだろう。

J‐CASTニュース会社ウォッチ編集部では、パスワードの管理の仕方を専門家に、さらに聞いた。

―― このシステム担当者の、セキュリティの方法に問題はありますか?

専門家「情報セキュリティの理想は、社員の利便性を損なうことなく、セキュリティを高めることですが、そのためには専用のアプリケーションやシステム導入などコスト面での投資が必要になります。投稿者の企業の規模やコストなどはわかりませんが、コストをかけずにやれることとしてパスワードの変更期間を短くするという対応をしています。一概にパスワードのルールといっても、さまざまありますが、パスワードの使い回し自体をシステム側で制限しておくことや、パスワードの入力規則を指定することで安全性の高いパスワード設定を求めることはできます。それをやらず、ただ単にパスワードの変更期間のみを短くしたので社員に負担がかかっています。また3回間違えればロックアウトというもの厳しすぎます」

―― 最近は「パスワードの変更は不要」といいます。変わったのはなぜですか?

専門家「必ずしも、まったく変えないほうがいいという訳ではないですが、そんなに効果がないというのが正確です。アルファベットの小文字・大文字・数字を組み合わせ、複雑なパスワードにすれば、たとえば8桁の英数字合計36種類で、約2兆8000億通りの組み合わせになります。物理的に総当たりでパスワードを突破することは不可能に近くなります。パスワードを何度も変更すると、家で使っているパスワードを会社でも使い回したりして、逆に突破されるリスクが高まることも考えられます。企業であれば、情報システム担当者が対策をとることができますが、自宅でマルウェア(悪意を持って作成されたソフトウェア)化したソフト『キーロガー』に感染していた場合、キーボード操作をすべて読み取られ、特定の文字列が繰り返し使われることから、IDやパスワードが読み取られることもあります。『パスワードリスト攻撃』といって、そうした個人もしくは企業から漏えいしたIDとパスワードのリストを使って不正アクセスが行われるケースもあります」

―― ということは、小文字や大文字、数字を組み合わせ、ケタ数が多いパスワードをいくつか作り、用途に応じて使い分けることが大事なわけですね。しかし、メモに残さずに記憶するのは大変です。

専門家「全部を記憶することは現実問題として難しいですね。ただ、パスワードのメモをディスプレイなど他人の目に触れる場所に貼ったりすることはもちろんですが、パスワードをパソコン内にテキストなどで保存しておくことも問題です。それよりは手帳にメモ書きして、絶対に他人の目に触れない場所に置いたり、施錠できる場所に保管したりするだけでも十分です。ただ、今回の投稿者への回答にあった通り、パスワードに頼らずに生体認証やICカードを利用することやワンタイムキーなどの二段階認証を導入したほうがセキュリティは向上しますが、相応のコストはかかりますね。有名なIDとパスワードを管理する無料のソフトで『ID Manager(高木健一/WoodenSoldier)』があります。これは暗号化して保存しますし、長く複雑なパスワードや多くのパスワードを管理しなければならない場合でも管理できますから、安心です。オススメで、私も使っています」


広島・高2女子刺殺 警察の手を逃れた35歳男の“潜伏生活14年”

2018-04-15 15:42:49 | ニュースまとめ・総合
広島・高2女子刺殺 警察の手を逃れた35歳男の“潜伏生活14年”



2018年4月15日 10時26分

日刊ゲンダイDIGITAL

 2004年10月に広島県廿日市市で起きた県立高2年の北口聡美さん(当時17)刺殺事件で、13日、県警に殺人容疑で逮捕された土木会社社員、鹿嶋学容疑者(35=山口県宇部市東岐波)は、「一度も捜査線上に浮かんでこなかった」(捜査事情通)という。

「殺害現場で犯人のものと思われる指紋や、聡美さんの爪の中からは皮膚片も見つかり、ダンロップ社製スニーカー(26~27センチ)の跡も残されていた。聡美さんの妹の目撃証言から事件当時20歳ぐらい、身長165センチほどのガッチリ体形と特徴も分かっていたし、似顔絵もあった。それでも14年近くシッポをつかませなかったわけです」(前出の捜査事情通)

 急転直下の逮捕に至ったのは、今月に入って鹿嶋容疑者が暴行事件を起こし、3日に取り調べを受け、その際に採取された指紋やDNA型が現場のものと一致したからだ。暴行事件のきっかけは職場の同僚とのいさかい。今月初めに「打ち合わせで返事をしない」との理由で同僚の尻を蹴ったという。裏を返せば、それまでは警察の厄介になる、指紋を採取されるような“トラブル”を一度も起こさなかったわけだ。

 近隣住民によると、鹿嶋容疑者は会えばあいさつをする程度で、地味な印象だったという。

「用心して生活していたのでしょう。聡美さんと祖母をメッタ刺しにした凶悪犯なのに、廿日市市から100キロ以上離れた宇部市の土木会社で十数年、それなりに職場で信用されるぐらい真面目に働いて、若手の指導役も任されていました。独身で、一戸建ての自宅で家族と同居し、逮捕前日まで何食わぬ顔をして軽自動車に乗って出勤していたそうです」(地元マスコミ関係者)
 鹿嶋容疑者は取り調べに対し容疑を認め、逆上したり、涙を流したりせず、任意同行の際も抵抗しなかったという。県警は聡美さんと鹿嶋容疑者の接点、動機についても捜査を進めている。

日刊ゲンダイDIGITAL

「カネが欲しくて」コンビニ強盗 中国籍の少年を逮捕 東京・大田区

2018-04-15 15:41:33 | ニュースまとめ・総合
「カネが欲しくて」コンビニ強盗 中国籍の少年を逮捕 東京・大田区



2018年4月15日 13時55分

産経新聞

 コンビニエンスストアに刃物を持って押し入り、現金を奪ったとして、警視庁大森署は強盗容疑で、中国籍で住居、職業不詳の少年(17)を逮捕した。

 「カネが欲しくてやった」と容疑を認めている。

 逮捕容疑は3月18日未明、東京都大田区大森中のコンビニ「セブン-イレブン大田区大森中3丁目店」で、アルバイト店員の男性(28)に果物ナイフのような刃物を突きつけて「カネを出せ」などと脅し、現金約8万6千円を奪ったとしている。

 周辺の防犯カメラの映像などから少年が浮上。大田区内では、4月11日にも別のコンビニに刃物を持った男が押し入り、現金約40万円が奪われる強盗事件があり、関連を調べている。

パチンコホール売上は47カ月連続で前年比マイナス、経産省発表

2018-04-15 15:40:04 | ニュースまとめ・総合
パチンコホール売上は47カ月連続で前年比マイナス、経産省発表



2018年4月15日 9時43分

財経新聞


 経済産業省が発表した特定サービス産業動態統計によると、クレジットカード業やインターネット付随サービス業が好調な一方、パチンコホール業が不調となっていることが分かった。ただし業界における好不調の動きに合わせて、従業者数が増減しているわけではないことも明らかになった。

【こちらも】苦境が続くパチンコ業界 出玉はどうなる?

■対事業所サービスではリース、エンジニアリングが好調
 13日、経済産業省が2月分の「特定サービス産業動態統計速報」を発表した。これは、景気動向の判断材料にすると同時に産業政策や産業育成などの資料とするために、特定のサービス産業の売上高などを調査するもので、1987年から開始し、随時業種の追加や削減を行い、現在は広告業、葬儀屋、学習塾など19業種の20種類を対象としている。

 2月の対事業所サービス業では、情報サービス業(前年同月比:-1.7%、3カ月ぶりマイナス)、広告業(同-0.7%、2カ月ぶりマイナス)の2業種がマイナス。他の8業種がプラスだった。プラス幅の大きい業種では、物品賃貸(リース)業(同+14.7%、2カ月ぶりプラス)、エンジニアリング業(同+9.8%、5カ月ぶりプラス)、クレジットカード業(同+8.6%、54カ月連続プラス)がある。また、インターネット付随サービス業(同+1.6%)は101カ月連続、自動車賃貸業(同+3.9%)は54カ月連続で前年同月比プラスとなっている。

■個人向けサービスではゴルフ、パチンコが不調
 個人向けサービス業では、ゴルフ場(前年同月比:-2.0%、3カ月連続マイナス)、ゴルフ練習場(同-4.5%、3カ月連続マイナス)、パイチンコホール(同-9.4%、47カ月連続マイナス)の3業種がマイナスだった。 プラス幅の大きい業種では、外国語会話教室(同+7.1%、11カ月連続プラス)、葬儀業(同+4.8%、2カ月ぶりプラス)、遊園地・テーマパーク(同+4.5%、2カ月ぶりプラス)、結婚式場業(同+3.9%、3カ月ぶりプラス)などがある。

■クレジットカードは伸びるも常用従業者数は横ばい
 資料では3年分の内訳を併載している。好調な業種からクレジットカード業、不調な業種からパチンコホール業の推移を見てみよう。

 クレジットカード業の2015年における取扱高は46兆7,724億1,100万円。これが16年に49兆7,259億5400万円、17年に54兆218億8,800万円となっており、2年間で取扱高が約15%増加している。

 ただし事業所数は、15年の1,347カ所から、16年に1,324カ所、17年に1,318カ所と減少しており、常用従業員者数も、15年の3万7,247人から、16年の3万7,950人、17年の3万7,561人と余り増えていないことが分かる。

■パチンコホール売上は2年間で15%減
 パチンコホール業の2015年における売上高は4兆1,957億6,800万円。これが16年に3兆7,258億4,500万円、15年に3兆5,887億6,900万円となっており、2年間で売上高が約15%減少している。

 ただし設置台数を見ると、2015年の65万9,556台から、16年の65万8,610台、17年の65万8,881台とあまり減っていない。また従業員数も2015年の3万3,975人から、16年の3万3,466人、17年の3万3,596人と微減に留まっている。

 もっとも警察発表などを見てもパチンコ市場は縮小しており、昨年1月に岡山のゲンダイや、9月に群馬の新栄商事が倒産するなど、パチンコホールの運営が厳しくなっているのは間違いないだろう。

道を尋ねた黒人少年に向かって発砲、白人男を起訴 米中西部

2018-04-15 15:38:40 | ニュースまとめ・総合
道を尋ねた黒人少年に向かって発砲、白人男を起訴 米中西部



2018年4月15日 14時5分

CNN.co.jp

(CNN) 米中西部ミシガン州の住宅地で、道を尋ねようとドアをたたいた少年に発砲したとして、白人の男が起訴された。

少年(14)は5日朝、バスに乗り遅れて約5.6キロ離れた学校まで歩こうとしたが道に迷い、民家数軒のドアをノックした。

少年が地元のCNN系列局に話したところによると、被告の男(53)の家を訪ねた時、まず出てきた女性に怒鳴られた。学校へ行く道を教えてほしいと説明を試みたが、男がショットガンを持って出てきたため逃げ出したという。

男は逃げる少年に向かって一発撃ったとされる。少年にけがはなかった。

地元保安当局には何者かが家屋に侵入しようとしているとの通報があり、警官が出動した。少年と男は警察署で事情聴取を受けた。男は逮捕され、殺意を持った暴行の罪で起訴された。

検察によると、男の説明と防犯カメラの映像が一致しなかったという。有罪となれば、最大で終身刑を科される可能性がある。

少年の母はCNN系列局に、「確実に憎悪犯罪だった」と話した。

男は少年から16キロ以上の距離を置き、持っている銃器を全て提出することなどを条件に保釈された。罪状認否では無罪を主張し、裁判官に「もっと深い事情がある」と訴えた。

地元当局者によると、男は元消防士で地域社会と強いつながりを持っていたという。次回の出廷は24日に予定されている。

日本でも「投げ銭」が徐々に普及、コンテンツのあり方を変えるか?

2018-04-15 15:36:56 | ニュースまとめ・総合
日本でも「投げ銭」が徐々に普及、コンテンツのあり方を変えるか?



2018年4月15日 13時0分

THE PAGE


 ブログなどの気に入った記事に対して任意でお金を投じてもらう「投げ銭」が日本でも徐々にではありますが、浸透しているようです。コンテンツを生み出すためには、最低限のお金が必要ですが、現状ではネット広告くらいしか収益源はありません。投げ銭の習慣はコンテンツのあり方を変えるのでしょうか。

 仮想通貨に関する情報をWebサイトで提供しているあるブロガーは「気に入った記事には投げ銭をお願いします」というメッセージと仮想通貨のアドレスをサイトに掲載したところ、ある記事には1万円を超える投げ銭があったとツイッターで報告しています。

 仮想通貨という特殊な分野であることも影響していると思いますが、それでも、個人が書いた有料ではない1つの記事に好意で1万円が送られるというのは少々驚きです。

 実は中国などでは気に入った記事に読者が投げ銭を送るというのは一般的となっており、それだけで十分に生活が成り立つブロガーも数多くいるそうです。

 この二つの事例に共通しているのは送金の簡便さです。仮想通貨であれば、指定されたアドレスを自身のウォレット(リアルな通貨であれば銀行に相当する)でコピペするだけですから(QRコードでの指定も可能)、極めて簡単にお金を送ることができます。また中国の場合、アリペイに代表されるような簡便な決済手段が普及しており、他人にお金を送ったり、お金を受け取ったりするのは極めて簡単です。

 クレジットカードでの課金や、銀行振り込みは手続きが面倒ですから、投げ銭をしたいと思っても、躊躇してしまう可能性があります。またカード決済の場合には、そのインフラを導入するために一定のコストがかかりますから、少額の投げ銭しか期待できない場合には、採算が合いません。

 欧米各国では、路上のパフォーマンスにお金を投じるのは当たり前ですが、日本ではこうした習慣はありません。しかしネット上での課金や送金がもっとラクになれば、日本でもこうした習慣が定着してくる可能性があります。

 コンテンツを作成するためには、それなりの能力や労力が必要となり、決してタダではありません。日本でも投げ銭の文化が拡大すれば、ネット上のコンテンツの質も向上するかもしれません。