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沖縄芝居実験劇場代表:大田守邦さん【玉城盛義】襲名公演の案内です!

2011-11-20 10:40:09 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他
【命の結晶を継ぐ】と書かれた案内の文書(ご招待)をいただきました。ブログで御紹介してお礼にしたいと思います。可能な限り玉城盛義となった大田さんの晴れ姿をこの目で捉え応援したいと思います。チラシの表情は大きな使命(スクブン)を背負った45歳の大田さんの心粋とたいへんさを伝えています。まじめでやさしい性格の新【玉城盛義】のお姿ですね。

玉城盛重、玉城盛義の戦前の沖縄芸能史の中での位置づけは大きいです。玉城流が沖縄で流派としても大きな家を築いている背景は芸能史に照らした時、きわめて自然の流れだと言えるでしょう。その辺は沖縄芸能の女性の表象を見ても戦前の辻との係わりをみてもその流れは、全くもって正統に、道筋がそこにあるという事で、どなたも否定できないかと思います。

昼の部は芸能学会会長三隅治雄氏、夜は田中英機氏がお話するプログラムになっています。つまり中央の芸能研究の権威のあるお二人のサポートを得ているという事ですね。そこはやはり沖縄芸能は中央の権威にぶらさがっている構造だということをあからさまに示しているわけですが、日本の中の沖縄だから、システムとしては、もうどうしょうもないものも流れていますね。どうしょうもないのか、その中央を超えてアジアや他の地域に勝手にクロスして結びあえる空間がありえるのだろうか?それも金の流れを見ると国際交流財団などが資金を供出する機関であり、国にすり寄らないと飛べない、深められない構造があります。沖縄県に降りてきてかすめ取られる膨大な資金(予算)が、かすめ取られる事なく沖縄独自に資金を使い、その中の文化予算を増やす政策ができにくい体制でもあるようです。沖縄県は文化関連予算と観光産業をリンクさせ、大胆に文化をサポートするビジョンを目指した方がいいかと考えます。

ところで三隅治雄氏や田中英機氏は中央の芸能研究家として突出した方々です。沖縄詣での多いお二人です。しかし、なぜ沖縄の研究者が独自に自信をもって大田守邦さんを評価することができないのだろうか?彼らより地元の人間の方がよりその芸のありようを知悉しているはずなのです。沖縄の文芸評価でもそうですが、何も東京の視点をありがたがる必要はあまりないと思います。沖縄独自の尺度で美意識を持ち、評価をしてもいいのです。沖縄基準なり基盤なりで判断し、即アジアや世界とリンクしていくことを今後目指した方がいいと考えるのですが、資金の流れや褒章の流れが日本の天皇を中心とするシステムの上に成り立っているゆえに、絡められる芸能ですね。

琉球・沖縄の独自性は今後世界のウチナーンチュや世界のマイノリティー文化圏とのリンクも目指してほしいものです。比較研究やコラボレーションは大いに色々な角度からやられていいと考えます。地球市民としての視点がさらに問われてくる時代の到来です。かつ文化の独自性、その美、社会の集合的無意識のアイデンティティーや価値観が問われる時代に、双方性が求められています。

政治的に経済的に軍事的に沖縄を収奪してやまない日本という国が沖縄の伝統・文化まで収奪し利用する構造はそこに歴然としてあるのはその通りでしょう。こちらも利用しているという点は否定できませんが、その宣教師的な役割が三隅さん田中さんということになるのだろうか?素敵なお二人だけれども、沖縄の研究者のお話もお聞きしたかったですね。

沖縄芝居実験劇場の初期の頃から大田さんは幸喜さん、菅野さんたちと頑張っていて、『さらば福州琉球館』などのお芝居などとても良かったですよね。

幸喜良秀さんがその辺の事情もお詳しいと思うのですが、幸喜先生がお話なさるべきですね。沖縄芝居実験劇場代表として、真喜志康忠さんが演じた重層な役柄も大田さんが演じてきたのですよね。『花の幻』では盛重の役を演じきりました。

その演出は皆幸喜良秀さんです。沖縄演劇界において幸喜良秀さんの革命的精神とその実践は高く評価されるべきだと考えています。幸喜さんは久しぶりに『中城落城』の演出をされるのですね。新作組踊とあります。死の愁嘆場です!新作は死の場面を表に出すということになります。従来の古典組踊との相違はあきらかで、沖縄芝居をかみ砕いた新作組踊はその統合になりますね。それをどう批評するか?いろいろ書きたいと思います。琉球王府時代の組踊と近代以降の組踊に違いがあってそれはそれでいいとも言えます。昨今の修復活動の欺瞞性は、近代以降の組踊と琉球王府時代の組踊の差異を曖昧にごまかして復元していることですよね。復元ならば、どうして金武先生の手を大事にしないのですか?

日本の植民地【沖縄】を諸に感じさせる襲名公演にならないことを念じています。大田さんのお人柄には感銘を受けますね。彼は若いのにしっかりしています。期待も大きいです。

日米の狭間で罠にかけられたような沖縄、とアジアからきた演出家は話していました。文化まで罠にかけられた沖縄であってはなりません。文化とは何だろう?琉球・沖縄芸能の中軸になる言語は日本語ではありません。ウチナーグチ:琉球語であり沖縄語ですよね。それを方言と言ってきました。明治12年以来です。2009年までですか?ユネスコが独立言語、諸語として認めた年まで、およそ130年間、日本語の下部言語だったのです。ところが、沖縄の知識人や国立劇場おきなわのリーダーでさえ方言と言って澄まし顔なのが、現在の沖縄です。脱植民地の始まりは自らの言語権を取り戻すことです。そしてウチナーグチで語る運動を始めなければですね。

沖縄を中心に考えましょう。日本の芸能を中心に考えることはないのです。日本からの影響関係があったとしても独特な琉球・沖縄の感性の上に成り立った芸能や演劇ですから、それを大事にするということですよね。触媒としての大和文化の接触はそれはそれで大いに沖縄独自のものを創りだすばねになりました。それでいいのです。でも規範が大和にあって沖縄にはない、という事はやはりオカシイと思います。

沖縄の大学人は大和の偉い研究者の目線で見ていく、評価していく眼差しになっていますよね。柳田や折口などの目線で評価しています。最も日本の中の沖縄になった時点でもう取り込まれていますから、廃藩置県の頃も琉球人のセンスは半分以上は消えていたのでしょう。オリエンタリズムの眼差しが無意識にそこに溢れています。日本基準です。沖縄基準ではありません。おかしい現実です。文化も、文化こそ、そうです。どう文化を脱植民地化するか、言語の脱植民地化とおおいに絡んでいますね。

難しい問題ですが、じっくり考えてみたいものです。大田守邦さんの玉城盛義襲名記念公演のご成功を念じています。

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