佐伯順子が「いき」がつきつめれば花柳界の美学だということで、それはそれですばらしいのですがー、と書いていて気になっていた。
花柳界の美学=いきの構造、それが日本文化の美意識のすべてであるかのようにとらえるのはどうなのか、と。非常に深淵な哲学と思われているものが、実は花柳界という道徳のコミュニケーション世界における男性の生活という、きわめて個人的な文化的振る舞いのなかから出てきているということは、特筆すべきことでしょう。
お母さまが芸者で男爵の妻になったのだけれど岡倉天心との恋愛がもとで、離縁されたのでした。九鬼周造さんが最後までつれそった奥様は花柳界の方で祇園に寝泊りして人力車で京都帝国大学に通ったといわれる「いきな哲学者」だったようですね。
1888-1941、53歳で逝かれています。若いですね。明治の政治家、文豪、そして学者と花柳界とは深いつながりがあったのですね。戦後はアメリカ流民主主義が取り入れられてきたので、また異なる風流になっていったのですね。
色気によって救われるという思想があった九鬼さん。女性を苦界に落としめながら崇高な役割を与えるというこういう矛盾した二元的な態度。
観音様によって救われるという感じは西洋にはない。キリスト教ではXXXは地獄である。
最も束縛された女性の中にしか解放された女性はいないという逆説がある。←解放された男性はどこに?
要するに「いき」は「浮かみもやらぬ、流れのうき身」といふ『苦界』にその起源をもっている。んんんなるほどー。
解放、解放されない、自由、不自由、囚人、非囚人、渋み、甘み、苦味、上品、下品、意気、野暮、地味などなど、しかし安田武さんなどは、下品のなかの「いき」を語ったりしていますね。
縦縞、
媚態 意気地 諦め
いき、意気、生き方、ずれ、斜め、兵隊は直線で、愛は円か楕円、円や楕円ではユニフォーム集団になれない。確かだね。円は踊りだすんだね。円は平和の象徴?愛の象徴?交わらない二本の線があり、いつまでも冷たい風が吹いているのもきつい、ので人は円を求め続けるのだね。それでも二元性がそこここにあったりしてー。