
浜松に住んでいて、法被を着ていないとなんだかそれだけである種の疎外感を感じざるをえない。法被と腕章をつけていることで、「内側」に所属していることを意味するから、別に練りに参加しなくたって、祭りに積極的に関わらなくたって、それでも「内側」の人間であることを自負することができるのである。法被というのはハレ着であると同時に、その時だけは地域運命共同体の成員としての地域アイデンティティを強く感じさせてくれる衣装なのである。
朝から法被を着て浜松の街をうろちょろする中学生や高校生、しかも女性たちによっては髪をまとめておもいっきりおめかしをする。普段、洒落た服を身につけたい人々も、お祭りの三日間は法被を羽織っていたいのだろう。たくさんの観光客やまつりの外側にいる人々との違いを胸をはって強調したいのと同時に、自分がまつりと関わる共同体に属していることを、このときばかりは目に見える形で自慢したいのかもしれぬ。
ガムランを始めたばかりの頃、着慣れない演奏衣装を誰よりも早く着て、なるべく長いこと身につけていたいと思ったことがある。自分は演奏者なんだ、というある種の誇り(無茶苦茶下手だったと思うのだが)がそうさせたのかもしれない。衣装というのは不思議な力を持つものだ。
5月5日にまつりを終えても、僕はそんな若者たちに見えない法被を羽織り続けてもらいたいと思う。そんなまつりを支えていく未来の世代として、胸を張って欲しいと思うのだ。祭りが終わったとたん「浜松には何もない」「浜松は寂しい」「田舎だ」と声高に語る前に、どうすれば祭りの期間のような活気が出る街になるか真剣に考えてもらいたい。そのためには、各人が見えない法被をまとい続けることだ。そうすれば、いつか浜松は活気を取り戻すに違いないと思うからだ。