Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

木津茂理さんの民謡ライブを聞いて思ったこと

2013年01月13日 | 家・わたくしごと
 民謡歌手、木津茂理さんの実験ライブに行く。マイクなしのライブなので、声の響き、太鼓のリズム、三味線のサワリがストレートに届く。一番前で聞いたせいもあるけれど、一言で言えば「凄い!」。歌の旋律やコブシまわしもさることながら、その歌詞の力が聞き手の身体に容赦なく降り注ぐのだ。

 ぼくは音楽学者というせいもあるけれど、無意識のうちに、民謡を「日本の民俗音楽」として、日本のさまざまな民謡と自分との距離を当距離に保ってきた気がする。東京の新興住宅地で生まれ育ったぼくは、自分の故郷の民謡を強く感じる経験がなかったし、自分の住む社会の中で地域の民謡を聞く機会などなかったからだ。東京音頭も、中学や高校の頃、よく行った神宮球場で歌ったヤクルト・スワローズの応援歌で、「民謡」という感覚がない。だから身近な民謡とか自分の故郷の歌というものを感じたことが全くなかった。

 そんなぼくが、今日、不思議な経験をした。宮古島出身の大島保克さんの歌を聞いたとき、これまで感じたことのない不思議な気持ちになったのである。一つ言えることは、他の民謡との距離よりもずっとこの曲が近くに感じられたこと。

 民謡というのは、本来、その地に根ざした歌だったわけで、その地方の人々のアイデンティティと深く結びつくものだ。民謡がまだ生きている世界で育った人々は、今なお自分の故郷の民謡を聞くと、懐かしい風景やら、自身の過去や古い友人たちのことを思い浮かべるに違いない。それがなかった私は、民謡を「日本の歌」として、傍観することしかできなかった。しかし今、ぼくは13年間住んだ沖縄の響きの歌を聞いたとき、不思議とそんな感覚に陥ることができる。木津さんの歌う民謡の持つ歌の力はすごいと思う。それだけで民謡をすばらしさを十分に堪能することができるだろう、しかし誰にも見られることのない個々の観客の生き様は、その歌を別の意味で感動に導いてくれる。当たり前のことなのかもしれないけれど、ぼくは今日、民謡に新しい発見ができた。と同時に、沖縄が自分にとってどんなに大事な場所なのかということを、木津さんの歌を通して気づかされた。