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どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

盤龍鏡

2010年04月06日 08時03分56秒 | 卑弥呼
きょうは、鏡の側面に刻まれた文字を解釈します。

持田25号の変形画文帯神獣鏡
宮崎県西都原市に、持田古墳群があり、この鏡が出土しました。訂正、西都原⇒高鍋市

文献 鈴木重治「日本の古代遺跡」25宮崎 保育社1985
鈴木重治は、鏡面が変形しているので、変形の画文帯神獣鏡とされています。鏡には、4獣が配置され、側面に刻まれた文字を「火鏡」と記す。

はたして、火鏡なのかどうか。これを検討します。

1 七海の解釈 
金石文は、漢字の部主を省略するケースが多くみられます。

1 全体的な特徴は、なにか。
火編の右の蜀を書かない。
龍の左だけを刻む。
全体として、燭龍と記されています。

2 龍の下の月に、書き加えがある。
カラスのように、首を斜めにしてみると、よくわかる。
立月の下は、なぜか月の中の横棒二本でよいのに、ひとつ多い。
・・・余す一は、海主一。雨主一の洒落なのか。

また、頭を右に傾けて読むと、火人 と読める。肥人です。
そして、月の右下をのばし、これと一、の組み合わせで、个(カ)も考えられる。
すると、个火人となる。
个は、カ、カン。カはひとつ。カンは、的につける布の意味です。
ゆえに、个火は、カカまたはカンカです。

言い換えると、燭龍に書き足した部分は、
華火人(夏華人)、または、漢火人となります。

さらにいうと、前者は、九州の肥國、火:肥人。後者は、東北の大韓国となり、皆、倭種でした。もまた産鉄の人々でした。

2 燭龍(しょくりゅう)
この鏡を盤龍鏡とみなします。
中国神話において、燭龍は、また、祝融ともいう。盤龍鏡は、燭龍が蘇生したのを記念して作ったのであろう。

山代國の宇治から阿蘇山へ飛んできた神、建磐龍尊(たけいわたつのミコト)を神八井耳尊の後裔が祀る。阿蘇神社の祭神です。
ここは、カルデラ湖あり、神仙池という。池は、鏡現象を伴う。
景行天皇が、八代の豊村へ無事着けたのは、不知火で、人工の火ではないという。火山の火が、池に反射されて、立ちのぼる水蒸気や雲に映っていたのであった。
建磐龍は、建を取れば、磐龍:盤龍(ばんりゅう)となります。

3 隋書俀國伝(たいこく)の記事
阿蘇山がある。その石は、故なく火が起こり、天に接する。俗に(神)異として、祷祭(じゅさい)を行う。カッコは七海挿入。
これは、景行紀の不知火と合致します。

4 京都祇園八坂神社
八坂神社の護符「ちまき」の書に、三字あり。函火鋒と記載。
函は、阿蘇外輪山に囲まれての火口です。
火の一字は、大と併用の二字ですから、大火となります。
この下に火炎のギザギザ模様の画文帯意匠があります。

日本では、日の切っ先を丸四天という。漢字は摩利支天で、梵語はマリーチでした。ヤバイ國:野馬一國で、野馬(かげろう)の始めの意味でした。
5 卑弥呼の本名
卑弥呼の名は、少名日子建猪心命です。「すくなひこ」は、まだ夜が明けないころ。猪の牙は、陽のかげろうの切っ先とよく合います。これも、人物特定の証拠のひとつでした。決め手は、梁書が、國を入れず、魏志のいう祁馬臺(キバコ)としています。よく合致します。臺(タイ)は、壺(コ)の誤字ですが、倭人が申告して、わかるようにしたとみます。

宇佐市では、571年、菱形池に、鍛冶翁が顕現した。
その後、宇佐の傍らの八坂神社ができたと推定します。宇佐市大元山の南の熊野地名も、卑弥呼の守り神でしょう。
以上は、狗奴國でした。
そして、卑弥呼以前の拘奴が70年、これ以前は、倭奴でした。

なお、変形画文帯神獣鏡は、現在、尾道市耕山寺の所蔵品です。

平川 南の解釈
国立民族博物館監修「金印から正倉院文書まで」朝日新聞社2002
このAの解釈で、平川は、火鏡とした。鏡字の右側の竟を採用しているが、
似ても似つかない字にして、読者に見せています。
漢字を改ざんしたと、看做します。結果は、あとで、タタル、祟ります。
持田25号 宮崎県児湯郡高鍋町(図のA)
幡枝古墳 京都市左京区幡枝町(図のB)

金石文3(東大寺山鉄剣)

2010年04月05日 00時15分38秒 | 卑弥呼
前回の金石文2-5に、当日、追記しました。見直してください。


図の文字は、一字ではなく、二字です。

東大寺山鉄剣の銘文

原文 
中平囗囗。五月丙午。造作囗刀。百練清剛。上応星宿。下避不祥。
(囗は不詳の文字。)
文字資料
古代史発掘6 小野山節編「古墳と国家の成立ち」講談社昭和50年
この文献の東大寺山鉄剣の項は、金関恕が、担当者です。

七海の解釈
中平二年。五月丙午。造作丶又刀。百練清鋼。上応星宿。下避不祥。
注記 丶は、主の古字です。漢音チュ、呉音シュの音です。

図の二字は、支、文では、ありません。埼玉稲荷山鉄剣で、「丶」は、頻繁に出てきました。

丶(主)と又(有)の二字を、一字のように見せています。
図は、さびがついていますが、よくみれば、判別できます。

以下、解説します。

1 造とは、みやっこ、御家っ子のこと。和迩氏です。(後述)
  造作と続けて読まない事。

2 丶又は、主又(チュウユウ)。「しゅゆう」主の有という人物です。
又=有。ユウの音です。
  例示、有は、中国では人名に冠してつける。善にも悪にも使用。有虞氏であれば、虞氏で、ソグド人です。交易で儲けた大金持ちです。

日本では、善が大巳貴尊で、悪が義理の兄達の八十神です。有狗奴、有拘奴の系譜が示されています。この場合、魏志にいう狗奴國の協力とみます。

3 天理市のこの土地は、和邇氏の拠点です。
また、南に穴師兵頭神社あり、孔子(あなじ)は、風の別名です。
神武天皇は、山越えして日の出方向を背にし、東の谷から西の倭盆地へ入って、暗雲の中、突然、風穴が空き、金鶏が出てこれに助けられた。この土地を孔舎衛(色衛は龍衛)としている。大阪側での戦いのときは、日下は、孔舎衙で、日に向かうのがよくなかったと、反省していた。この貢献で、穴師は山代國造となる。神武紀には、すでに刀があります。

4 造が主有の刀を作った。言い換えますと、和邇氏が穴師兵頭神社の鍛冶主「又」という人物に作らせた。龍神山あり。山代國造天目一命の後裔が協力していると考えます。

A この刀は、公孫氏から貰った物ではない

1 丶又を、支と観た京都大学福山敏男。
2 文と解したのは、京都大学梅原末治、大阪府弥生文化博物館の金関恕、東京大学西嶋定生の三人です。
これらの結果は、根拠なしの記述で、間違っています。

なぜならば、崇神62年に、塩乗津彦が登場するからです。
和邇氏の乙国葺は、この刀をもって、任那の宰相についている。これを「みこともち」と称す。そして、崇神62年、子の塩乗津彦と交代している。

なお、和邇氏は第五代孝昭天皇の後裔、のちの仲哀紀で、福岡県岡垣町の岡県主熊鰐は、和邇の兄弟で、仲哀天皇と神功皇后を迎える。この地も拠点です。また、対馬にも、鰐津があります。

B 任那へ派遣の和邇氏

中平二年(184年)この年は、中国で、黄巾の乱の年です。
時代は、開化天皇と卑弥呼です。
開化が亡くなって、崇神62年、任那の宰相に、塩乗津彦がゆく。

184年には、すでに、任那があります。
東大寺山鉄剣は、父・乙國葺のために、184年に作ったのでしょう。

では、いつから任那ガ在るのでしょうか。
その60年前、124,64、後4年、前56・・・切りがないから止め、息(や)めます。・・・これは、おそろしく、古い?

なお、崇神の時代も卑弥呼です。次の垂仁の始めの頃も、卑弥呼で、卑弥呼は、247年11月20日に、崩御しています。(先述)

とにかく、先学が、根拠なしに、書くこと自体が異常です。
公孫氏が、主又刀を下賜するという可笑しな話でした。

なぜならば、すでに、倭奴國は、後漢の光武帝から、57年に金印をもらっていて、柵封しています。いまさら、一介の遼東軍事・公孫氏から、刀を貰う事が、可笑しいと判断できます。

みなさん、学者が何の依拠なし。あるいは、中国文献の記載が間違いと、云っておきながら、根拠を示さずに記載する学者の見解を疑ってください。稚拙、幼稚と看做します。鵜呑み、または、素通りしないでください。
逆に、ここから、新展開が可能です。

任那問題は、難題としておきますが、意外と簡単に解けるかもしれません。


巻向臨時ニュース

2010年04月02日 16時47分40秒 | 卑弥呼
纏向遺跡の新聞記事に物言いをつける。

2009・11・11以来、6か月を過ぎました。
シンポジウム「卑弥呼はどこに? 邪馬台國と纏向遺跡」

朝日新聞社主催で、3月20日、開かれた。3月25日に、同紙に掲載。
参加者
菅谷文則 奈良県立橿原考古学研究所
千田稔 奈良県立図書館長(歴史地理学)
和田萃 京都教育大学名誉教授(日本古代史)
武田佐知子 大阪大学教授(日本古代史)
玉城一枝 奈良芸術短大非常勤講師

以下、概要よりも、七海が注目する点のみを記しました。

1 今年は、邪馬台國論争が、始って100年目に当たる。
箸墓の築造時期は、卑弥呼の時代ではない。巻向は、書紀での天皇の宮の一つとある。(菅谷)

2 発掘担当者は、3世紀前半までで、國内最大の建物。
さくの跡が建物に近接、高床式と推定している。
周辺では、大量の祭祀土杭群や國内最古のベニバナ花粉が見つかっている。(発掘:橋本輝彦・桜井市教育委員会主査)

3 魏志倭人伝の経路で、「海のかなたで書かれたもの、信頼度は低い」とし、日本側の資料で記述を補う必要性を強調。(千田)

4 梁書倭伝に、卑弥呼の後継者、台与の後に男王が就いたとの記述があるから、「この男王が、大和朝廷の初代王・崇神天皇ではないか」と畿内説を支持した。三輪山周辺の3代の天皇の宮の場所を知ること。(和田)

5 魏が卑弥呼を女王と知らずに男王の服を与え、卑弥呼もそれに従って一時、男装した(武田)

七海の全般的感想
この程度の記事では、進んだ民間の研究家は、不満を持つ。
専門的学者ならば、上記1の書紀の言う天皇の宮殿から出発すべきで、3、4、5の記事では、突っ込みが足らないと見るでしょう。

七海の検証
1)上記3の千田発言の否定・
魏志の距離の証拠は、壱岐島の方300里で、凡その見当が付きます。
魏志の千里は、76.5kmで、すでに、在野の道家康之助が証明しています。また、谷本茂も証明。自分勝手な憶測は不要です。また、日本側の記事で補う必要があるならば、トライしてから、発言して下さい。

2)上記4の和田発言の否定
梁書の諸夷伝・俀國条(たいこくじょう)では、臺與(たいよ)の後は、男王がなったと明記されています。都が移った記事は、在りません。

A俀國は、女のなよなよした国です。魏志では、壹與(いよ)です。
臺與は、後漢書のいう邪馬臺國の臺です。これで、両書の記述は矛盾します。
梁書がわざわざ、臺與としたのは、後漢時の国を暗示し、もとの邪馬臺(やばたい)の国の男が継いだと、看做します。

B魏志に、卑弥呼は「有男弟佐治國、少有見者」と明記。
国を佐治する男弟を有し、見(まみ)えることは、少なかった。弟に会う事が少なかった。弟が省略された文章です。
佐治の意味
その国は、大倭をして一大率を置き、交易を監督させる。弟が、一大率という助け(佐治)を遣っている。
この二つの記事から、大倭と倭。大倭王と倭王を区別しています。
これで、倭王卑弥呼と弟(大倭王)が、明確にできます。また、別の所に両者が居ることも解ります。

C よって、邪馬臺國は、東へ移ることは、ありません。埼玉稲荷山鉄剣の銘文がこれを証明しています。邪馬壹(やばい)は、531年まで続いています。

邪馬臺國の東遷説は、未だに考古学者に根つよくありますが、七海は、勝手な創作と看做しています。

3)上記5は、武田の歴史創作と看做す
 魏志は、女王卑弥呼と明記。武田は、錯誤・転倒したとみます。
武田には、バジリク古墳の金人の服を復元、優秀な論文ガ在ります。しかし、今回は、気が動転されたのでしょう。

まだ、書くことがありますが、基礎的な3点のみにとどめました。

金石文2-3

2010年04月02日 05時39分47秒 | 卑弥呼

江田船山鉄剣(3)

都市牛利
都市は、道教用語であろう。

都市牛利の都市は、道教からきている。
物事の始まりは、一です。
一で始まり・・・十で完結。十は、自然の道。完全を意味する。
平安期に十王信仰が盛んになり、現在も各地に残る。
道教は、仏教と違って、現世志向です。生きている者を供養する。そのため、生きているうちに再審議する。八番目、八王は、平等王、九王は、都市王、十王は、五道転輪王。
仏教の各々、百日、一年、三年と対応する。
仏教では、死後、百回忌(平等王)、一周忌(都市王)、三回忌(五道転輪王)に対応する。ちなみに閻魔王は五七日です。
都市の初見は、「とふち」(旧カナ遣い)これだと思う。

ところで、三国志・蜀の名将諸葛孔明は、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と唱えた。一から十を数えれば、魂も生き返ると。現に、死せる孔明、司馬仲達をうごかしました。また、古帝王夏后「禹」をまねた蛇のような歩きをする。禹歩という。いにしえの事をよく知った人です。当然、老子、道教も知っていたのであろう。
余談ですが、本名は、葛亮で一字姓です。諸葛は、他人が呼ぶので、葛氏はそのまま放置しています。二字姓ではありません。
いにしえの葛天子の後裔でしょう。

人物特定
和名抄、筑前鞍手郡内六郷
① 新北 爾比岐多 にひきた
② 金生 加奈生  かなふ
③ 二田 布多多  ふたた
④ 生見 伊無美  いむみ
⑤ 十市 止布地  とふち 
⑥ 粥田 加郁田  かゆた
都市は十市で止布地です。隣の宮田町に都市八幡社がある。

先代旧事本紀。尾張氏に六人部連ら祖 妙斗米命。物部氏に六人部連ら祖 安毛建美命がいる。
十一をピックアップします。 

太田 亮 九州の十市郷 
筑後三毛郡に十市郷あり。弦田物部氏であろう。
筑後竹野郡二田郷も物部です。なお、新潟県弥彦神社近くにも二田物部あり。

奈良県 奈良の十市郡 
当時は山辺郡であろう。その南に、磯城郡(城下郡、城上郡)、十市郡、高市郡、葛城郡・・。十市は、石上神宮の神宝管理者、物部十市根大連からの由来であろう。
現在、奈良市の行政区で、帯解あたりを十市(とおいち)という。

成務天皇紀(300年代)
肥前は松浦郡、現在の唐津市は、末羅國(まつら)です。国造は尾張氏の分支氏族、穂積臣同祖矢田稲吉です。(国造本記)
菜畑遺跡の石包丁で穂を摘み、積む。相応しい。なお、当地は、末盧國(まつろ)ではありません。

すでに見たように、熊本県江田船山の名旡利弖は、六人部連です。江田船山を真北に行くと、鞍手町の六つ岳や剣岳の近辺に着く。この辺の十市が都市牛利の根拠地であろう。後に都市八幡神社ができている。六人部連都市牛利あるいは物部連都市牛利でしょう。

六人部連の由来

易経の八卦のひとつで、坤(こん)の六二で、大吉です。

既に見たように、火明尊、饒速日尊の後裔氏族、尾張氏、物部氏がセットで六代つづけると決めたのであろう。都市牛利は、名前で物部連十市牛利です。都市は十市と同じ。十市の市は、蜃気楼の意味です。蜃気楼には、山市、海市あり。先祖の饒速日尊(にぎはやひ)は、いわば太陽の蜃気楼、偽の日を冠するグループで、稲田の後光の元です。市は蜃気楼のことだから、よく似合う名称です。

日下(くさか)の草香る がよく当てはまります。

金石文2-2

2010年04月01日 07時37分02秒 | 卑弥呼
江田船山鉄剣(2)

難升米、都市牛利
238年遣使の難升米、都市牛利は、尾張、物部の系譜にでてくる六人部連です。

先代旧事本記の尾張氏、物部氏の系譜
両氏の祖の本名は、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊。
櫛は、奇つまり妙の意味です。ニギハヤヒともいう。

1)天香語山命(尾張氏の遠祖)  
 天村雲、天忍人、天戸目、建斗米の弟の
6代目妙斗米(六人部連等祖)・・・57年漢倭奴國王(印)
2)宇摩志麻治命(物部氏遠祖)  
 味熟田、大矢口宿禰、鬱色雄、伊香色雄(開化朝)の子の三男が8代目安毛建美(六人部連等祖)
ただし、六人部連の後裔の名前はないが、襲名していると想定できる。伊香色雄(いかがしこお)が、開化天皇の大臣だから、171年の時代と合致します。その子が都市牛利です。

六人部連等の祖・・・少々解説を要する。

1 无利弖・・白石太一郎が(むりて)とよむが、おかしい。
ムリ手と言う人はいない。「むとりで」と読みます。
六人は、(むったり、むとり)、 弖は(て)で、神武紀の可美真手である。宇摩志麻治は、宇摩志麻手ともいう。(先代旧事本記)、五十迹手の手(日本書紀参考)。

2 无は無の意味であるが、八卦にのみ使う字である。おそらく、六二の大吉であるから、験担ぎしている。

3 難升米は、難の津の「ますめ」で、妙斗米と漢字が違うが、升は、十分の一斗とすれば、十、一(とおいち)と読める。都市を暗示している。

4 都市牛利も物部の系図から出てこないが、物部は、福岡県鞍手郡・六つ岳を拝する都市八幡神社、このあたりの物部氏であろう。

奴さんらは、お頭がよすぎるから、七海は、何度もこの系図を書き、カラスのように首をかしげる。そのたびに、世代があわないので諦めていた。しかし、直に言わない連中。頓知の利いた連中、解釈に難儀するから、これを難戯れ(おにやらい)というのか。むしろ、鬼がいついている。

横田川
ところで、この刀を服する者は、・・横田川の恩を得る。
みなさん、いかに、考えられますか。
砂鉄が取れる。横田川の場所は、唐津市の浜玉町です。

1尾張氏の支流、穂積臣矢田稲吉は、末羅国造です(成務紀)

2横田川で、神功皇后は、細鱗魚を釣りました。(風土記逸文)

3横田川の上流には、川上神社がある。取石鹿文:川上梟師でした。砂鉄を取る人です。熊襲とも言います。これは、狗奴で、日本武尊の時にでてくる熊襲梟師兄弟です。西の強者ですが、本拠は、肥前の大和町です。弟は、筑後の大和町です。

神功皇后の細鱗魚の釣った地点は、鏡山の頂から300里でした(風土記逸文)

下の図を見てください。正確無比です。
7.65×0.3=2295mでした。グーグルで検証のこと。

余談 きょうは、四月ばか。
豊前市に、嘯き八幡宮があります。うそぶくの名詞で、嘯きです。
一年についた嘘を洗い流す。これを嘘代え神事という。
トラが嘯くは、吠えること、おおほらふきは、男の甲斐性とでも、しておきます。