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どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

金石文1-3

2010年03月29日 05時38分16秒 | 卑弥呼


埼玉稲荷山鉄剣(3)

誤釈総括
現在までの誤った解釈を総括しておきます。

間違いのキーポイント
上記の4字をいかに解釈されますか。
この世に無い漢字です。

1右側の縦書き2行は、この世に無い字です。これに気が付いて考えます。すると、一字の様でいて、一字ではない。
答えは4行です。⇒訂正 4字2行
主の乚(かくれ)しし、辛亥(年)。
2左上は、臣とすれば、誤りです。
丅尸丄の三字で、1字のようにしている。
3左下は一瞬、鹵のような字にみえるが、違います。
占の「はこ」の中に、力と一を入れた字で、
占力一の3字です。
以上で、文章が繋がります。
無理に解釈すると誤ります。

先学の誤り
獲加多主を、雄略天皇(ワカタケル)として、下記の文献は、間違って解釈した。
京都大学教授上田正昭も、同じ解釈であった。
続いて、後学の小川良祐らは、22年経っても、先学の解釈を疑わなかった。

(1)京都大学教授岸俊男、奈良国立文化財研究所狩野久、田中稔の文字解読結果を依頼者埼玉県教育委員会(浜中英田)が発表した。
(2)シンポジウム「鉄剣の謎と日本古代」学生社1979
井上光貞、大野晋、岸俊男、斉藤忠、直木孝次郎、西島貞生。
(3)小川良祐、狩野久、吉村武彦編著
「ワカタケル大王とその時代―埼玉稲荷山古墳」山川出版社2003

漢字は、一種の絵文字的で、部首にくっつけて、新しい字ができる。漢字は、感じるようにできている。遊ぶ人もある。
鉄剣の文章は、間違えるように、仕組まれていたのでしょう。

辛亥年
みな、471年としたが、大野晋は531年と後日変更し、井上光貞と朝日新聞紙上で、論争している。
辛亥年は、60年ごとに、171、231・・・471、531です。
471年では、雄略天皇が、生きていて、加羅は、滅亡していないから、交易の監督官一大率の役目は、まだ続いています。
結果は、近江毛野臣が、加羅を滅亡においっやった。そして、531年、継体天皇も死し、加羅も解体した。交易の監督官・一大率の役目も終わった。
531年が根拠です。
継体紀の注書きは、後世の後学が確かめることになっています。百済:伯済の本記によるのでした。

そして、亥は、いのしし、「しし」でもあります。
卑弥呼の本名:少名日子建猪心命の猪と合致します。
結果的に、先学は、一大率や卑弥呼の就任年171年も見抜けなかったと思います。

上田正昭は、津田左右吉の信奉者であった。この鉄剣で、辛亥年を471年として、津田の言う帝紀、旧辞の編纂は、雄略紀に遡ると判断した。上田は、津田を越えたと。間違いでした。

以上、「船頭多くして、船、山に上がる」としておきます。
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gooのみなさん、昨年、9月13日から、延べアクセス数が17760になりました。
ありがとう。

●文献、歴史学者の解説の錯誤に対する批判
この件は、明確な根拠を示せば、一向に構わないのです。是は是、非は非です。ただし、根拠が不明確であれば、単に、非難・誹謗中傷になります。


金石文1-2

2010年03月28日 00時40分17秒 | 卑弥呼
埼玉稲荷山鉄剣(2)

獲加多主
これは「ワカタチュ」の音です。主(チュ、シュ)
丶は主。当時の天皇の雅日本主(わかやまとぬし)をさす。
開化天皇の本名:稚日本根子日子大日日尊です。


大 王
大::長。長皇子で8代孝元天皇の長兄大彦尊。

其 児・・・箕児。皇子、王。
京都市護王神社、和気清麻呂は王。三国遺事の脱解王が、わが
国では、六歳で、皆、王となる。28王ありという。以上2例参照。

乎獲居
乎は漢音コ、呉音オ。呼の漢音コ、呉音ク。オワケではない。コ
ワケです。卑弥呼の呼は、三国史記新羅本紀の卑弥乎の乎と一
致する。したがって、乎獲居は、八代目である。七代目の緒将別
を葬っている。
紛らわしいのは、書記に、乎別臣がありますが、別人です。

猪将別
上は、犭へん、下は、扌へんの二文字を一字のようにみせている。
上は、猪。下は、もつ。もつは、扶、拘、担、拓、拍、持の六字あり。どれを採るかの問題です。紛らわしい。
宮崎県西都市(訂正西都市⇒高鍋市)の持田古墳を暗示。しかし、手偏は、棒の横に出るが、この字は出ない。この人物は、猪持別尊ではない。
爿部です。牆(ショウ)の字の爿部は、垣の意味です。
将の字のへんで、猪将別となります。

一大率
天の字は一と大の組み合わせたもの。天を一と大に分離して記載。
証拠は、顕宗紀に、月神が貢献したので桂に大田を与えよ。壱岐
島は祭祀遺跡がある。月神は、天の御中主の使者です。天の御
中主は、宇佐市の御許山(大元山)の祭神で、北極点をさす。こ
の時代、この神が見守っているから、一大國と。一大率という。
率は、ひきゐる、の名詞「ひき」です。

鉄剣の製作者 
第8代孝元天皇の長子大彦尊が、鍛冶師「柴百」につくらせた。(開化天皇の勅により、大彦尊が頼んだと考える)
制作地は、桜井市金屋で、狗奴國が協力している。

当時の天皇(主)
辛亥531年崩御の継体天皇の時に乎獲居が葬儀した。
一大率の功積は、9代開化天皇の時まで遡る。はじめの主も途中の主も、最後の主々も天皇を指す。主は、すべて天皇です。
9代開化~26代継体まで。18代およそ360年間。天皇平均在位期間20年。参考、継体は五十歳で即位。二十代安康は三年足らずの在位となります。
一大率は、全七代で、一代平均就任期間は五一年。着任は十歳台。年齢は適合します。
これで、神代紀で、皇孫の命は短いと出ているが、臣は、長生きでした。

まとめ
鉄剣の製作年 
171年 製作地 桜井市金屋の海石榴市観音の辺り。「つばいち」とよむ。ここも、金屋。市は、斎[いつく]:鋳つく。
一大率 初代武淳河別尊。
(辛亥年、171年に二丈町深江の伊都国に着任)
    二代目 豊韓別
............三代目 高橋別
    四代目 多沙支別
    五代目 果日
    六代目 風披余
    七代目 猪将別 以上は、被葬者です。
............八代目 乎別 先代の功績を金象嵌して葬儀した。

課 題 
磯城の斎宮とは、特別な石、三重県斎宮の石、鹿島大神宮の石、宇佐のお局石と同じような石があるにちがいない。
そして、斎は、鋳つきと考えられます。
鍛冶師の柴百は、だれか。
神武紀に登場の山代國造天目一命、この後裔で、狗奴であろう。
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3月27日の閲覧者数は、493でした。有難う。

金石文1[稲荷山鉄剣]

2010年03月27日 00時46分09秒 | 卑弥呼
この図も拡大できず、”七海半太郎”で検索、他のサイトで見てください。

刀に彫りこんで、文字が書かれています。これを金文と言います。
石の場合を石文、これらをまとめて金石文と言います。

金石文は、銅の字を同で代用するなど、簡略化される。
また、文章は、ひねってあるから、解読を確実にしないと、とんでもない解釈となる。

埼玉稲荷山鉄剣(1)
1979年10月19日朝刊、金象嵌の金石文を解読します。

七海の解読
丶乚辛亥年、七月中、記、乎獲居、丅尸丄、上祖名、意冨比垝其児多加利足尼、其児名弖巳加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比、其児名加差披余、其児名猪将獲居、丅尸丄。
世々、為杖刀人首、奉事丶来至今、獲加多丶支占力一大王、寺布一斯鬼宮、時五国佐治天下、令作此百練利刀。記、吾奉事丶根丿丶丶也。
(七海注記)
1「丶」は主。 主のうえのチョボは、「丶」の漢字。
2乚(イン)は、隠れる。
(最初の2字は、4字です。縦に右から左へ読む)
3臣のような字は、古字では、丅は下、丄は上。
下尸上の三字を一字のようにしている。
4尸はつらねる。
5比垝は率(ひき)。
6其児は、竹かんむりを省く。其の児としない。
箕児(キジ)で、王(みこ)、皇子(みこ)の意味。
7多は大。 8猪将の将は、爿(ショウ)へん。
9占の口の中は、力とその下に一を記す三文字。占力一。大王の10大は長の意味。
11大王の王は天皇の皇子。
12寺は侍で近づく。 13布は磯城、推古紀参照。布の下に一ガ入る。
14一斯鬼宮は斎宮(いつきみや)と発音する。
15五口は五国(いつこく)、即ち伊都國の意味です。参照:神功皇后が何時を伊都と同じに使用した。
16此百は金屋の鍛冶師の柴百、紫伯、些百という人物が考えられる。
17練は上下に切って、練り分けるの意味、二刀を作くる。
18一大率と膳臣のためのもの。
19吾の丅がない字は、下が無いのいみで、頓知をきかす字。
531年で、一大率の役目が終わった。
20乎獲居(こわけ)。一から七代の尸(しかばね)をさす。
21「丿」は至の古字。
22丶丶は主主。主は9代開化天皇~26代継体天皇まで。

訳 文 
主の乚れしし辛亥年、七月中、乎獲居は、上から下へ尸ねて記す。
上祖の名は、
①大率王大軽足尼、②王名豊韓別、③王名高橋別、④王名多沙支別、⑤王名果日、⑥王名風早、⑦王名猪将別、上から下の尸(しかばね)である。(丸囲み数字は筆者が挿入)
世々、杖刀人の首と為し、主に奉事し、今に至る。
獲加多主の支流、占い力一番の長皇子が磯城の斎宮に侍いて、伊都國が天下を佐治する時、主をして柴百に利く刀を練り分け作らしむ。(利く刀は菊とかけている)
記す。吾主に奉事しし根(ルーツ)は、主々に至るなり。
(古文:しし、も洒落で、猪を暴露。猪将別も)
続く2へ

戯れ言8 人を食う

2010年03月25日 05時38分02秒 | 卑弥呼

解毒学
バカ野郎解散の吉田茂
総理を止めてから、隠居生活も長く80才を越えていて元気でした。
新聞記者、老翁は、なんでそんなにお元気なのですか。
老翁吉田茂、わしは、毎日、人を食っとるからじゃ。

スサノオ信仰軍団
七海は、人を食って、あわを食わせるのは、スサノオとその後裔と思います。書紀も古事記も、喜怒哀楽、漫才、落語の類が結構あります。
お笑いに気をつけていると、隠れたものが、そこに見出せます。

崇神紀の謀叛
武埴安彦の乱に於いて、部下が逃げたとき、屎(くそ)が褌から落ちたところを屎褌(くそはかま)と当時の人がいう。クソハカマがなまって、樟葉という。今の枚方市樟葉、当時の交野郡葛葉とする。
部下は、甲を脱ぎ捨て逃げた、逃れられないことを知って、叩頭して(地に頭をつけて)「我君」と言った。当時の人は、我が君を和伎と言った。
(和伎;相楽郡山代町平尾:和伎坐天乃夫伎売神社、湧森の湧出宮)

書紀は、叩頭を廻務(カイム)と注記する。書紀がわざわざ注記するが、なぜでしょうか。

叩頭は、額づく。似たことばの廻頭は、首を廻す。
部下は、「スサノオ(我君)、失敗しました」と、謝っているようにしか受け取れないのです。理由は、首が廻る梟(ふくろう)、また、馬が足元へ首を廻すしぐさに似ているからです。
なお、我が大君であれば、天照大神です。我君はスサノオです。
大君の大は、兄弟姉妹の長で、姉の意味です。隋書の阿輩鶏彌(おおきみ)
も、天照大神です。スサノオは、姉を立てています。
くそはかまを樟葉という。これを笑っていてやり過ごすと、部下の言った意味を逃すと思います。
人をくったような話は、あちこちに見られます。

隋書の傑作
聖徳太子を、小徳阿輩臺(あはだい)と。おまけに、小さな徳とつける。
この臺は、壺の字を、漢音コ呉音グと誤音で、読む連中が居るから、阿輩臺は、あはぐ(愚)。または、あほこ(青二才)。これでは、おかしい。台(ジ)をつかえば王子となるのに、わざわざ、誤字をつかう。
スサノオ(新羅大明神)が、太子の書いた文を入れ替えたのを、さらけ出している。むろん、スサノオ信仰軍団であります。

根拠は、興台魂を注記して、許々等魂(こごとむすび)とする。(書紀)
これで、台の音は、トと誤る。これこそ、臺(こ)の濁音(ご)を使うべきと、書紀が注意喚起しているのです。なぜならば、仲津彦の津を省いた仲彦の表示もあるからです。
正解は、興臺つ魂のつは、都で、こごと(許々等)となり、都を省略していています。
ややこしいが、傑作な連中です。大安麻呂は、決して間違いません。

隋書においては、煬帝の父が、中国古代の天帝の教え(祭り)を知らなかったと、スサノオが暴いています。

ところで、吉田茂は、人を食うのが好きでしたが、だれを食っていましたか。・・・政治記者たちでした。
記者にとっては、あとのまつり(政)でした。煬帝の父も。

戯れ言8人をくうは、これで、オロチ、オロシ。
古代、タ行は、サ行に同じです。
方言のズ―ズ―弁では、サ行はタ行。

戯れ言7武内宿禰

2010年03月24日 05時53分04秒 | 卑弥呼
武内宿禰、270才(日本書紀)

1 定期券時代
女性の年をみたら、十才も水増し、いや、若づくりしていました。

2 イギリスの改暦
現代のグレゴリオ暦を導入する。
たしか、5カ月も、遅れていたので、改暦によって、年が増した。
・・・婦人は、5か月も年を食ったと、嘆く。

3 オリンピック
最初のオリンピックが、前8世紀、ギリシャのアテネで開かれた。
ところが、誘った国の数と、来た国の数が合わない。
国によって、暦が違っていました。

4 明治6年、日本は、先駆けて、G暦に、買えました。
中国も、韓国も、西欧にかぶれおってという。
明治政府は、貧乏でした。たしか、3か月ほど少ない年度になりました。
親方日の丸の政府は、人件費など、節約できました。
さて、明治6年にまたがる人は、何才、生きたのでしょう。

5 武内宿禰(たけうちすくね)
16代仁徳天皇(⇒訂正、成務天皇4・18)と同じ日に生まれた武内宿禰(12代景行、13代成務、14代仲哀、神功皇后紀、15代応神、16代仁徳の五代に、大臣として仕えた。書紀の暦で、270才であった。
記事は、人を食ったような、たわけ話です。

七海の知人は、書紀をうろ覚えていて、武内クスネという。

年をクスネた。
七海は、見事な切り返し、最高傑作だ、と思いました。
なお、武内大臣は、十円紙幣になっていますから、
昔話、きつねと木の葉のお金のような訳では、ありません。

追記、武内宿禰のそっくりの人物
仁徳紀(⇒応神紀4・18訂正)に、壱岐直真根子が居て、武内大臣とそっくりと記載されています。二丈町深江の近くに真根子地名もあります。
たぶん、真根子が、13代成務に、仕えていたのでしょう。
景行の宴会において、武内宿禰(真根子)と成務は、列席せずに、宴会の式場の外にいて、景行は、なんでこんなところに居ると、問う。
・・・ばれてしまいました。
この記事を取り上げた学者をほとんどみかけません。
例の吉井巌、直木孝次郎のおかしな話を、田中卓に反論記事を書かせなかった岡本健一。七海のブログ倭奴國各論12(補足)を見てください。