纏向遺跡の新聞記事に物言いをつける。
2009・11・11以来、6か月を過ぎました。
シンポジウム「卑弥呼はどこに? 邪馬台國と纏向遺跡」
朝日新聞社主催で、3月20日、開かれた。3月25日に、同紙に掲載。
参加者
菅谷文則 奈良県立橿原考古学研究所
千田稔 奈良県立図書館長(歴史地理学)
和田萃 京都教育大学名誉教授(日本古代史)
武田佐知子 大阪大学教授(日本古代史)
玉城一枝 奈良芸術短大非常勤講師
以下、概要よりも、七海が注目する点のみを記しました。
1 今年は、邪馬台國論争が、始って100年目に当たる。
箸墓の築造時期は、卑弥呼の時代ではない。巻向は、書紀での天皇の宮の一つとある。(菅谷)
2 発掘担当者は、3世紀前半までで、國内最大の建物。
さくの跡が建物に近接、高床式と推定している。
周辺では、大量の祭祀土杭群や國内最古のベニバナ花粉が見つかっている。(発掘:橋本輝彦・桜井市教育委員会主査)
3 魏志倭人伝の経路で、「海のかなたで書かれたもの、信頼度は低い」とし、日本側の資料で記述を補う必要性を強調。(千田)
4 梁書倭伝に、卑弥呼の後継者、台与の後に男王が就いたとの記述があるから、「この男王が、大和朝廷の初代王・崇神天皇ではないか」と畿内説を支持した。三輪山周辺の3代の天皇の宮の場所を知ること。(和田)
5 魏が卑弥呼を女王と知らずに男王の服を与え、卑弥呼もそれに従って一時、男装した(武田)
七海の全般的感想
この程度の記事では、進んだ民間の研究家は、不満を持つ。
専門的学者ならば、上記1の書紀の言う天皇の宮殿から出発すべきで、3、4、5の記事では、突っ込みが足らないと見るでしょう。
七海の検証
1)上記3の千田発言の否定・
魏志の距離の証拠は、壱岐島の方300里で、凡その見当が付きます。
魏志の千里は、76.5kmで、すでに、在野の道家康之助が証明しています。また、谷本茂も証明。自分勝手な憶測は不要です。また、日本側の記事で補う必要があるならば、トライしてから、発言して下さい。
2)上記4の和田発言の否定
梁書の諸夷伝・俀國条(たいこくじょう)では、臺與(たいよ)の後は、男王がなったと明記されています。都が移った記事は、在りません。
A俀國は、女のなよなよした国です。魏志では、壹與(いよ)です。
臺與は、後漢書のいう邪馬臺國の臺です。これで、両書の記述は矛盾します。
梁書がわざわざ、臺與としたのは、後漢時の国を暗示し、もとの邪馬臺(やばたい)の国の男が継いだと、看做します。
B魏志に、卑弥呼は「有男弟佐治國、少有見者」と明記。
国を佐治する男弟を有し、見(まみ)えることは、少なかった。弟に会う事が少なかった。弟が省略された文章です。
佐治の意味
その国は、大倭をして一大率を置き、交易を監督させる。弟が、一大率という助け(佐治)を遣っている。
この二つの記事から、大倭と倭。大倭王と倭王を区別しています。
これで、倭王卑弥呼と弟(大倭王)が、明確にできます。また、別の所に両者が居ることも解ります。
C よって、邪馬臺國は、東へ移ることは、ありません。埼玉稲荷山鉄剣の銘文がこれを証明しています。邪馬壹(やばい)は、531年まで続いています。
邪馬臺國の東遷説は、未だに考古学者に根つよくありますが、七海は、勝手な創作と看做しています。
3)上記5は、武田の歴史創作と看做す
魏志は、女王卑弥呼と明記。武田は、錯誤・転倒したとみます。
武田には、バジリク古墳の金人の服を復元、優秀な論文ガ在ります。しかし、今回は、気が動転されたのでしょう。
まだ、書くことがありますが、基礎的な3点のみにとどめました。
2009・11・11以来、6か月を過ぎました。
シンポジウム「卑弥呼はどこに? 邪馬台國と纏向遺跡」
朝日新聞社主催で、3月20日、開かれた。3月25日に、同紙に掲載。
参加者
菅谷文則 奈良県立橿原考古学研究所
千田稔 奈良県立図書館長(歴史地理学)
和田萃 京都教育大学名誉教授(日本古代史)
武田佐知子 大阪大学教授(日本古代史)
玉城一枝 奈良芸術短大非常勤講師
以下、概要よりも、七海が注目する点のみを記しました。
1 今年は、邪馬台國論争が、始って100年目に当たる。
箸墓の築造時期は、卑弥呼の時代ではない。巻向は、書紀での天皇の宮の一つとある。(菅谷)
2 発掘担当者は、3世紀前半までで、國内最大の建物。
さくの跡が建物に近接、高床式と推定している。
周辺では、大量の祭祀土杭群や國内最古のベニバナ花粉が見つかっている。(発掘:橋本輝彦・桜井市教育委員会主査)
3 魏志倭人伝の経路で、「海のかなたで書かれたもの、信頼度は低い」とし、日本側の資料で記述を補う必要性を強調。(千田)
4 梁書倭伝に、卑弥呼の後継者、台与の後に男王が就いたとの記述があるから、「この男王が、大和朝廷の初代王・崇神天皇ではないか」と畿内説を支持した。三輪山周辺の3代の天皇の宮の場所を知ること。(和田)
5 魏が卑弥呼を女王と知らずに男王の服を与え、卑弥呼もそれに従って一時、男装した(武田)
七海の全般的感想
この程度の記事では、進んだ民間の研究家は、不満を持つ。
専門的学者ならば、上記1の書紀の言う天皇の宮殿から出発すべきで、3、4、5の記事では、突っ込みが足らないと見るでしょう。
七海の検証
1)上記3の千田発言の否定・
魏志の距離の証拠は、壱岐島の方300里で、凡その見当が付きます。
魏志の千里は、76.5kmで、すでに、在野の道家康之助が証明しています。また、谷本茂も証明。自分勝手な憶測は不要です。また、日本側の記事で補う必要があるならば、トライしてから、発言して下さい。
2)上記4の和田発言の否定
梁書の諸夷伝・俀國条(たいこくじょう)では、臺與(たいよ)の後は、男王がなったと明記されています。都が移った記事は、在りません。
A俀國は、女のなよなよした国です。魏志では、壹與(いよ)です。
臺與は、後漢書のいう邪馬臺國の臺です。これで、両書の記述は矛盾します。
梁書がわざわざ、臺與としたのは、後漢時の国を暗示し、もとの邪馬臺(やばたい)の国の男が継いだと、看做します。
B魏志に、卑弥呼は「有男弟佐治國、少有見者」と明記。
国を佐治する男弟を有し、見(まみ)えることは、少なかった。弟に会う事が少なかった。弟が省略された文章です。
佐治の意味
その国は、大倭をして一大率を置き、交易を監督させる。弟が、一大率という助け(佐治)を遣っている。
この二つの記事から、大倭と倭。大倭王と倭王を区別しています。
これで、倭王卑弥呼と弟(大倭王)が、明確にできます。また、別の所に両者が居ることも解ります。
C よって、邪馬臺國は、東へ移ることは、ありません。埼玉稲荷山鉄剣の銘文がこれを証明しています。邪馬壹(やばい)は、531年まで続いています。
邪馬臺國の東遷説は、未だに考古学者に根つよくありますが、七海は、勝手な創作と看做しています。
3)上記5は、武田の歴史創作と看做す
魏志は、女王卑弥呼と明記。武田は、錯誤・転倒したとみます。
武田には、バジリク古墳の金人の服を復元、優秀な論文ガ在ります。しかし、今回は、気が動転されたのでしょう。
まだ、書くことがありますが、基礎的な3点のみにとどめました。
巻向や箸墓は楽しみでワクワクしながら…
しかし山辺の道の大神神社は人混みなんですが「卑弥呼のお墓」の箸墓古墳はさっぱり(笑)
古墳のまわりには
卑弥呼います
卑弥呼眠っます
それぐらい騒いでいるかと思っていたのに
テレビでは高木美保がナレーターとなり卑弥呼=箸墓を強調していたのに
がっかりして天理市に向かいました