思ったとおりの展示だった。粗大ごみのようなものを展示して、面白いのだろうか?
粗大ごみを「公式な」美術館に展示すると、べつの新たな価値が創造されるとでも言いたいのだろうか?出品者はデュシャンの便器をきどっているのだろうか?(私はデュシャンの便器も評価していないが・・。)
特殊な趣味なら同好会を作って自腹でやってくれ、文句は言わないから・・。少なくとも入場料を取って大衆に見せるような展示物ではない。
同じようなコンセプトの展示会なら、1970年ころ同じ場所(旧愛知県美術館)であった。そこに生ごみを展示した者がいて、美術館側ともめたことは数日前に
デュシャンの便器の記事で書いた。生ごみの展示は、その展示会に対する揶揄だと思っていたら、出品者はそれ自体が作品だと言い張るので驚いた覚えがある。
あいちトリエンナーレ展は今回が2回目だそうだ。3年前の1回目は予定を上回る入場者数で大成功だったという。その時に観た人でリピーターはいるのだろうか?私は1回目を見ていない。
こんな展示に大衆は喜びはしない。それでも、これだけ動員できたと主張するなら、それは奇人変人の行状(展示物)を見世物にしたからである。江戸時代の見世物小屋と同じで悪趣味だ。
反論があるなら受けて立とう。本名までは要らないが、せめて立場を明らかにしてほしい。
以下に一部の展示物を示す。論評はあえて書かず、客観的な事実のみ示す。
(正方形の板が積み重ねてあり、ふちに短歌のようものが書いてある。一例として「『当たり前』そう思えるが幸せと気づかされたよこの震災で」。)
(テレビで報道されていた展示品。車が衝突して壊れたようになっていて、その裏が普通の箪笥になっている。)
(奥に時計が写っている東日本大震災の写真。同類の写真が横一列に10個ほど展示されている。)
(半分に壊れたボート。)
(紙でできたビルの模型のようなものが沢山置いてある。)
(下半分に戦車が写ったパネル。戦争関係と思われる写真が下半分に写ったパネルが20個ほど横に展示されている。)
(神社の模型。福島第一原発を象徴しているとの説明がある。)
(室内に写真のようにスピーカーが置いてあり、バッハの教会カンタータに似た音楽がかかっている。)
(複数の色のチョークが枠の中に満たされている。)
まだまだあるのだが、しつこくなるのでこのくらいにしておこう。展示物には撮影してよいものとそうでないものがあるらしいが、掲示がしっかりと見えなかった。私が展示物を撮影していたら、撮影してはいけないと係の人が飛んで来た。今この場で消せというから断った。撮影禁止の展示物が上のどれだかお分かりになるだろうか?
結論として言えることは、これらの展示物は大道芸人に対してさえ感じる「畏敬の念」を呼び起さないのだ。それは、血のにじむような修練をしてやっと獲得できた超絶技巧に対する敬意である。トリエンナーレには修練と技巧が決定的に欠落している。ウイットさえも・・。(ごみのような展示物の撮影を血相を変えてやめろ言ってきたのは、もしかしたらギャグだったのだろうか?)
※(画像の容量に限りがあるので、画像が消えてしまうかもしれません。そのときは容量を拡大して画像を再アップします。)