院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

私が高校生のときの、やなせたかしさん

2013-10-16 06:11:12 | 漫画

(朝日新聞電子版より引用。)

 やなせたかしさんは、すでに私が高校生のころ漫画ファンの間では有名だった。『漫画家になる方法』という題名だったかは忘れたが、そのような本を出していた。虫プロの漫画雑誌『COM』に私は一コマ漫画を投稿して、しばしば入賞し、1席になったこともあったから、漫画家になることを少しは考えていたのかもしれない。やなせさんの本を買って読んだのだ。

 その本の内容で私が覚えているのは「デビューするなら一流誌からにせよ」という忠告である。三流誌からデビューすると絵が荒れるとあったので、なるほど多分そうだろうと納得した。

 同じころ、週刊朝日が見開き半ページに使用する10コマ漫画を一般公募した。私も応募したかったが、大学受験を控え、それどころではなかった。けっきょく週刊朝日に採用されたのは、やなせさんの「ボウ氏」という作品で、それが連載された。

 プロなのに素人に混じって一般公募に応募するのかぁと、やなせさんのハングリー精神に脱帽した。

 「ボウ氏」とは「某氏」と「帽子」をかけたもので、主人公が首まで帽子をかぶっていて顔が見えず、確かセリフがなかったように記憶する。シュールで上品な作品だった。けっこう新鮮で面白かった。

 以来、やなせさんはヒューマニズムあふれる作品を描き続け、その姿勢を崩すことはなかった。それがアンパンマンまで続いてきたのだ。

 アンパンマンは有名すぎるので、私があれこれ書くまでもないだろう。やなせたかしさんのご逝去にあたり、思い出したことを書いてみた次第。

これがほんとの自動・車

2013-10-15 05:12:14 | 技術

(オリンパス・フォトパスより。「神戸ポートライナー」)

 こんなことができちゃうのか!と思ったのが、20年前にカーナビを見たときだ。まだアメリカのGPSの存在を知らなかったから、余計にそう思った。

 次がグーグルの衛星写真である。さらにグーグルの街角写真にも驚いた。私の遠くの実家が、庭の柿の木までしっかり写っている。

 逆に、こんなこともまだできないのか!と思うのが、いましきりに報道されている車の自動運転だ。月や火星に着陸できるだけの技術があるのに、自動運転がまだ実験中なんて・・。加害者であろうと被害者であろうと、交通事故で人生を棒に振る人がたくさんいるのに、なぜまだなの?という感じだ。

 GPSがなかった30年前、網の目のように特殊な道路を作って、道路ごと車を管理して動かす「無人運転」が構想されたが、実現しなかった。電車の無人運転としてポートライナーを初め一連の新交通システムが実用化されただけだった。その後の発展は思ったほどない。

 自動で目的地まで運んでくれる車ができたら、真っ先に買おうと思う。運転免許証を返上しようかと考えているところだからだ。

仮面ライダー、ついに踊る

2013-10-14 05:01:01 | 文化

(バンダイのホームページより。)

 仮面ライダーは50年近い歴史があるヒーローである。すでに述べたように、仮面ライダーの物語は意外に深いのだ。

 このたび何代目かの仮面ライダーで「鎧武」(ガイム)というのが登場した。普段の姿はダンスチームの一員であるという設定だから、とうぜん踊る。

 ダンスとか踊りは軟弱なイメージがあり、これまでヒーローが踊るなぞということは考えられなかった。それが踊る。

 キョウリュウジャーのレンジャーたちも、なんとサンバを踊っている。レンジャーたちを躍らせたのは、キュウリュウジャーが初めてではないか?

 中学の体育の授業にダンスが取り入れられている。日本人の若い世代にはダンスはもう日常的なものとなっているのだ。「よさこいソーラン祭り」、「にっぽんど真ん中祭り」の隆盛を見よ。だから、ヒーローやレンジャーが踊ってもなんの抵抗もないばかりか、逆にカッコよく見えるにちがいない。

図書館の今後

2013-10-13 06:07:56 | 読書
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茨城大学ホームページより。)

 高校生のころ市民向けの図書館には開館前から行列ができていた。司法試験浪人である。べつに特別な資料が図書館にあるわけではない。彼らの目的は座席と机の確保だった。要するに行列は、住環境が貧困であることの証しだった。

 市民向けの図書館にはロクな本がなかった。古本屋の1冊100円の箱に入っているような、内容が薄い本が圧倒的だった。図書館とは意外に役に立たないものだと思って大学に入ったら驚いた。

 医学部だから医学の本と雑誌ばかりである。明治時代の雑誌もある。ほとんどが海外の雑誌だ。大学の図書館には、とにかく研究や勉強をしたければ、いくらでもやってくださいという雰囲気があった。司書は頼めば、どんな本や雑誌がどこにあるかの探索も含めて、学問に役立つことならトコトンまでやってくれた。

 さすがに、ひとつの図書館にはない雑誌があった。そういうときは他の図書館からコピーを取り寄せてくれるのだ。その相手の図書館は天理図書館であることが多かった。天理図書館にはどんな本でもあって、永遠に検索されないような雑誌まで置いてあった。国会図書館には外国文献は少ないだろうから、蔵書数では天理図書館が日本一ではあるまいか?

 だが、このところ図書館や司書の利用価値が激減した。理由はむろんインターネットの普及である。インターネットを使用すれば、天理図書館にさえない文献がたちどころに手に入る。(天理図書館にある文献でも、郵便で頼んでいた時代には往復4日かかった。)

 現在、有名雑誌は必ず電子版をもっているし、あと数年でほとんどの出版が電子出版に置き換わるはずだ。書店には冬の時代が来るが、図書館もその存在価値が問われるようになるだろう。

 司書からは本を分類生理して物理的に運ぶという仕事がなくなる。その代り司書はあらゆる分野にどんな本があるか、書店員が及びもつかないほどに精通していなければならなくなる。ユーザーが一言いえば、すぐに関連の本に案内できるようなソムリエのような技が求められるようになるはずだ。

 そうでない司書は失職する。これが前に言った「テクノロジー失業」である。

福岡・整形外科医院の火災に寄せて

2013-10-12 05:57:16 | 生活

msn産経ニュースより引用。)

 今回の整形外科医院の火災に限らず、都市で火災が起きるとどんな規模の火災でも消防車が一度に30台くらい駆けつける。

 消防車がそれだけ空いているということだろう。昔は木造の建物がほとんどだったから、大都市では火災は毎日のように起き、消防車はもっと忙しかったように記憶している。多くても消防車は5台くらいしか来なかったのではないか?

 私が名古屋市立の精神科診療所の所長として、新しくその建物を鉄筋に改築したとき、消防署に研修で呼ばれた。消防署の対応はソフトだったが、とにかく火災は消すより前に起こさないという強い意思を感じた。

 30年前のことで、世の中ではまだタバコ排斥運動はかすかにしか起こっていなった。それでも、火災の第一原因はタバコの火の不始末ではなく、放火だった。今でもそうだ。

 診療所が建ってからも消防署の実地検分があり、細部にわたって指導があった。建物の不燃化とともに、こうした火災を起こさないという姿勢が、今日の消防車の過剰を生んだのだろう。悪いことではない。

 今回の整形外科医院の火災での死者数は平成に入って最大だというが、新宿の雑居ビル火災で100人近く死んだのが、ついこの前のような気がする。気が付かなかったが、この25年間、大火事がなかったということだ。

 火事は俳句で冬の季語になっている。昔は火鉢や炬燵など、冬にはナマの火を使うことが多くなったからだ。今ではナマの火はコンロくらいにしか使わない。コンロは一年中使うから、火事が冬の季語だと言われてもピンとこない時代になった。

警察と医療の違い・女子高生ストーカー殺人事件に寄せて

2013-10-11 06:04:52 | 経済

東京新聞電子版より引用。)

 せっかくストーカー被害を警察に届けたのに、その日に殺害されてしまった気の毒な女子高生の話が問題になっている。警察はなぜ敏速に動かなかったのかと。

 なんの関係もないようだが、じつはこのような国民の感覚が医療費を膨張させている。

 脳外科にたんなる頭痛で来院する人がいる。脳外科医は脳のMRIを撮る。結果は99.999・・%正常だが、10万人に一人くらい脳腫瘍が見つかることがある。

 脳外科医は儲けようと思ってMRIを撮るわけではない。脳外科にまでかかったのに脳腫瘍を見逃されたと世間に糾弾されるのが怖いのだ。どんな珍しい疾患でも見つけるのがプロだろうと責められるのが・・。

 その結果、残りの9万9千999人は、無駄な医療費を支払うことになる。この20年間で国民医療費は2倍になった(19兆円→38兆円)。だが、医者や看護師の数はさほど増えていないし、給料だって上がっていない。医療費の増加分はMRIや腫瘍マーカーなど、コンピュータを含む電子機器会社や、化学検査会社など高度な医学的検査を行う会社が持って行ったのである。医療関係で食べていく人が増えたのだ。

 悲しいかな警察には医療従事者ほどの数がいないし、予算にも限界がある。医療費のように無際限な膨張が許されたならば、警察はすぐさまストーカー被害者をかくまっただろう。だが、そのためのシェルターが必要になるし、シェルターを警備する人員も必要になる。

 ここにあるのは、つまり警察の意識の問題というよりもお金の問題なのだ。

轢かれたほうが損害賠償する?

2013-10-10 06:52:50 | マスコミ
 先日、認知症の老人が徘徊していて列車にはねられ死亡した。気の毒なことである。

 その件に関する裁判が行われて、裁判所は「監督不行き届き」として遺族に750万円の損害賠償を鉄道会社に支払うように命じた。この判決に「えーっ?」と思われたかたが多いのではないか。私も思った。判決の理由は、ダイヤが乱れて鉄道会社が損害を受けたというものである。

 老人は一瞬のスキに外出したという。轢死したのに損害賠償を要求されるとは、もう認知症老人は室内に閉じ込めておくしかないではないか。そのためには、家族の誰かが家に24時間張り付かねばならない。

 むかしのことを思い出した。若いころ勤めていた病院の患者さんが鉄道自殺をした。そのときの鉄道会社の対応はどうだったか?「当方も損害を受けたが、不幸な出来事なので、この件は不問にしましょう」ということで片付いた。鉄道会社にとって人身事故は珍しいことではなく、一定の対応マニュアルがあるのだろう。

 いまの鉄道会社はむかしほど鷹揚ではないのかもしれない。だが、私は次のことを想像した。これはあくまでも私の妄想のようなものであり、まったくの見当違いである可能性が高いことをお断りしておく。

 まず死亡した認知症老人の遺族のほうが先に、鉄道会社に損害賠償を要求したのではないか?はじめは穏便に済ませようと思っていた鉄道会社は、怒って逆告訴した。その結果、鉄道会社が勝って、裁判所は遺族に損害賠償を命じたのではないか?

 そうした事情でもなければ、「遺族は750万円を支払え」という判決は不当と言うべきであり、世論は黙ってはいないだろう。

 道路での車による交通事故の際は、子どもがいくら急に飛び出したからと言っても、轢いた方の責任になる。そうした秩序を前提として、道路交通体系も賠償システムも作られている。轢かれたほうの責任が問われるとは、従来の道路交通秩序からは考えにくいことである。鉄道の場合は別なのだろうか?

 マスコミはいつも本質を言わないから、私のように邪推する者が出てくるのだ。

リニア新幹線と農業の発明

2013-10-09 06:01:16 | 文化
 局所だけを捉えた批判を私は好まない。

 例えばリニア新幹線構想に対して、東京-名古屋間を40分縮めて何か良いことがあるのか!?と批判する人がいる。

 そういう人は、リニア新幹線ができても、まさか乗らないでしょうね。いや、絶対に乗ってはならない。


(「リニア中央新幹線」のホームページより。)

 リニア新幹線は従来の新幹線技術の上にある。リニア新幹線を批判する人は、もとになった普通の新幹線も批判すべきである。そして、従来の新幹線にも乗ってはならない。

 そもそも人々が集まって国家というものを作ったから分業や協同が行われ、古くはピラミッド、新しくはリニア新幹線が可能になったのだ。

 国家のもとは農業の発明にある。余剰のないその日暮らしでは巨大国家は作れず、あらゆる古代遺跡は存在しなかった。

 ここで自然破壊の元祖は農業の発明であると言われて、すぐに納得できる人は感度がよい。里山を賛美する声があるけれども、里山はすでに農業を前提としており、存在自体がじつは自然破壊である。

 すべての元凶は農業にある。原爆もリニア新幹線も農業の発明なしにはありえなかった。リニア新幹線を否定する人は、まず農業を否定してほしい。

 農業の発明によって人類が豊かになったと考える人が多かったが、最近の考古学では、農耕時代の人骨より前の狩猟時代の人骨のほうが栄養が豊かだという説もある。狩猟時代のほうが労働時間が短かったとも推測されている(1日3時間ほど)。

 農業の発明は人類に輝かしい未来を保証したのではなく、逆に人類転落の口火を切ったとの解釈もできるのである。

これはひどい「あいちトリエンナーレ2013」

2013-10-08 06:00:13 | 社会
 思ったとおりの展示だった。粗大ごみのようなものを展示して、面白いのだろうか?

 粗大ごみを「公式な」美術館に展示すると、べつの新たな価値が創造されるとでも言いたいのだろうか?出品者はデュシャンの便器をきどっているのだろうか?(私はデュシャンの便器も評価していないが・・。)

 特殊な趣味なら同好会を作って自腹でやってくれ、文句は言わないから・・。少なくとも入場料を取って大衆に見せるような展示物ではない。

 同じようなコンセプトの展示会なら、1970年ころ同じ場所(旧愛知県美術館)であった。そこに生ごみを展示した者がいて、美術館側ともめたことは数日前にデュシャンの便器の記事で書いた。生ごみの展示は、その展示会に対する揶揄だと思っていたら、出品者はそれ自体が作品だと言い張るので驚いた覚えがある。

 あいちトリエンナーレ展は今回が2回目だそうだ。3年前の1回目は予定を上回る入場者数で大成功だったという。その時に観た人でリピーターはいるのだろうか?私は1回目を見ていない。

 こんな展示に大衆は喜びはしない。それでも、これだけ動員できたと主張するなら、それは奇人変人の行状(展示物)を見世物にしたからである。江戸時代の見世物小屋と同じで悪趣味だ。

 反論があるなら受けて立とう。本名までは要らないが、せめて立場を明らかにしてほしい。

 以下に一部の展示物を示す。論評はあえて書かず、客観的な事実のみ示す。


(正方形の板が積み重ねてあり、ふちに短歌のようものが書いてある。一例として「『当たり前』そう思えるが幸せと気づかされたよこの震災で」。)



(テレビで報道されていた展示品。車が衝突して壊れたようになっていて、その裏が普通の箪笥になっている。)



(奥に時計が写っている東日本大震災の写真。同類の写真が横一列に10個ほど展示されている。)



(半分に壊れたボート。)



(紙でできたビルの模型のようなものが沢山置いてある。)



(下半分に戦車が写ったパネル。戦争関係と思われる写真が下半分に写ったパネルが20個ほど横に展示されている。)



(神社の模型。福島第一原発を象徴しているとの説明がある。)



(室内に写真のようにスピーカーが置いてあり、バッハの教会カンタータに似た音楽がかかっている。)



(複数の色のチョークが枠の中に満たされている。)


 まだまだあるのだが、しつこくなるのでこのくらいにしておこう。展示物には撮影してよいものとそうでないものがあるらしいが、掲示がしっかりと見えなかった。私が展示物を撮影していたら、撮影してはいけないと係の人が飛んで来た。今この場で消せというから断った。撮影禁止の展示物が上のどれだかお分かりになるだろうか?

 結論として言えることは、これらの展示物は大道芸人に対してさえ感じる「畏敬の念」を呼び起さないのだ。それは、血のにじむような修練をしてやっと獲得できた超絶技巧に対する敬意である。トリエンナーレには修練と技巧が決定的に欠落している。ウイットさえも・・。(ごみのような展示物の撮影を血相を変えてやめろ言ってきたのは、もしかしたらギャグだったのだろうか?)

※(画像の容量に限りがあるので、画像が消えてしまうかもしれません。そのときは容量を拡大して画像を再アップします。)

IPCCは本当に科学者の集まりなのだろうか?

2013-10-07 05:42:38 | 環境
 毎週日曜日にテレビで「なんでも言って委員会」とうい番組をやっている。時の話題について知的常識人が、話題の問題点や美点について討論するショウ番組で、しばしば他局では出されないような際どい正論が飛び出したりする。愛知県では中京テレビが放送しているが、全国ネットなのかどうかは知らない。


IPCCのホームページより。IPCCが所属する「世界気象機関」が入るビル。)

 今回、共産党国会議員が何人も出演して知識人らと討論した。中に原発問題に絡んで地球温暖化の話題があった。ある議員がIPCC(気候変動に関する政府間パネルという国連の組織)の第5次報告を取り上げ、「科学者たちが何千人も集まって、地球温暖化が起こると指摘している」と発言した。(共産党議員は「世界中の科学者」というだけで、すっかり信用してしまっている。)

 それに激しく反論したのは俳優の津川雅彦さんだった。彼は「地球は寒冷化している。なんで国連の機関がそんな発表をするんだ!」と発言した。発言者が俳優であることに驚いた。

 私も実は寒冷化説に与するものである。なぜなら、太陽の黒点の記録的な(700年ぶりの)減少は、寒冷化を意味し、しかもそれは世界中どこでも誰でも観測でき、検証が可能なのだ。

 ところがIPCCが論拠としている気象現象は、誰にでも検証可能なわけではない。IPCCは政治的に動いているのではないか?

 IPCCのメンバーは2000人の学者と言われるが、気象学者は3分の1しかおらず、他の参加者は別の分野から政府代表として出てきた学者だという。別の分野の学者が参加しているとはどういう意味なのだろうか?その上、政府代表なら自国の政府に不利なことは言えないだろう。

 IPCCは第5次報告書で、温暖化の確率は95%と発表した。第4次では90%だった。その原因は人間にあるという。ここで、むかし科学者の端くれだった私は待ってくれと言いたい。文学的な表現でしか言えないことに%という統計学の用語を持ち出すのは、科学者のもっとも嫌うところだ。IPCCは本当に科学者の集まりなのだろうか?

 それに、本当に科学者の集まりだったら、そもそも「統一見解」なぞ出すことはできない。2000人も科学者がいれば主張が錯綜するのが当然である。それなのにIPCCの報告は両論併記ですらない。見解が一つしかない。そこからして、すでにおかしい。

 共産党の国会議員は素人らしく、「科学者が何千人も集まって出した結果だ」と信じ込んでいるようだった。知識人に「IPCCの結果は、むしろ原発推進論者のほうが利用するのですよ」と突っ込まれていた。

 NHKは「二酸化炭素」と言う時、これまで枕詞のように「地球温暖化ガスの」という修飾語をしつこいほど付けていた。国民に染み込ませようとの意図を感じたが、最近聞かれない。こっそり枕詞を外したのだろうか?

式年遷宮の報道

2013-10-06 06:10:02 | マスコミ

(毎日JPより引用。http://mainichi.jp/graph/2013/10/06/20131006k0000m040050000c/001.html

 伊勢神宮の式年遷宮についてこんなに詳しく報道されたことはない。

 20年前、私は名古屋から豊橋へ単身赴任していた。当時はバブルが崩壊した直後だった。新聞もテレビも式年遷宮について、少し触れただけだった。経済が急速にしぼんで、大衆にとっては遷宮なぞどうでもよい話だったのかもしれない。

 40年前は学生だった。左翼的な学生運動がやや下火になったところだが、世の中にはまだ学生の狼藉を許してしまうようなところがあった。神宮という最右翼の話を出す雰囲気ではなかったのか?遷宮の報道は記憶にない。

 テレビで池上彰さんが宗教法人とはなにかというところから説き起こして、伊勢神宮のことを解説した。彼らしくきわめて明快で分かりやすかった。

 仏教にはいろんな宗派があるが、神道には宗派はないのだろうか?仏教では「お東さん騒動」のような対立もあったが、神道には対立はなかったのだろうか?池上解説では触れられなかった。

 檀家制度がない神道はどうやって「家計」を保っているのだろうか?地元の神社は町内会を通じて半強制的に玉ぐし料を取るが、名古屋や東京ではそのようなことはなかった。神社の経済についても池上さんは解説してくれなかった。

 池上さんの解説に不足感をもつのは、おとといここに書いたように、歴史や伝統への強い希求が私たちがもっている証拠だろうか?種の一員として種の保存に営々とつくしてきた私たちにとって、種の大本であるご先祖様は大地のように私たちの奥底に横たわっていて、何かのおりに突出してくるのだろうか?

 マスコミはただ、その「突出」を拾い出しているだけなのかもしれない。

(今日は得意の「断定」ができませんので、ぼかしておきます。毎日「断定」を行うのは結構しんどい作業なんですよ。考察に今少し時間をください。)

(むかしはどこの家にも神棚がありました。いま神棚がある家はどれくらいあるでしょう。うちにもありません。マンションにはないでしょう。それなのに、神様に対する意識は常にある。このあたりが次の考察の鍵になるかもしれません。正月の注連飾りはすたれませんしね。)

算盤や俳句で認知症が予防できるか?

2013-10-05 05:06:44 | 医療

(「キンボシ・プロ」のホームページより。)

 ボケ防止のために電卓を使わずに算盤を使っているという老年女性がいた。本人は頭と指先を使うからよいのだ言っていた。

 私の所属する俳句結社では、俳句はボケ防止になると会員はみな思い込んでいる。(日本中のほとんどの俳句結社が主宰は80歳以上が当たり前で、同人でも70歳以上が99%である。)

 だが、私は算盤も俳句も認知症の予防にはならないと思う。認知症になるまでは高度な文章を書き続けていた作家を知っているからだ。算盤や俳句をやっている人は、まだ認知症でないから算盤や俳句ができるのであって、みな順序を取り違えているのだ。

 もっとも上の作家の例だけでモノを言うのは科学的ではない。日本の認知症の権威N教授に訊いてみた。教授は「世界中で研究されているが(頭を使うことは)認知症を予防するというエビデンス(科学的証拠)はまだ出ていない」という。

 たぶん、これからもエビデンスは出ないだろう。何万人もを何年も追跡調査しなければ、しっかりとしたエビデンスは得られない。だが、こうした研究は労力がかかる割に、果実が少ない。

 N教授は「世界的に研究されている」と言っていたが「まだエビデンスは出ていない」という。そこから考えうるのは、すでに終わった調査でも「頭を使うと認知症が予防される」という仮説を積極的に支持できなかったということだ。支持されなかった仮説は発表もされずに闇に消えてゆく。

(詩人や哲学者は夭折するが俳人や彫刻家は長生きだ、と私の俳句の師は言っていた。師は、俳人や彫刻家はものをつきつめて考えないから長生きすると解釈していた。私は、俳人や彫刻家は歳を取らないと有名になれないだけだと思った。)

人は歴史と伝統が好き

2013-10-05 05:00:02 | 歴史

(JOCのホームページより。)

 近代オリンピックに聖火が用いられるようになったのは、第1回のギリシャ大会(1896年)からではなく、1928年のアムステルダム大会からである。さらに聖火リレーが行われるようななったのは1936年のベルリン大会からである。

 人は歴史や伝統に従うのが好きだから、古代オリンピックのように聖火が導入されたのだろう。

 なるべく伝統にのっとるために、採火式はわざわざギリシャのヘラー神殿跡で凹面鏡を用いて行われる。それも非公開でである。そのほうが神秘性が増すからだ。(本番の採火式は写真にも残されない。上の画像はリハーサルのものである。)それによってオリンピックは、数多くの国際体育大会の中で特権的な地位を占めることができた。

 わが国では、多くの戦が天皇を奉じて行われた。にわかに台頭してきた豪族には天皇家という歴史と伝統が必要だった。徳川家康でさえ後陽成天皇から征夷大将軍を拝命したのであって、権力はともかく格としては天皇の上をいく存在ではなかった。

 歴史と伝統は、それだけで正当性をもっている。だから、人々を惹きつける。歴史と伝統とは関係がなさそうな、今流行のファッションに身を包んだ茶髪ギャルでさえ京都奈良・伊勢に詣でたがるのは、そのためである。

偵察衛星が撃墜されない理由

2013-10-03 05:50:54 | 技術

(Wikipedia「KH-9」より)

 きのう無人機は撃墜してもよいという話をした。そこで偵察衛星だが、これも実は無人機である。

 無人偵察機は撃墜されても、偵察衛星が撃墜されないのは、国連宇宙条約に宇宙平和利用の原則があるからではない。偵察衛星は撃墜するのに高度な技術と莫大な費用を必要とし、多くの国では不可能だからだ。

 ひとりアメリカだけにそれが可能となった。スペースシャトルである。スペースシャトルの成功によって、アメリカは他国の偵察衛星を撃墜できるどころか、ロボットアームでひょいひょいと拾って歩けるようになった。

 こうしてロシアの衛星が無力化されたため、軍事バランが崩れてアメリカの軍事的一国支配が成立した。スペースシャトルで子どもが考えたメダカやカエルの実験が行われたのは、むろん付け足しまたは懐柔策だった。

 このほどスペースシャトルが廃止されたのは、アメリカが宇宙での軍事的プレゼンスを確立したからに他ならない。必ずしも財政逼迫だけが理由ではなかった。

 宇宙は簡単に人が覗けないから、力のある国は好きなことをしている。宇宙条約なんて知ったこっちゃない。見えないところでは国家はなにをするか分からない。

 見えない海底では各国の潜水艦が熾烈なバトルを続けている。日本でも潜水艦乗組員は家族にさえ居場所や行動を知らせない。潜水艦の情報は、どこの国でも最高の軍事機密となっている。

 サイバー空間も見えないから、余人には想像もつかないような戦いが行われているはずである。そもそもインターネットとは情報を各地に分散させて、一箇所だけ破壊されても大損害を免れるための情報防衛システムだったのである。


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戦闘ロボット

2013-10-02 01:36:17 | 技術

(Wikipedia「無人機」より)

 わが国でも無人機を撃墜することになった。

 今後、無人機が急速に発達することは、現在の技術水準からすれば明らかである。

 「リモート攻撃」も心配されている。通信衛星を使って米軍がテレビ画面を見ながら中東の国を攻撃したことがある。その攻撃に参加した兵士は、まるでテレビゲームをやっているようで、殺人をしているという実感がなかったと証言している。

 だが、実感がない戦争方法は今始まったわけではない。刀や槍で対面して戦をしていたころから思えば、鉄砲の使用はすでに実感が薄れていたはずだ。大砲だってリモートだ。敵陣に侵入して爆薬を仕掛ける代わりに、遠くから放り込むのだから。だから「リモート攻撃」の開発は止められない。

 次に多くの人が懸念しているものに、「自立型兵器」がある。これはリモート攻撃とは違って、兵器が自分の判断で攻撃するという「戦闘ロボット」がイメージされている。そのような兵器ができたら収拾がつかなくなると、開発をやめるような国際条約を結ぼうという声もある。

 私は「自立型兵器」が作られても実用に耐えないと思う。それは根本的な問題、すなわち敵味方識別能力の実用化が達成できるはずがないからだ。

 実は地雷や機雷は「自立型兵器」である。人間の意志とは無関係に活動するからである。その結果、現在多くの国が地雷や機雷の除去に苦労している。

 「戦闘ロボット」も戦争が終われば、地雷や機雷と同じ厄介者になるだろう。だから「戦闘ロボット」の開発は意外に進まない。その代わりに「リモート攻撃」が急速に進歩していくことだろう。