院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

「軍事品」と「民生品」は区別できるか

2006-07-16 10:38:47 | Weblog
 むかし「トラックは民生品か軍事品か?」という議論があった。トラックは物の運搬をする道具だから、兵員や兵器を運べば軍事品ということになる。奇妙な議論のように思われるかもしれないけれども、むかしは大真面目にそういう議論がなされていた。

 およそ文明品であって(そうでなくても)軍事に利用できない品物なぞない。食糧を考えればすぐに解る。兵員だって民間人だって飯は食う。でも兵員の食糧は軍事物資と見なされる。

 このごろ、ミサイルが軍事品であるのに対して、ロケットは民生品であるという通念があるようだが、それは間違いだ。ミサイルとロケットは、まったく同じものである。ミサイル開発とロケット開発は同じことである。

 だから、ロケット開発がある程度進んでいるわが国は、ミサイル先進国でもある。にもかかわらず、北朝鮮のミサイル開発に怯えている。なぜだろう。

市民が勝手に始めた「祭り」

2006-07-15 16:49:11 | Weblog
 札幌で学生が始めた「よさこいソーラン祭り」が発展して、現在たいへんな盛況だという。

 その熱が名古屋に飛び火したのか、名古屋の「にっぽんど真ん中祭り」も年々派手になってきた。

 しかし、このような「祭り」は、京都、博多、浜松、東京のような都市には根付かないだろう。これらの都市には、すでに古くから本物の祭りがあるからである。

 一時、浜松に住んでいたけれども、浜松の凧揚げ祭りはすごい。祭りに掛ける男たちの情熱が尋常ではない。博多山笠も同じだろう。

 札幌や名古屋には、そうした祭りがない。そこに「ソーラン祭り」や「ど真ん中祭り」が発展する素地があったのだと思う。やはり人々の暮らしには祭りが必要なのだ。

 以上のようなことを何故か誰も言わないから、私が言っておく。

あじさいの日本固有種

2006-07-14 16:37:17 | Weblog
 あじさいの日本固有種は額あじさいだそうだ。ボール状のあじさいは外来種なのだという。

 だから、「あじさい寺」と言われるような寺にある見事なあじさいは、全部外来種だということになる。

 でも、この時期の「あじさい寺」は人を引き付けてやまない。外来種も見慣れてしまうと、風情さえ漂わせるようになるという見本である。

 アメリカザリガニも日本に根付いた。アメリカザリガニに郷愁を感じる人も少なくないだろう。

 やがてわれわれの子孫は、ブラックバスやセイタカアワダチソウに風情や郷愁を感じるようになるかもしれない。

「うがい」は本当に有効なのだろうか?

2006-07-13 18:24:14 | Weblog
 小さいころから「外から帰ったら、うがいをしなさい」と教わってきた。

 現在でも感染症の専門家が「うがい」を奨励している。でも、インフルエンザやプール熱の感染防止に「うがい」は本当に効くのだろうか。

 ウイルスが粘膜に付着してから細胞内に入るまでに20分はかからないと聞いたことがある。だとしたら、家に帰ってから「うがい」をしてももう遅いのではないか。

 「うがい」によって粘液を取り去ってしまうと、かえって感染しやすくなる、という話も聞いたことがある。

 私にはこの意見のほうが正しいように思えるのだが・・・。
 

相関関係と因果関係の混同

2006-07-12 08:59:44 | Weblog
 喫煙と肺がんには相関関係がある。「相関」というのは統計学の用語である。事象Aの増加と機を一にして事象Bが増加する場合、AとBには「正の相関がある」と統計学ではいう。反対に事象Aの増加とともに事象Bが減少すると「負の相関がある」という。

 ここで重要なのは、「相関がある」ということは「因果関係がある」ことをまったく意味していないことである。

 話がややこしくなるので、具体例で説明しよう。ここ数十年のテレビの増加と結核の減少には「負の相関」がある。これは統計学的に厳然とした事実である。しかし、「テレビが結核を減らした」という「因果関係」は「相関」からは導けない。「相関」と「因果関係」とは本質的に無関係なのである。「相関」について「因果関係」を論じるのは、統計学上の結果に対する人間による「解釈」である。

 再度言うと、喫煙と肺がんには「正の相関」がある。でも、「喫煙が肺がんの原因である」という主張は、統計学的データに対する「解釈」(あるいは思い込み)に過ぎない。

 喫煙と肺がんに関する統計学上のデータに対しては、突飛なようだが、「元来、肺がんになりやすい人がタバコを好む」(だから、そういう人が禁煙しても肺がんになる確率は変わらない)という「解釈」も「タバコ原因説」と論理的にはまったく同等の権利でもって成立しうるのである。

 意外に思われるかもしれないが、喫煙が肺がんの「原因」であることを証明した研究は、今もってひとつもない。米国公共政策センターのロバート・F・トリソン教授(非喫煙者である)がいくら調査しても、そのような研究論文は見つからなかった(『喫煙と社会』、平凡社)。

 最近、東京や名古屋の大都市繁華街での路上喫煙が禁止された。タバコの火が通行人に対して危険だ、ポイ捨てが美観をそこねるというのが理由である。一理あると思う。

 だが、受動喫煙が肺がんのリスクを増すからと言われると、ちょっと待ってくれと言いたい。車の排ガスで自殺はできるけれども、タバコの煙で自殺はできない。繁華街といえば車の通行も多いところで、排ガスが充満している。そんな場所で受動喫煙を主張されても困ってしまう。

 さらに言えば、嫌煙権論者が車を運転するのは自己矛盾である。みずから排ガスばらまいておいて、嫌煙権も何もないではないか。嫌煙権論者には車に乗らないでほしい。

 タバコは確かにけむいし臭い。だから分煙には大賛成である。しかし、禁煙外来を開設するには、病院の敷地内全部を禁煙にしなければならないという。いったい何の意味があるのだろうか。

 なにか不穏な動きを感じる。ナチスが当時の優生学を援用してユダヤ人を迫害したように、現代は生半可な統計学理解でもって愛煙家を弾圧しているのではないか。かつてのファシズムが姿を変えて生き残っているとしか思えない。


生命保険の矛盾

2006-07-11 09:34:17 | Weblog
 保険というものは、まれにしか起こらないことに掛けるものである。

 火災保険とか、船舶保険とか、人工衛星の保険とか、めったに事故はないけれども、たまに損害が生じうる。そのリスクを回避するために保険はあるのだと思う。

 それにひきかえ、生命は全員がいずれ失う。100%起こる事象に対して保険という考え方が成立するのだろうか。生命保険という制度はじつは矛盾をはらんでいる。

 生命保険は若いうちだけ入っておけばよい。一生、生命保険に入るなら、貯金をしたほうがよい。生命保険会社の社員を食わせる必要がない分だけ得だからである。
 

エスカレーターは怖い

2006-07-10 12:33:44 | Weblog
 エレベーターで死亡事故があったけどれども、私はエレベーターよりエスカレーターのほうが怖い。それも下りのエスカレーターがとくに怖い。

 エスカレーターに乗ろうとして、どの階段に足を乗せてよいのかが分からなくなることがある。この階段に乗ろうと思っているうちに、次々と階段が現れてくるので、タイミングが測れなくなってなってしまう。無理に足を乗せようとして、万一踏み外したら下まで転げ落ちてしまいそうで、怖いのである。

 ところで、エスカレーターの階段に付いている沢山の縦溝は何の役割をしているのだろうか。

儀式を軽んずるなかれ

2006-07-09 20:40:16 | Weblog
 最近、葬式や成人式が軽んぜられているように思えてならない。やれ密葬だの、成人式荒らしだの、儀式を軽んじている。

 儀式は馬鹿らしいように見えて、じつは人間が集団生活をする上において、重要な意味をもっているのである。

 儀式は有史以前からあった。人は儀式によって、のっぺりとした日常生活にメリハリを付けていたのだ。

 ケがあってハレがある。このリズムが人間の集団生活を支えている。

 ケばかりではいけない。ときどきハレの日があって、初めて集団生活が可能になるのである。

読書せよとは言うけれど

2006-07-08 14:42:34 | Weblog
 運動音痴の子供はどこの学校にもいる。いくら練習しても鉄棒の逆上がりができない。反対に何も教えなくても、蹴上がりはもちろん、大車輪までできるようになる小学生もいる。

 世間では読書せよとよく言う。しかし、読書音痴ともいうべき子供がいて、いっこうに本を読まない。決して文字が読めないのではない。たぶん文字が織りなす空想の世界に遊べないのだろう。そうであれば、読書なぞ苦痛以外のなにものでもない。そういう子供に読書を強いるのは酷というものだろう。

 小さいときからの読み聞かせが大切だという人もいる。私はわが子に読み聞かせもやったし、能力に応じた絵本なども与えた。しかし、読書好きの大人にはならなかった。

 運動好きも読書好きも、なにかこう先天的な特性なのではあるまいか。
 

マグロの語源

2006-07-07 16:46:33 | Weblog
 落語のネタにもあるように、マグロは昔はたんにクロと言われていたのではなかろうか。

 タイの中のタイをマダイと呼ぶ。それと同じように、「クロ」の中核をマグロと呼ぶようになったのではないか。

 いつの間にかマグロという名称が「クロ類」全体を指すようになり、続いてマグロの中核がホンマグロと呼ばれるようになったのだと思われる。

 ホンマグロのことをクロマグロともいう。「クロ」の上にもうひとつ「クロ」を乗せたわけで、「輿」が「御輿」(みこし)になり、ついには「御御輿」(おみこし)となったことが連想される。

ファシズムは今でもある

2006-07-06 16:16:01 | Weblog
 ナチスドイツのファシズムがどうして可能だったのか解らないと人は言う。当時のドイツ国民が、ホロコーストを容認したのを理解できないと言う。

 でもファシズムに近いことは現在でも行われている。それはタバコ排斥運動に見られる。ファシズムを知りたければ、日本を含めた先進国のタバコに対する態度を見るだけでよい。

 タバコに関しては今がファシズムである。ファシズムの渦中にいると、それがファシズムと気がつかない。ファシズムとは、そういうものなのである。

 喫煙者の私が言っても説得力はないかもしれないが、非喫煙者の友人も同じことを言っている。

信頼されている警察

2006-07-05 07:35:14 | Weblog
 前の記事で警察を批判したけれども、じつは私は警察を信頼している。

 患者さんも警察を信頼している。誰かに追跡されているという被害妄想をもった患者さんは、たいてい警察に駆け込む。

 警察官は患者さんをなだめ、精神鑑定にまわして、精神病と診断されれば「警察より病院へ行くように」と一生懸命に説得する。

 患者さんが「追跡」を恐れ、逃亡を続けて本人に危険が生じるようなときには、強制的に精神科病院に送る。警察はしょっちゅう、こういう仕事をしている。警察にはご苦労さまと言いたい。

民間人を脅す警察

2006-07-05 07:00:44 | Weblog
 まだ病院に勤務していたころ、患者さんに関して警察から捜査上の照会があった。

 医者には「守秘義務」がある。したがって、患者さんにかんする情報はいっさい出せないと私は断った。

 そうしたら警察は「情報を出さないのであれば、家宅捜査をしてもいいんですよ」と脅してきた。家宅捜査なぞされては、その日の診療がストップしてしまう。私はビビッた。

 でも「やりたければ、どうぞ」とつっぱねて電話を切った。

 けっきょく家宅捜査は行われなかったけれども、警察はこうして民間人を脅すことがある。だから、マスコミによる国家権力の監視は必要なのである。

マスコミはなぜ検察を批判しないのだろうか?

2006-07-04 13:31:46 | Weblog
 新聞を初めとするマスコミには権力を監視し批判するという使命がある。

 マスコミは皇室を批判しない。これは分かる。皇室は権力とは言えないし、皇室批判が国益になるとも思えないからだ。

 先日、前置胎盤の妊婦が大量出血で亡くなった。そうしたら、担当医が逮捕されてしまった。これには、たまげた。レスキュー隊が遭難者を救助できなかったから、逮捕されたというのと同じような印象を受けた。

 だが、なぜかマスコミは検察を批判しない。検察は一大権力である。でもマスコミは、ホリエモンが逮捕されると彼を悪者にしてしまうだけで、検察に誤りがなかったかどうか、検証さえしない。

 裁判の結果、ホリエモンは無罪になるだろうと、私はひそかに思っている。

「とうふ」と「なっとう」

2006-07-03 20:20:56 | Weblog
 俳句友達のT氏から聞いた話である。

 彼は「とうふ」は豆を箱に納めて固めるから、表記は「納豆」が正しいのではないかという。逆に「なっとう」は豆を腐らせる(醗酵させる)から、「豆腐」という表記が適切だという。

 なるほど、説得力のある説である。

 「納豆」と「豆腐」は意味がいつしか入れ替わってしまったのかもしれない。