家老の寝返りで、今まさに城が落ちようとしていた。
中老の東葛兵部は炎が上がり始めた本丸を、唇を噛みながら見上げた。
敵兵に槍で脇の下を突かれ、筋が切れたのであろう、左腕が動かなくなっていた。
落城の憂き目に遭うなど口惜しいことこの上ないが、唯一幸いだったのは、このようなぶざまな裏切りが姫君のお輿入れのあとに起こったことだった。
すべての領民に慕われた当主の姫君は昨秋、隣国の若殿の元へ嫁がれていた。
聡明で、お優しいお方だった。
武術にも励まれ、なぎなたの稽古の相手役を務めたこともあった。
ご気性なのか、たいそうな迫力で前へ前へと打ち込んでこられるので、兵部は思い切って進言した。
「姫様はそのお立場だけに、まずは何があっても討ち取られないように心掛けなければなりませぬ。相手を倒すばかりでなく、斬りつけてくる刃をかわすことも頭に置いていただくと、我々家臣も安心でござる。」
姫君はうなずくと、これが匹夫の勇(ひっぷのゆう:思慮分別のない勇気)というものであったか、すまなんだ、と頭を下げられた。
一方で、相手を和ませるような機知に富んだお話もたびたびされた。
お輿入れの前、遠くに見える山を差し示し、あれ東葛、あの山はわが領国から見える姿が表だと思っているが、隣国へ行ったらそちらの眺めを表と言わねばなるまいのう、としみじみ語られた。
「いいえ、こちらのお家柄も十分古く、また姫様ほどの御器量があれば、そのようなお気兼ねは不要と存じます。表でも裏でも、お好きなようにお呼びなされ。」
中庭に膝をついて控えている兵部へ、姫君は続けた。
そなたはわらわと父によく仕えた忠臣ぞ。このあとも変わらずお家を支えてたもれ。
「もったいないお言葉を。わが姫様にお仕えした時間は、手前にとって何よりの宝物でござる。どうぞあとのことは何も心配なさらず、あちらの若殿と末永くお幸せに過ごされませ。」
敵兵を一人斬り、二人斬りしているうちに、返り血が固まって顔がこわばってきた。
息が上がり、目がかすんできている。俺も年老いたものよ。
兵部はひとつ肩で大きな息をついたのち、正門から新たに雪崩を打って押し寄せてくる敵兵の渦の中へ、飛び込んで行った。