長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

花がるた 四月 藤

2020年06月10日 23時44分55秒 | きもの歳時記
 長すぎた春休みゆえの、夏休みが半分もない…かもしれない…というあまりにも悲しいニュースを目にするにつれ、一個の人間の将来、人生を左右する重大事である、子ども時間の在り方に思い馳せる。
 久しぶりに聴いた志ん朝の四段目で、昔は子ども向けの娯楽というものはあまりなく、大人の遊びにおまけで連れて行ってもらったものだった…と枕にあった。大人の無意識な日常が、子どもの人生を左右するのである。大人の責任は重大なのだ。

 小学1年生の夏休みの研究で、父の入れ知恵、差し金の成果である「アリの研究」で賞状をいただいた私は、でも、小学4年の時は「日本の服飾の歴史」という自由研究をする、オシャレ好きな、ごく普通の女の子に育ってはいた。
 前号で、21世紀のテレビドラマの衣装に対する連綿たる心情を語り損ねたが、1983年の市川崑監督の細雪(私は山根寿子が三女・雪子だった阿部豊監督1950年新東宝作品が好きだけれど)をはじめとして、呉服屋さんが協賛していた映像作品の、きものの豪華絢爛さたるや…娯楽作の常で当たり前だと思って気にも留めなかったけれど、今思えばあれこそが、夢、夢であった…のでございましょう。

 ある年の宗十郎の会の「鬼神のお松」だったかしら、子育てをしながら生業の盗賊に精を出す女丈夫の世にもカッコいいお芝居なのだけれど、煌びやかでありながら、尚且つ渋くて上品な金泥が施された馬簾の四天の出立ちで、花道七三に極まった九代目紀伊国屋が「提供は、千總~!」とこれまたカッコよく宣った姿と声が忘れられない。
 
 今日は旧暦では令和二年閏四月十九日で、ざっと220年前の西暦1800年、寛政12年の今日、伊能忠敬が旅に出たという、歴史地図フェチには忘れ得ぬ記念日であるのだが、さて、忠敬先生の、その日の出立ちやいかに。
 産業革命で蒸気機関が発明されて以来、地球の気温は上がり続け、一方で江戸時代は軽い氷河期(?!)だった、というお説も昔聴いたけれど、時代劇の着物の季節感がやたらと気になる老婆心。

 此の方はというと…20世紀中は猛暑日などという言葉がなかったので、新暦の4月いっぱいは袷(あわせ)を着用していたが、最早、熱中症の恐ろしさには代えられず、4月中にこっそり単衣を着ていたりする。
 着物の仕来りが重視されるTPOとは違い、自分の場合は仕事着のこともある。気候の変動に合わせて規範というものも崩壊した。



 藤は執着深い花である…と何に書いてあったのか忘れてしまったが、古典的な柄では、松の枝の、木の精を吸い取ってしまうかのように絡みついている。
 もう30年以前、金毘羅歌舞伎に出かけた折、高松空港からの道中の車窓から、藪の枝の上部に野生の藤の花が咲いているのを方々で見かけた。白い藤が多かった。
 松見草という別名に、先人の日本語のセンスがしのばれる。命名の妙である。
 ♪いとしと書いて藤の花、という長唄「藤娘」の歌詞はなるほど、葦手の柄行そのものの藤の花房を想い出させる。
 長唄舞踊の藤娘の衣装は、女形の役者さんごとに好みが違って、私は音羽屋・七代目尾上梅幸丈の、オレンジがかった朱と、スモーキーなカーキっぽい萌黄色の、片身替りの衣装が好きだった。

 しかし、歌舞伎座で藤娘が掛かっても、藤の衣装で観劇するのは野暮の骨頂というものなので、変わり縮緬地(一越にしては地厚なので織地不明)の藤の染め帯を、芝居に着て行ったことはない。

 将棋に凝っていたのはもう10年以前で、このたび藤井聡太七段(えっ…もう七段なんですね…四段と書いてしまったので急いで直しました)に棋聖戦で挑戦されている渡辺明三冠が、無敵の竜王何期目かの防衛をしていた頃だった。
 3.11の震災があった春先、チャリティイベントが多く行われた。イベント目当てで旅行することは稀な自分には珍しく、名人戦を追っかけて弘前を訪れたりもしたが、憧れの棋士先生が指導対局してくださるというので、黄金週間の始まりの旗日に、横浜はみなとみらい地区のイベントまで行ったときに締めていたのが、この帯である。

 午前は横浜、午後は日本橋の知人の演奏会へとトンボ返りで忙しかったが、東京へ向かう空いている根岸線の中で、棋士先生の指し手を思い浮かべては、一人にやにやしていた(ほかに乗客がいなくてよかった…)。車窓から射し込む、明るい晩春の日差しのなかで、全身喜びに満ち溢れていた。
  うれしさを 昔は袖に包みけり 今宵は身にも余りぬるかな
 そんな古歌を想い浮かべるほどに、そう、その時なぜだか、私は春だった。

 実はこの帯は、20世紀の美しいキモノ誌読者垂涎の、K先生の作品なのである。
 2000年を過ぎたころ、作家ものとは縁遠いワードローブ生活者の私が、日本橋のT百貨店の、特選呉服売り場の売出しを冷かしていたとき、なんと…!!というお値段で出されていた。
 「えっ!!本当にこのお値段なんですか!?」と訊くと、「まったく嫌になっちゃいますょねぇ…」と実直そうな店員さんが言葉を濁しつつ答えた。
 輝かんばかりの金通しの菊の柄と、あと何だったか…藤のものと合わせて三本ほど、出ていた。買い占めたかったのであるが手元不如意につき、クリーム色と藤の紫の取り合わせが何とも言えず素敵だったので、しかもしゃれ袋ではない、締めやすい名古屋だったので、一筋だけ求めた。

 藤棚の竹の菱形に合わせて、ひげ糸の紬を空色の斜め格子に染めた袷に合わせた。
 朗らかな晩春の空、このいでたちの私は、身も心も春だった。わずか10年ばかり以前のことである。 

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