長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

深紅の帆

2017年01月23日 04時56分00秒 | 美しきもの
 震える指で書かずにはいられない。
 稀勢の里が優勝したのである。

 「ぼろんぼろぼろぼろん勃嚕唵…」と数多の山伏、祈祷師が唱えた呪文よりも、霊験あらたかなる"稀勢の里優勝”このたった六文字が、ここ何年ものあいだ積もり積もった大相撲に対するもやもやを雲散霧消させ、私の魂は救われたのである。

 諦めようにも捨てきれない願い…これを人は悲願と呼ぶのだろうか、この日が来ることを信じていたわけではない。かなう日が本当に来るのだろうか、と疑わずにはいられないような状況が重なりながら、願わずにはいられない思い。
 いったい、それが現実になることがあるのだろうか…と幾度も諦め、しかし諦めきれずにいだき続けたこの思いが現実となって姿を現したときの、この心持ちたるや……なんと言うたらよかろやら…ついに、“深紅の帆”が目の前に現れたのだ。
 “深紅の帆”というのは、ロシアの小説家、アレクサンドル・グリンの短編名である。

 本と絵が好きな少女が抱かずにはいられない夢の一つに、絵本作家という職業があって、小学6年の春休み、神田明神での叔父の結婚式の帰り、後楽園球場で開かれていた大シベリア博でマンモスの氷漬けを見た私は、同会場のソビエト連邦(!)物産展で、美しいロシア語の絵本を手に入れたのだった。同じ日に初めて飲んだドクターペッパーの美味しさを忘れることはできない。
 その絵本を翻訳したいがため、春休みの間、田舎町の図書館に通ったのだが、結局何のことやらわからず仕舞いであった。その絵本のタイトルは、もはや覚えていない。

 それから何年かが過ぎ、その絵本をもう一度翻訳したいと思い、大学で第3外国語のロシア語を選択してしまったのだ。裏のコマの時間割に、教員の資格を取るには必修の講義があったのに、どうしてだか、1980年当時の一般的女学生の処世においては全く役に立たない(男女雇用機会均等法制定前夜の時代であった)…第1外国語の英語も、第2外国語のフランス語さえもおぼつかないというのに…教職を見返ってロシア語の授業を選んでしまったのだ。
 しかし、神様は我に味方した。他の学校から講師に来てくださっていたY先生は、若い時の三国連太郎とマルチェロ・マストロヤンニを足したような、複雑で独特な存在感のあるチャーミングな先生だったからである。
 Y先生は高校卒業後、いったん旋盤工の仕事に就いたが、思うところあって学校に入り直したそうだった。ある授業中、先生は黒板に文字を書こうとして後ろ向きになったが、シャツのポケットがその背中にあった。先生は後ろ前に丸首のシャツを着てらしたのである。クラスの男子がこっそり先生に耳打ちしに行った。途端に教室を出て廊下で着替えられたのち、すぐ戻ってきて「早く教えてくれよな」と顔を赤くして我々に訴えた。教室は明るい笑い声に包まれた。
 そのY先生が教えてくださったのが、アレクサンドル・グリンという作家の存在だった。

 ご存知のように、私は凝り性なのである。いくつになっても五十肩、という秀逸なCMの惹句をしばしば聞くようになったが、いくつになっても凝り性な人間は若い時も凝り性だったので、晶文社の翻訳本『波の上を駆ける女』だけでは飽き足らず、神保町のナウカ書店へ行き原書を求め、また古本屋をめぐり、どこだったかの版元の児童文学全集に入っていた『深紅の帆』までも探し求めたのである。

 もう三十数年前のこととて、あらすじの断片しか憶えていない。挿絵が美しかった。著名な画家だったが誰だったろう。残念ながら手許にその本はない。
 海沿いの寒村に住む少女は、村の人々に仲間外れにされながら、まだ見ぬ船長の父が深紅の帆を掲げた船で迎えに来てくれる、という亡き母の言葉を信じて暮らしている。
 それが本当にかなうことなのか、少女自身疑っているのかいないのか、そんなことは問題ではなく、ただ彼女はその事象が訪れるのを静かに待って暮らしているのだ。
 夢がかなう、かなえるためにアタシは旅に出るんだ!という明快な甘い雰囲気ではないので♪オーバー・ザ・レインボー…というお話とは本質的に違っていて、彼女は自分でその思いをかなえるすべを持たぬが、ひたすら諸事に耐えて待っている。
 やがて、海を見晴るかす岬に立つ彼女の目の前に、現実の深紅の帆が姿を現す…ただそれだけの話で、信ずるものは救われる、真実、純粋で真剣な人間を嗤うものは邪悪な脇役でしかない、という真っ直ぐなお話だった(ように記憶している)。

 この話に心が向くたび、高校の国語の教科書に「寒山拾得」の一文が載っていて、その時の自分には、起承転結、序破急という物語のツボを押さえることなく展開もしていかないこの掌編の存在の意味が分からなかった…そんなことも想い出す。

 抽象的な精神性を文章で具現化するには、細かい説明は要しないものなのかもしれない。
 アレクサンドル・グリンは、ストレートな熱を帯びてはいるが柔らかく清々しく、しかし熱く、透明で硬質的でありながら、ふうわりとして空に浮かぶ白玉のお団子にも似て(決して綿菓子ではない)とらえどころがないようで、確たる信念を感じさせる不思議な作風なのだった。

 渋谷のロゴスキーはもちろん、東京近郊の何軒かのロシア料理店を制覇したり、国営放送のロシア語講座に生徒として参加したり、「黒い瞳」を原語で歌えるようになったりしてその年は暮れていった。
 2年目に、先生はお忙しくなられて、外濠に面した学校に帰ってしまわれた。偶々同校にJK時代の仲のよい友達がいて、時間割を調べてもらい、土曜日の授業に潜り込んだ。
 5月の明るいある日、先生は、来週の授業の後、館山へハイキングに行こう…と誘ってくださった。私はとても嬉しくて、行きましょう!と答えた。…だが、行けないことはわかっていた。来週の土曜日は、私の結婚式だったのだ。

 それから2年ほど経って、ふたたび先生の研究室を訪った。先生は、本当にロシア語を勉強する気があるなら…と言って私にグラムシの原著のロシア語版と、日本語の評伝集を貸してくださった。
 次の週、外濠の北側にあった研究室へ向かうと、先生は不在で、お濠の反対側にあった本校舎では学生運動のデモ隊がアジっていた。しばらく待っていたら、息を切って先生が戻ってらした。どうやら先生もデモに臨戦していらっしゃるようだった。今日は授業はできない、と言葉を残して、先生はまた闘争の巷に去ってゆかれた。それ以来、Y先生にはお目にかかっていない。
 ロシア語教室の友人から、南米に渡られた、という消息をうかがったのが、もう30年前のことになる。

 Y先生は御茶ノ水のニコライ堂の隣に在った、ニコライ学院という学校でもロシア語を教えてらしたが、ベルリンの壁が崩壊してソビエト連邦という国がこの世から消滅したのち、いつの間にかその学校もなくなっていた。
 先生からソ連のお土産に頂戴したマトリョーシカとソフビのコサック人形をまだ持っている。
 先生に聞かせてあげようと思って手回しのオルゴールを持っていたのだが(マッドマックスのfirstシーズンの影響なのだ)渡せずじまいだった。メロディはリリー・マルレーンだった。
 そんなふうに私は、諦めが悪いのだった。


追記:この原稿を書いてアップするまでに5日ほど経ってしまった。その間に、稀勢の里は第72代横綱に推挙された。一昨日発表された手記に、自分を「早熟なのに晩成という珍しいタイプ」と評していた。自分の道を諦めきれぬと諦めて、意気揚々と生きてゆく、発奮させられる言葉である。
 
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