長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

長唄の美学

2017年07月23日 13時33分33秒 | お稽古
 この春のとある演奏会で、お客様から「幕を下げるタイミングが早すぎるのではないか?」とのご意見を頂戴いたしました。
 それは、現行の演奏会での傾向を薄々感じているものからすると、ついにここにも来たか、という…頻繁化する外国船の到来に、どうしたものかと考えているうち天保末年に開国勧告がしたためてあるオランダの国書を受け取っちゃったというような…ギクリとするご意見でした。 
 実を申せば、昭和からの生き残りの者には、これでもまだ、ちょっと遅いな…と感じ、幕下げの見計らいの甘さに忸怩たる思いをしているからでございます。
 何年か前から、緞帳を下げるのが早すぎる、とのご意見を頂戴するようになって、下げ方の様式がだいぶ変化して参りました。
 演奏が終わって、客席からの拍手を浴びながらツーーーーーーと緞帳が下がっていく傾向が増えたように感じます。

 長唄の演奏会での慣習は、終曲の段切れ部分、ツーン、ツーン、シャン。←このシャンの部分で緞帳が舞台の床に着地する、それが鉄則でした。その絶対的なタイミングを計るのに、各劇場の緞帳の、幕下げスイッチを入れて締まりきるまでの時間を過剰なまでに把握しておりました。とても微細な神経を使う作業でした。
 演奏一曲の仕上がりが、この幕一つにかかっている、といっても過言ではありません。たかがどころではなく、幕、されば幕、きっちりとしなきゃいけないのが幕です。
 幕当番を仰せつかるととてつもなく緊張します。しかし、ツーーーーと緞帳が下りていって、シャン、と同時に幕が落ちたときのあの充実感ときたら…! 
 些細で些末なところに気を抜かないのが、仕上げというものです。お裁縫や建築の現場もそうだと思います。作品の仕上がりとはそういうものです。

 洋物の演劇にどっぷりとつかっていらしたのに、ここへきて急激に歌舞伎・文楽など日本の伝統演劇に目覚めた、という嬉しき方々からよく伺うのが、カーテンコールがない、客電が明るい…etcというご意見です。
 日本の文化には長い年月培われてきた経験則が生かされておりますので、そのご意見をクレームにせず、そうするのはどうしてなのか?…と、翻って考察なさっていただけたらいいなぁ、と思います。
 彼我の文化の違いを、否定して自分が親しんできた方向へ変えさせようとするのではなく、まずは受け止めて考察してくださいませ。いろいろな発見があって面白いものです。

 ところで、能舞台の前、見所(けんじょ:客席)との境には幕がありませんが、私が敬愛してやまぬとある狂言方の先生があるとき、こんなことをおっしゃいました。
 「舞台というところは、僕やアタシのパフォーマンスをお見せするところではなく、結界です」

 舞台と見所の間には厳然とした次元の隔たりというようなものがあって、それで、なぁなぁではない藝境を垣間見る瞬間が訪れることがあるのだ…と、伝統芸能が好きな私は思うのです。

 そういえば、芝居の下手さをヤジる言葉に「緞帳役者」というのがありました。
 歌舞伎の定式幕、あれはお上から許された座元しか使えません。引き幕です。舞台の格を示すもので、かたや、それを使えない芝居を緞帳芝居といって、垢ぬけないアンダーグラウンドのものと揶揄したのです。
 今では緞帳さえないフリースペースの、劇場とは言えない小屋のようなものばかりが増えましたけれども。

 ぁ、そうでした。もう一つ、長唄の美学を顕しているものに、白ネジ、というものがありました。
 長くなるので、この話はまたの機会にお届けできたらと、思います。
 
コメント
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