宗恵の「一期一会」

茶道教室の様子を中心に日々感じたことなどあれこれ綴ります。

麟閣

2010-05-11 10:50:46 | 宗恵の茶の湯日記
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 豊臣秀吉の奥州仕置きによって天正18年(1590)蒲生氏郷が会津に入り(42万石のち92万石)、近世的支配を確立していきました。
 氏郷は織田信長の娘婿であり、器がおおきく勇猛な武将であるうえ、この時代を代表する文化人で、特に茶道に親しみ、のち利休七哲の筆頭にあげられるほどでした。

 天正19年(1591)2月28日、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家が茶の湯の世界から追放された折り、氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんでその子、少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけました。
  その結果、文禄3年(1594)と推定される「少庵召出状」が出されたのです。
 少庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は一子、宗旦(そうたん)に引き継がれました。

 そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家が興され、今日の茶道隆盛の基が築かれました。 かくまわれている間、氏郷のために造ったと伝えられているのが「麟閣」であり、以来、鶴ヶ城(若松城)内で大切に使用されてきました。

 しかし、戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治初年、鶴ヶ城が取り壊される際、石州流会津怡渓派の森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室の失われるのを惜しみ、明治5年(1872)5月、自宅へ移築し、以来百二十年にわたり、森川家はその保全に努めてこられました。
 会津若松市では平成2年9月12日、市制90年を記念してこの氏郷少庵ゆかりの茶室を後世へ伝えるため、鶴ヶ城内の元の場所へ移築いたしました(会津若松市観光公社HPより)。



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Dscn6490中門

Dscn6491_2腰掛待合

Dscn6492蹲踞

Dscn6494にじり口

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福島県立博物館で開催中の「千少庵と蒲生氏郷展」では「少庵召出状」が展示されていました。また利休の竹花入「園城寺」を見ることができ感激。少庵が氏郷によってかくまわれていたことにより、今日の千家があるのだなぁ、と思うと感慨深いものがあります。



コメント (4)
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