脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

汝の思索のあるところ、それが汝の居場所なり。

2010年04月17日 10時36分12秒 | コギト
今朝の東京は、うっすら降雪の跡が屋根や庭の片隅に名残り、
四月とは思えない真冬の冷え込みであった。

最近図書館から借りて読み終えた三冊の本が手許にある。
各々から、任意に「死」についての記述表現を抜き出してみた。

生物にとって死とは、他者の「死」を体験し感じて思うこと、
ヒトならば、翻って自身の「死」について夢想することでしかない。
死そのものは、常に永遠に、他者に帰属する<或るもの>でしかあり
得ないのだろう。


最初の引用文は、境界性人格障害が極まったような女性の語り文で
ある。あるいは、一回死んだ死者が生前の死を回顧しているかのよ
うなゾンビな一節である。

①「一つの大きな石が私の頭蓋を真っ二つに割ってしまったようです。
  (中略)
 ドッと駆け寄って来た人々が、斧で私を切り刻み始めました。
 手首と足首に続いて四肢が付け根から切断され私はこれで漸く
 意味不明の肉塊に成り果てる事が出来ました。
 やっと人間が辞められます。
 待ち望んでいた解放の時。嗚呼清々する。二度と人間などに生まれ
 変わってきませんように。合掌。(あ。出来ない)」
(『独居45』吉村萬壱著/文藝春秋 p178から引用、改行随時。)

この作家は、芥川賞作家であるが、特にこの作品はキワモノである。
自傷的で病的な「死」が描出されているが、自虐にユーモアが漂う。
命ある肉体が極めて即物的で、また同時にそれに宿る心さえ即物的に
出来てみえる。破滅を彼方に望んでいたかのような「死」か。

かの秋葉原での無差別テロ事件に象徴される同種事件の加害者たちの
心象風景もこんな感じかもしれない。
自虐-他虐とが入れ子に等価となり、この世界を巻き込んだ肥大化し
た「私」の絶滅への意志。自分も虚構なら世界も等しく虚構、全てが
間違っているので壊してしまえ、と。
そんなある種今日的な、負の感度を示しているように思う。


次の作品は、時代背景・主な舞台が、昭和30年代、オリンピック景気
に沸き立つ東京の、下層社会(飯場)である。
主人公の国男は、東北の寒村出身だが東大の大学院生である。
東京の飯場で亡くなった兄の死の面影を追いかけていくうちに、
彼自身が死霊に憑かれたように、ある種の十字架を背負っていく。
極私的には私好み、奥田英朗の作にしては一番シリアスで、虚無的な
匂いの濃い物語である。

②「 国男は自分の兄のことを思わずにはいられなかった。兄もまた、
 ヤマさんと同じように粗悪なヒロポンを摂取し、心臓が耐えられず、
 昏睡状態に陥ったのだ。そして救急車を呼ばれることもなく、担ぎ
 込まれた先の病院で息をひきとり、心臓麻痺と診断された。
  (中略)
 「飯場で起ごるごどは、全部内輪で処理するのが慣わしだ。元請け
  にヒロポンさ打ってるごどを知られたら、山新が罰を食らって、
  そうなりゃあおらたちの給料が下がる」」
(『オリンピックの身代金』奥田英朗著/角川書店 p218から引用。)

このような無名な遠い「死」にこそ、私は最もリアリティを感じる。
だが今日「死」を巡る言説からこのような「死」が脱落し始めている
気がする。そのことを強くまた象徴的に感じたのは、オウム事件にお
ける、殺人という犯罪を軽んじた「ポア」だったかもしれない。
①と②の作品における「死」の位相の甚だしい相違に変貌著しい現代
の実相を、その落差のうちに感じる。


次の高村作品の下巻には、オウム真理教を巡っての宗教論議が描かれ
てある。が、オウム教を踏み台に今日の時代の断層や宗門の在り方そ
の他を問うような試みは高く評価したいが、仏教教義等の形而上論議
に深入りし過ぎてしまい、結局現代という、予め実存が奪われたよう
な世界を生きるしかない存在体として人間を描くに、その接点を見失
っていはしまいか、というのが私の感想である。
結構は良いが、何かがモノ足りない気がしている。

③「人間は太陽を直視していられないように、死をずっと直視してい
 ることはできないこと。  
 またさらに、死ぬことへの恐怖や否認や諦めなどの過程をすべて通
 り抜けた最期に来るのは、すべての他者が消え、すべての思惟と感
 情が消えた完全なる自足であること。
 思うに、生命がいま欲するものがすべて与えられ、
 他者が消えてしまったゆえにもう何も要求されることもなく、
 己が生命の<いま>が世界そのものになる、というところでしょう
 か。」
(『太陽を曳く馬(下)』高村薫著/新潮社 p380から引用。
  但し、原文の旧かな遣いを新かなに改変及び改行随時引用者。)

上文は、同書最終章の「<対象a>、もしくは自由へ」からの引用で
ある。この作品でジャック・ラカンや彼の概念である対象a(アー)は
蛇足にさえ思える。
道元の『正法眼蔵』で事足りるのではなかろうか? 
仏典に馴染みの薄い現代の読者への、注釈的工夫・配慮としてラカン
が援用されたのだろうか?

(正直な話、私は道元をキチンと読んだことも、仏典にも通じてい
 ないので、私には本作品を理解し批評する能力と資格が足りない
 のであるが、下の草々の戯言として受け止めて頂きたい。)

引用箇所に描かれたような「死」を<対象a>になぞらえて、ラカンを
我流に遣っている印象が残るが、それはそれで良い、私もラカンが
我流にしか理解できないから‥。

人間はこの世に産まれて、アーだかアウだかから発声(正確には声で
はなく、気道を通過する音)が始まり、またアだかアウに戻って絶息
しては生を終える。

つまり、あぁ~あ、ジンセイなんて‥‥、
の「~」もしくは「ー」のような、
「存在はしているが永遠に何ものでもないもの」のような、
点から虚空に向けて引かれた線分の「起伏」(それが勝った負けた出
世した等々、起伏にジンセイの意味やら価値があって)に過ぎない。

「に過ぎない。」とは言え、「アー」から「ア」までを生きるだけ
でも大変な事で、賢しらに利口ぶってみても何ほどの事でもなく、
それが何だか分かっていなくとも、生きてみる処に、各自性として
の一回性、唯一性としての、誰の生でもない、この私の生があるのだ、
という長々した割には何のこともない、つまらない結論で、、、
お疲れさまぁ~~でした、という処です。

線分は淡々とフラットに、いや、と言うより、静かに寄せるさざ波
のように、<私>の旋律のモチーフに数々の和音を鳴り響かせつつ、
緩やかにアーチを描いては余韻のうちに閉じるが良い。


(最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。ではまた‥。)
※ 表題はスティーヴ・ライヒのCD『YOU ARE(VARIATIONS)』中
  の一曲「You are wherever your thoughts are」から借用。

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