冴えないコロナ禍の年末である。前の総理大臣が「桜」疑惑でお決まり
の言訳をしていた。「秘書がやったことで、(自分は)知らない」と。
秘書が全てやっても、責任当事者は誰なのか。これで政治も世間も罷り
通るのなら、リスクのある事は全て、秘書にさせてれば、安泰だろう。
A前総理は、夫婦して税金をつまんだり、公務を私物化したりしていた
訳で、私腹を肥やしていたという程、悪質ではないものの、どうも本心
から反省している様子には見えない。世の謝罪会見のほとんどは最初か
ら形骸化している。IT化の現代、形式ばかりが自動化した中を、ヒトも
モノも流されて運ばれ、「真心」の在り処を忘れてしまった。
既にヒトビトは、「真心」も「本物」も求めていないのかもしれない。
仮象であれ、「虚」や「偽」であれ、大勢がそれを認めれば、その勢い
や方向へ一緒になびいて行くだけの大衆社会であり、多数派が勝つだけ
の「民主主義」である。本物やら正義の在り処を探すより、いつの時代
でもヒトの世の中そんなモン、と見切ってた上で、生き残りを賭ける
しかないのである。
思えば、昭和の頃は「正義」や「本物」が輝いていた。象徴的に言えば、
バブル景気を境に虚実が反転した気がする。誰もがアワ踊りに浮かれ、
巨大に膨らんだアブクはやがて破裂すると薄々予感しながら、破裂して
みればそれはそれで大変だったけど、真面目一辺倒な昭和日本人は、
「虚」というものにも力があることを、始めて知ったのではなかろうか。
平成の初め頃、老後の安心を謳ったはずの、年金財源の将来破綻が明ら
かにされ始めた。「実」と思わされていたのが、「虚」だった訳である。
政府は年金について、老後の「保険」という権利ではなく、「世代間扶
養」の義務であると、年金の性格規定を逆転させてしまった。仕方がな
いとはいえ、これでは全くの国家詐欺である。掛け金が老後に増えて支
払われる保険ではなく、国民にとって年金は、第二の税金となった。
また、平成初期で思い出すのは、労働者派遣法とフリーターである。
これらの登場は、労働者を二分する階層分化を促進した。派遣労働者も
フリーターも当初は、自由で新しい働き方の提案として、持てはやされ
たが、すぐに正社員になれない不安定就労のマイナスイメージへ転落した。
正社員と非正規社員という労働者階層の二極化が、平成を経る毎に、
労働者の所得や身分の格差として、際立っていくことになる。
ここで設論に「搾取」という言葉を使いたい。正社員が定期昇給や昇進、
身分保障のある社員とすれば、非正規社員とは賃金を初め、労働現場で
のポジションやステータスに上昇を許されない、固定的な下層労働者で
あり、人件費の調整弁となる使い捨て労働力である。このような非正規
労働者を「層」として労働市場に作り出してしまった。彼らは、「予め
搾取された労働者」である。正社員が労働過程で搾取されているとして
も、非正規者は、働く前から制度的に既に搾取されている存在である。
搾取の様相は、平成が深まるに連れて更に変化する。平成時代の特徴の
ひとつは、携帯電話の進化と爆発的な普及であろう。携帯電話がライフ
スタイルとなり更に決済手段にもなり、生活インフラ化することで、携
帯各社は利用者の消費を囲い込み、自動的に莫大な収益を確保している。
昨今、菅政権は携帯電話各社に高すぎる料金を下げるように、異例の申
し入れをしたが、損得不明の分りにくい仕組みやら料金プランで、消費
者を惑わせる商法も含めて、企業は労働者からの搾取よりも、灰色のビ
ジネス・モデルを強いての、消費者からの搾取に移行したと思う。
消費者搾取モデルの代表格は、マルチ商法だと思うが、携帯電話の他に
不動産・建物のサブリース商法、自動車のカーシェア事業等、法の網を
すり抜ける詐欺未満商法は今後も、正規のビジネスとして案出され続け
るであろう。ブラック・ビジネス或いはダーク・ビジネス。白黒がごっ
ちゃなので、私は「シマウマ・ビジネス」とでも名付けたいが。
以上を総括すると、マルクス経済学的に言えば、昭和の頃は、労働者が
生産現場で搾取されていたという労働神話が成立していたが、剰余価値
は宇野派の言うように流通過程で実現されていたのだろう。だが剰余価
値とは最終的に商品が買われねば実現されない。労働者総体は、各自が
消費者として自ら生産した商品を買い戻す訳だが、労働者は原価では買
えず、資本家利潤の上乗せされた販売価格で買い戻すしかない。
労働者は、被使用者として搾取され、更に消費者としても二度目の搾取
を被るという、二重に搾取されるべく運命づけられた存在である。企業
或いは資本は、この循環を繰り返し膨らんでいき、企業や資本は、企業
家や資本家・株主の人間的な意思を超えて、それ自体が独自の資本生命
体となるが如きである。私は、例えばGAFAのような巨大プラットフォ
ーマーにそんな存在感を抱く。
久しぶりにブログを書いたので長くなってしまったが、この辺で終わり
にしたい。文中、<搾取>の概念は勝手に拡大して運用しています。
言いたいことは、現代資本主義は、労働者から搾取することからシフト
して、消費者からより多くを搾取する方向に重点を換えていること。
私見だが、資本による搾取の客体は、労働者・消費者の次には、弱小な
資本家や個人株主が、資本(或いは国家)から搾取されるようになる気が
する。既に今の日本では、国家予算の40%は国民からの借金で賄われて
いる。税金・公金という名の搾取を強化せねば国がもたないのである。
日銀が株価を買い支えしている日本資本主義に、現代資本主義の最終局
面を見ている気さえする。(瓦解しつつあるなら歴史的瞬間である。)
私は資本主義は、例えば、強欲なタコがいくら食っても空腹の余り、最
後に自分の足を食い始めて、自滅するのだと思っている。弱肉強食の資
本主義の闘争が果てた後、コモンズ(共有)という概念が芽生え、分け合
ったり共有したりという新たな社会が、革命に拠らずに自然と始まるの
ではなかろうか。
の言訳をしていた。「秘書がやったことで、(自分は)知らない」と。
秘書が全てやっても、責任当事者は誰なのか。これで政治も世間も罷り
通るのなら、リスクのある事は全て、秘書にさせてれば、安泰だろう。
A前総理は、夫婦して税金をつまんだり、公務を私物化したりしていた
訳で、私腹を肥やしていたという程、悪質ではないものの、どうも本心
から反省している様子には見えない。世の謝罪会見のほとんどは最初か
ら形骸化している。IT化の現代、形式ばかりが自動化した中を、ヒトも
モノも流されて運ばれ、「真心」の在り処を忘れてしまった。
既にヒトビトは、「真心」も「本物」も求めていないのかもしれない。
仮象であれ、「虚」や「偽」であれ、大勢がそれを認めれば、その勢い
や方向へ一緒になびいて行くだけの大衆社会であり、多数派が勝つだけ
の「民主主義」である。本物やら正義の在り処を探すより、いつの時代
でもヒトの世の中そんなモン、と見切ってた上で、生き残りを賭ける
しかないのである。
思えば、昭和の頃は「正義」や「本物」が輝いていた。象徴的に言えば、
バブル景気を境に虚実が反転した気がする。誰もがアワ踊りに浮かれ、
巨大に膨らんだアブクはやがて破裂すると薄々予感しながら、破裂して
みればそれはそれで大変だったけど、真面目一辺倒な昭和日本人は、
「虚」というものにも力があることを、始めて知ったのではなかろうか。
平成の初め頃、老後の安心を謳ったはずの、年金財源の将来破綻が明ら
かにされ始めた。「実」と思わされていたのが、「虚」だった訳である。
政府は年金について、老後の「保険」という権利ではなく、「世代間扶
養」の義務であると、年金の性格規定を逆転させてしまった。仕方がな
いとはいえ、これでは全くの国家詐欺である。掛け金が老後に増えて支
払われる保険ではなく、国民にとって年金は、第二の税金となった。
また、平成初期で思い出すのは、労働者派遣法とフリーターである。
これらの登場は、労働者を二分する階層分化を促進した。派遣労働者も
フリーターも当初は、自由で新しい働き方の提案として、持てはやされ
たが、すぐに正社員になれない不安定就労のマイナスイメージへ転落した。
正社員と非正規社員という労働者階層の二極化が、平成を経る毎に、
労働者の所得や身分の格差として、際立っていくことになる。
ここで設論に「搾取」という言葉を使いたい。正社員が定期昇給や昇進、
身分保障のある社員とすれば、非正規社員とは賃金を初め、労働現場で
のポジションやステータスに上昇を許されない、固定的な下層労働者で
あり、人件費の調整弁となる使い捨て労働力である。このような非正規
労働者を「層」として労働市場に作り出してしまった。彼らは、「予め
搾取された労働者」である。正社員が労働過程で搾取されているとして
も、非正規者は、働く前から制度的に既に搾取されている存在である。
搾取の様相は、平成が深まるに連れて更に変化する。平成時代の特徴の
ひとつは、携帯電話の進化と爆発的な普及であろう。携帯電話がライフ
スタイルとなり更に決済手段にもなり、生活インフラ化することで、携
帯各社は利用者の消費を囲い込み、自動的に莫大な収益を確保している。
昨今、菅政権は携帯電話各社に高すぎる料金を下げるように、異例の申
し入れをしたが、損得不明の分りにくい仕組みやら料金プランで、消費
者を惑わせる商法も含めて、企業は労働者からの搾取よりも、灰色のビ
ジネス・モデルを強いての、消費者からの搾取に移行したと思う。
消費者搾取モデルの代表格は、マルチ商法だと思うが、携帯電話の他に
不動産・建物のサブリース商法、自動車のカーシェア事業等、法の網を
すり抜ける詐欺未満商法は今後も、正規のビジネスとして案出され続け
るであろう。ブラック・ビジネス或いはダーク・ビジネス。白黒がごっ
ちゃなので、私は「シマウマ・ビジネス」とでも名付けたいが。
以上を総括すると、マルクス経済学的に言えば、昭和の頃は、労働者が
生産現場で搾取されていたという労働神話が成立していたが、剰余価値
は宇野派の言うように流通過程で実現されていたのだろう。だが剰余価
値とは最終的に商品が買われねば実現されない。労働者総体は、各自が
消費者として自ら生産した商品を買い戻す訳だが、労働者は原価では買
えず、資本家利潤の上乗せされた販売価格で買い戻すしかない。
労働者は、被使用者として搾取され、更に消費者としても二度目の搾取
を被るという、二重に搾取されるべく運命づけられた存在である。企業
或いは資本は、この循環を繰り返し膨らんでいき、企業や資本は、企業
家や資本家・株主の人間的な意思を超えて、それ自体が独自の資本生命
体となるが如きである。私は、例えばGAFAのような巨大プラットフォ
ーマーにそんな存在感を抱く。
久しぶりにブログを書いたので長くなってしまったが、この辺で終わり
にしたい。文中、<搾取>の概念は勝手に拡大して運用しています。
言いたいことは、現代資本主義は、労働者から搾取することからシフト
して、消費者からより多くを搾取する方向に重点を換えていること。
私見だが、資本による搾取の客体は、労働者・消費者の次には、弱小な
資本家や個人株主が、資本(或いは国家)から搾取されるようになる気が
する。既に今の日本では、国家予算の40%は国民からの借金で賄われて
いる。税金・公金という名の搾取を強化せねば国がもたないのである。
日銀が株価を買い支えしている日本資本主義に、現代資本主義の最終局
面を見ている気さえする。(瓦解しつつあるなら歴史的瞬間である。)
私は資本主義は、例えば、強欲なタコがいくら食っても空腹の余り、最
後に自分の足を食い始めて、自滅するのだと思っている。弱肉強食の資
本主義の闘争が果てた後、コモンズ(共有)という概念が芽生え、分け合
ったり共有したりという新たな社会が、革命に拠らずに自然と始まるの
ではなかろうか。