昨年父が亡くなり今年は初盆である。いつもお盆は、近所にある墓参
りをするだけだったが、今回は玄関先に提灯を飾り、母と迎え火を炊
いた。仏壇には花と、父の好物だったアンパンとバナナを供え、藁の
牛馬を置いた。お盆の仕方に不案内だが、こんなもんで良かろうか。
お盆には死者が帰ってくるというが、束の間、故人が遺族の許に戻る
という「物語」は、美しい風習だと思う。それがフィクションであれ、
それを信じて故人を静かに偲ぶ心は美しい。こんな処に伝統日本人の
繊細な美意識が現れている。
でも故人の御霊は、どうして真夏の暑い時期に帰ってくるのだろうか?
例えば、年末に帰ってきて、新年の門松明けに帰る想定でも良さそう
に思える。仏教思想の理屈は知らないが、封建権力の支配下、暑い夏
の時期に農作業等の労働をやめ体を休める方便に、先祖供養をうまく
利用したのではなかろうか?
夏の暑中に一休みしたい工夫に、先祖供養のための「御盆」という文
化・風習を創出したとか‥。今風に言えば、御盆とはクールビズであ
る。為政者も先祖供養では「怠けず働け!」と文句言えまい。そんな
庶民の勝れた智慧であったのではと、ちょっと想像してみた。
今日は7月16日。東京地方では今夕送り火を炊く。御先祖さまはお
帰りである。少し賢(さか)しらに考えてみれば、御盆とは、あの世と
この世を地続きに繋いでしまうような行事である。さながらメビウス
の輪の「ねじれ」に相当するのが「御盆」である。
‥‥また見つかった! 海と番(つが)った太陽が!(A.ランボー)。
我々は「ねじれ」に留まることは出来ないが、「ねじれ」をひねり出
しては橋渡しを作り、表と裏を巧みに使い分けつつ行き来する。そこ
の智慧のひねりにこそ、人類(文化)が存続するヒントがある。
りをするだけだったが、今回は玄関先に提灯を飾り、母と迎え火を炊
いた。仏壇には花と、父の好物だったアンパンとバナナを供え、藁の
牛馬を置いた。お盆の仕方に不案内だが、こんなもんで良かろうか。
お盆には死者が帰ってくるというが、束の間、故人が遺族の許に戻る
という「物語」は、美しい風習だと思う。それがフィクションであれ、
それを信じて故人を静かに偲ぶ心は美しい。こんな処に伝統日本人の
繊細な美意識が現れている。
でも故人の御霊は、どうして真夏の暑い時期に帰ってくるのだろうか?
例えば、年末に帰ってきて、新年の門松明けに帰る想定でも良さそう
に思える。仏教思想の理屈は知らないが、封建権力の支配下、暑い夏
の時期に農作業等の労働をやめ体を休める方便に、先祖供養をうまく
利用したのではなかろうか?
夏の暑中に一休みしたい工夫に、先祖供養のための「御盆」という文
化・風習を創出したとか‥。今風に言えば、御盆とはクールビズであ
る。為政者も先祖供養では「怠けず働け!」と文句言えまい。そんな
庶民の勝れた智慧であったのではと、ちょっと想像してみた。
今日は7月16日。東京地方では今夕送り火を炊く。御先祖さまはお
帰りである。少し賢(さか)しらに考えてみれば、御盆とは、あの世と
この世を地続きに繋いでしまうような行事である。さながらメビウス
の輪の「ねじれ」に相当するのが「御盆」である。
‥‥また見つかった! 海と番(つが)った太陽が!(A.ランボー)。
我々は「ねじれ」に留まることは出来ないが、「ねじれ」をひねり出
しては橋渡しを作り、表と裏を巧みに使い分けつつ行き来する。そこ
の智慧のひねりにこそ、人類(文化)が存続するヒントがある。