
広瀬川の水位が下がりました。昨日の午前中、十六本堰を通りかかって気付いたんです。
手前の白波は堰の手前の川底の刑場のせいなんです。水位が高いときにはこんな白波は立ってません。向こうの堰の右側、端気川側にある余水吐けの所も堰の壁面が見えています。
広瀬川は農業用水ですから、稲が実って田んぼの水が要らなくなると減水します。
流水の総量の調整は上流の柳原制水門でやってるんです。そして、十六本堰では、広瀬川側の水門を調整して、広瀬川と端気川に流す水の量をコントロールしています。
なんか、流れに勢いがなくなっちゃいました。十六本橋の上流です。
十六本橋の上流の川岸です。赤い線を引いてあるのが減水前の水位です。ここまで水が来ていて、擁壁の隙間に根をおろして暮らしているススキは水に洗われてたんです。昨日は、川面から穂が離れてました。
9月15日の第1回に出てきた理化学実験機器等を商っていた『飯野』が、焼き鳥さくまの向かいから天川町へ越したのは昭和40年代のおしまいのころだったと思う。
「文教郵便局東」の交差点をほんの少し南へ行くと、すぐに左斜め方向へ入る道がある。道の片側の傾斜地は緑地化され、その上にも道がある。崖地を挟んで2本の道が通っている。
この緑地は天川町と朝倉町の境界になっていて、地元の人たちが手入れをしている紫陽花や躑躅の花が季節を飾ってくれている。この道を辿って行くと、『飯野』が引っ越した場所に出る。
この崖は、昔の利根川の河岸段丘だ。かつて、前橋のまちは利根川の川底だった。
前橋辺りの利根川は、浅間火山の噴出物が堆積した『前橋台地(前橋泥流層)』を削って、流下していた。昔の流路は、田口町・関根町あたりから東へ向かって、現在の桃ノ木川と広瀬川が流れているところが流路で、伊勢崎の方へ向かっていた。
そして、大きな台風が来るたびに氾濫し、何度も流路を変える『流変』を引き起こしていたらしい。
もっとも最近の流変は、15世紀初めとか、16世紀中ごろとか諸説があるが、流路を大きく西に替え、今の県庁裏から南へ、玉村方向へ流れを変え、ほぼ現在の川筋となったと言われている。
この崖は、15世紀以前の利根川の川岸の崖の跡なのだ。
地図で紫色に塗ったとこが写真の崖地である。
私が物心ついた天川の戦災住宅は地図の中央上にあった。戦災住宅からはこの崖がよく見えていた。間を流れる広瀬川の周辺は、桑畑と荒れ地だった。前橋藩刑場跡地の碑も、そこから続く松並木も見えていた。崖の上には朝倉町の集落の屋根が眺められた。
どこで広瀬川を渡ったのかは覚えていないけれど、近所の兄ちゃんたちの後ろにくっついて崖地まで遊びに行ったのを覚えている。崖地は子どもたちのかっこうの遊び場だった。
その崖下の道を行くと、(株)飯野の社屋がある。飯野家がどうなったのかは知らないのだけれども、社名の飯野は続いている。
その飯野の社屋の真ん前の崖に、道に沿う形で狭い道が取り付けられている。自転車を降りて、押しながら登る。上り坂の長さは30mほどであろうか。
のぼりきると、道は大きく二つ折りになっていて、今度は緩やかに上っている。登ってきた方を振り返ると、下に飯野の社屋が見える。今度の上り坂は約20mほどだ。
登りきったところに、朝倉公園がある。木々が大きく育っているから、ここに市営住宅団地の建設が始まった昭和30年代につくられた公園ではないかと思う。そのころ、私は清王寺町(現日吉町)へ越していたので記憶にはない。
ただ、自分の子どもたちが少年野球をしていたとき、この公園に付設された野球場に、地元のチームとの試合で何度か来た。そろばん塾をやっているおじさんが監督をしていたチームだった気がする。
公園の南には市営の集合住宅が立ち並んでいる。
幼かった頃に眺めていた朝倉の崖、連れられて遊びに来た崖地の記憶を呼び起こすものは何も見当たらない。ただ、利根川の河岸段丘の跡に無造作に取り付けられた二つ折れの坂道は、なんか、昔からあったような気がして不思議だ。きっとそうんなことはないと思うのだが…
午後、まちへ出かけたときに見た広瀬川、交水堰の下流です。すっかり水位が下がって、のんびりした流れになっていました。
エゴノキの実も、風に揺すられながら落ち始めていました。
夜は、外食しようかなって思ってたんですけど…
昼前にマナティーさんが、宇和島名物のじゃこ天を届けてくれたのを思い出して、それを肴に晩酌しました。じゃこ天、おいしいです。ごちそうさまでした。
そうそう、昨日は、自分の洗濯ものとは別に、キキの敷物も洗濯してあげました。で、敷物が別のになったんですけど、あんまし気にしないみたいです。
でもさ、今朝早く、まだ暗いうちに、音がするんで起き出したら、おう吐しちゃってて、少し元気がなくなって、あれこれしてあげてたもんですから、ブログのアップが遅くなっちゃいました。
もうあんじゃあないですよ、朝ごはんいつもよりも少し少なめですけど、ちゃんと食べてくれましたから。
直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
師匠は祖母の初代若柳吉駒、今は伯母の二代目吉駒の下で修業しております。来春の美登利会は75回目の節目を迎えます。4月8日に開催いたしますので、引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。
今春の第74回美登利会の舞台の様子はコチラでご覧になれますす。
お稽古場は前橋市城東町四丁目です。詳しくはコチラをご覧ください。
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幼いころ毎日のように眺めてた崖が、昔の利根川の河岸段丘だったなんて、誰も教えてくれませんでしたよ。そんなことに気を留めることもできない暮らしだったのかもしれません。