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猫のキキとヒゲおじさんのあんじゃあない毎日

『あんじゃあない』って、心配ない、大丈夫っていう群馬の言葉、いい歳こいたキキとおヒゲのどうってことない前橋の暮らしです

冬至の日、夕暮れの早い前橋の路地は『縁切り坂』です

2017-12-23 06:51:58 | 前橋の路地

弁天通の大蓮寺の山門に門松が飾られました。Xmasをしないお寺さんは早くも正月飾りなんですね。

 昨日は冬至、もうちょっとで年が暮れるんですね。身の回りに大きな変化のあった一年でした。静かに暮れてほしいです。

  なんてまっとうなこと思いながら、まちで用足しして、昼食は呑竜のヤギカフェ、溶けたチーズが載ってるドライカレーを食べました。サラダに二種の大根、おいしかったです。

 そうそう、前橋の暮れといえばこの菓子です。本町通りのさくらホテルの向かいにある菓子舗『青柳本店』で年末から初市までの間だけ製造販売している期間限定のおこしなのです。すごく懐かしいし、素朴なおいしさのある菓子なんです。この機を逃さずにお試しください。

 

 午後、陽が傾くのを待ってまた出かけました。今日の前橋の路地は夕暮れが似合う路地ですから。前橋の路地第28回は『縁切り坂』です。

 

   
前橋の路地 第28回 縁切り坂

 本町通りにある東和銀行本店、冬の傾いた日差しを浴びている。昨日は冬至、それに歳末ジャンボ宝くじの販売最終日、日暮れが早い。

だからではないのだろうが、早めに仕事が終わった風の人たちが歩いてくる。葉の落ちた欅並木の穏やかな夕暮れ、「歓迎 ニューイヤー駅伝」の幟が揺れることなく立っている。

 東和銀行の東側に坂道がある。馬場川通りに下る坂道だ。銀行と不動産会社のビルに挟まれた道だから店も何もない。下りきった右側は旧榎町(現在は千代田町5丁目)である。
子どもの頃に、この坂道の名を『縁切り坂』というのだとまちの老人に教えられた。

 坂を下ると馬場川が流れている。昔、この坂道の下に延命地蔵尊というお地蔵さんが祀られていたという。私が子どもの頃には、今はニコニコパーキングという有料駐車場になっている場所にあった政淳寺の境内に移されていた。このお地蔵さんの引っ越しは、地蔵を商店街近くに移せば参詣客が増えて、街中が繁昌するという榎町界隈の商店主たちの思惑からだったという。
その後、政淳寺は大型店のニチイに寺域を売却しすることになるのだが、この時、まちの皆さんは地蔵尊のことなぞ話題にもせず、地蔵尊は政淳寺とともに田口町に引っ越して行ったのだ。
「商売繁盛」に振り回された延命地蔵尊は昔話になってしまった。

  坂の下の右手、旧榎町のところに明聞寺があった。その明聞寺も今は富士見町小暮に移転している。右の写真が富士見町小暮にある現在の明聞寺の本堂である。
明聞寺は江戸時代に前橋藩主の酒井家によって創建された寺だ。この寺が江戸時代の一時、城下の『駆け込み寺』の役割を担っていたのだという。それで、明聞寺に続くこの坂道は『縁切り坂』と呼ばれるようになったという。

坂道を登り切って振り返ると、夕日を浴びた赤城山の鍋割が街並みの向こうに見える。昔、こんな赤城山の姿に目をやることもなく、うつむいてこの坂道を駆け下った女たちがいたのだ。
忘れられた夕暮れの『縁切り坂』である。

  坂下の先に続く道は、昔日は料亭や鮨屋、飲食店が並ぶ前橋で屈指の夜のまちの一つであった。私が子どもの頃に見た店は、今は全く姿を消している。
若き日、毎日のように通った『はんにち村』もずいぶん前に仕舞った。一緒に飲んでいた友も既に他界している。

  
        前橋の路地 第28回 おしまい

 

 下仁田ネギを食べ続けていたら、今度は立派な原木椎茸をいただきました。それで、椎茸料理を食べることになりました。

   左から椎茸の肉詰めの照り焼き、とうふの椎茸餡かけ、焼椎茸の山かけ、以上三品をいただきました。

 それから、こんなお酒を旅の土産にいただきました。富山の『三笑楽』の『あまし』です。あましってのは、仕込み水の一部に純米酒を使っている特別な酒です。良い香りです。肴は、岩神町の養田鮮魚店の自家製塩辛、いかの肝を塩漬けして熟成させてある本格的な塩からなんです。酒にぴったしです。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の二代目吉駒の下で修業して参りました。
初代吉駒が始めた美登利会は、来春で75回目の節目を迎えます。予定通り、4月8日に開催いたします。
亡くなりました二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、これからも引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

今春の第74回美登利会の舞台の様子はコチラでご覧になれますす
お稽古場は前橋市城東町四丁目です。詳しくはコチラをご覧ください

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昔の前橋市街地地図見てて、前橋の路地は『幻想の食い詰め横丁』となりました…

2017-12-18 06:33:52 | 前橋の路地

これは、1921年(大正10年の)の前橋市街地全図の一部、市街地の中心部です。右上、中川小学校の上のところ、十六本堰で広瀬川が端気川と別れ北東へ向かって行く北側に『字石取河原』と表示されている辺りが今私が暮らしているところなんです。当時は、田畑と荒れ地が広がる田舎だったんです。
この地図は前橋市立図書館の資料室で複写してもらってきたものです。

今朝は寒いです。外は-1℃を下回っています。玄関先の水鉢も凍りついています。寒いのでちぃずを眺めているんです。

 昨日の朝食後のことなんです。電線にとまったスズメが空を見上げて啼いてます。スズメの後ろの東の空はしっかり晴れて冷たい風が吹き抜けていました。

 でも、スズメの目線の先の西から南の空は、暑い雲が北西から南西に向かって流れています。信州の山を越えてきた雪雲の切れ端です。
「白いもんが舞ってるよ!」ってユキ子さんが言うんで外に出てみたんです。寒かったです。

 ほんの少しなのですが白いもんが飛んでいました。セーターの袖に小さな氷の粒みたいのが引っ付きました。雪が飛んできてたんです。

 寒いので家に逃げ込んで、昨日夕食つくりながら煮込んでいた牛筋に焼き大根を加えてスジ大根を仕上げることにしました。煮ものをしていると温かいですし、試食するときはもっと温かくなります。

 で、なんで地図を眺めていたのかっていうと、少し昔のことを思い出していたんです。ついでといっちゃなんですけど、面白いことも思い出しました。
写真は、群馬県庁舎のすぐ南の路地です。私が県庁に入ったころにはこの右側に酒屋がありました。更に昔、私の父が県教委で仕事していたころ、私は小学校低学年でしたけど、この酒屋は『居飲屋』をしてたんです。料理を提供しない立ち飲みの飲み屋です。仕事仲間と話をしながら酒を飲む父の足元で三角のセロハン袋に入った塩豆をかじっていた記憶があります。

 もう一本南の路地には『石川亭』というホルモン焼屋がありました。「おい、早く行って席とっときな!」、先輩の一声で仕事を早めに切り上げて飛んでった店です。今はもうありません。
今の県庁舎は1999年にできたものです。その県庁舎を造る計画が検討されていたころの、県議会での面白い記憶です。私の好みのすこぶる庶民的だったK議員が委員会だったと思うのですがこんな趣旨の発言をしたんです。
「新庁舎を造るときに、県庁南の『食い詰め横丁』あたりもちゃんと整備した方が良い」という意見を述べたのです。賢い県庁の幹部は「前橋市と協議して検討いたします」とかなんとか答えていたのではないかと思うんですが、こちらは記憶にありません。県庁の南側のあたりがなぜか『食い詰め横丁』って呼ばれていたんです。

地図見ていて、このこと思い出したんです。それで、今日の前橋の路地は、この『食い詰め横丁』の幻想に迫りたいと思います。

 

   
前橋の路地 第27回 幻想の『食い詰め横丁』

 現在の県庁の南側一帯は、格子状のちゃんとした街路がめぐり、立派な住宅や小さな事務所が混ざり合っている地区である。住む人のいなくなったところは駐車場となっているところが多い。『食い詰め横丁』呼ばれるようなイメージは全くない。
K議員が意見を述べた当時の県議会でも、他の議員から「『食い詰め横丁』などと呼ぶのは住民の皆さんに失礼である!」という批判が出て、「他意はない、申し訳なかった」と、庶民派のK議員は直ぐに謝ったと記憶している。失礼かどうかは別として、確かにこのあたりを多くの人たちが『食い詰め横丁』と呼んでいたのは事実である。

 この辺りが『食い詰め横丁』と呼ばれていたことを知っている人は今でもそれなりにいる。しかし、何故そう呼ばれていたのかを分かっている人は全くといってよいほどいない。私もその一人であった。
しかし長生きしていると面白いものを見つける。佐藤垢石が1946年(昭和21年)に書いた『烏惠壽毛』という随筆にこの『食い詰め横丁』が登場しているのだ。『烏惠壽毛』は「うえすけ」と読むらしいが、調べているのだけれど未だに意味がよく分からない。

佐藤垢石という人は、1888年(明治21年)に現在の前橋市上新田町で生まれた人である。賢い少年だったらしく、前橋中学に進む。だが、中学でストライキを首謀して中途退学を余儀なくされた。その後、報知新聞(現読売新聞)の記者となり、前橋支局長も務めたが、なぜか途中で新聞記者を辞め、随筆家、釣り雑誌編集者として名を馳せることになる。私が子どもの頃にはNHKラジオの『二十の扉』とか『話の泉』にも出演していた。今風に言えば糸井重里さんみたいなマルチタレントだったのだ。

 これは、明治時代の県庁舎である。垢石が前橋中学に通っていたのは明治30年代後半のことであるからこの写真の県庁舎だったはずだ。
垢石は、『烏惠壽毛』で、敗戦直後の極貧の生活を、前橋中学の時に見た『食い詰め横丁』の記憶とを比べている。その一部を引用する。

昔、故郷の前橋中学へ通うころ、学校の近くに食詰横町というのがあった。五十戸ばかり、零落の身の僅かに雨露をしのぐに足るだけの、哀れなる長屋である。
 住人は、窮してくると、天井から雨戸障子まで焚いてしまう類であったから、一間しかない座敷のなかの、貧しい一家団欒の様(さま)がむきだしだ。そこで、現在の戦災後の壕舎生活と、この食詰横町の生活と、いずれが凌ぎよかろうかと、むかし学生時代に眺めた風景を想い出して比べてみると、地表に住んで直接日光の恵みに浴するとはいえ、横穴の貉(むじな)生活の方が、戸締まりがあって寒風が吹き込んでこないだけ結構であろう。
 ところで、われわれ学生は、食詰横町を通るたびに、
 おいおいお前、試験のときカンニングはやめよ。
 と、連れの学友にからかうのである。
 嘘つけ、僕なんぞカンニングはやらないよ。やったのは君だろう。
 白々(しらじら)しいや。この間も、僕の見ているところでやってたじゃないか。
 あの時、ただの一度さ、はじめのおわりだ。
 それならいいが、カンニングが癖になって世の中へ出てからも、カンニングをやるとひどいことになるぞ。
 どんなことになる。
 この食詰横町に住んでいる人物は、すべてカンニング崩れなんだ。社会生活にカンニングを用いれば、誰でもこの横町へ這い込まにゃならんよ。
 こんな冗談を言い合って、笑ったものだ。
 さて、私の場合であるが、私は世の中へ出てから、別段カンニングをやった覚えはなし、人の物をちょろまかした記憶もない。
 だのに、食い詰めて、せっぱ詰まった。

これは明治41年の前橋市の市街地の地図である。垢石が前橋中学へ通っていたころとあまり変わりないと思う。利根川には利根橋と鉄道橋が架けられている。垢石は上新田からこの橋を渡って中学へ通っていたのだ。利根橋を渡るとすぐに長昌寺、その北が前橋中学校である。東には龍海院、南曲輪町の家並を抜けた北には県庁がある。

  1877年に開設された前橋中学校は、1888年から1933年に天川原町へ移転するまでの間この地にあった。現在の中央総合病院あたりだ。病院の前の通りからは、東に龍海院の本堂の屋根と木立が見える。
垢石が見た『食い詰め横丁』は、前橋中学校と県庁の間にあったと思われる。その一帯は、戦後、区画整理が行われ、群馬大橋の架橋に伴って国道17号の新道が拓かれ、大きく変わってしまってっているのだ。

  前橋中央病院と長昌寺の間には、まだ、過日の面影を残している路地がある。しかし、垢石が見たような長屋はない。
『食い詰め横丁』の幻を見ることはもうできない。あったのかなかったのかも幻想の彼方だ。

  
        前橋の路地 第27回 おしまい

≪注≫ 佐藤垢石についての追記

 垢石という人はこんな顔をしていたらしいのです。声はラジオで聞いていたけれど、顔を見たことはありません。垢石が報知新聞の支局長を辞した後、後任の支局長が支局の金庫を開けて見たらその中は空っぽだったという逸話は聞いたことがあります。みんな酒と女に使い果たして辞めたんだって、本当かな…

    
Dscf4922 <あんね、おヒゲはさ、この逸話を聞いてからってもの、垢石さんにずっとずっと羨望と憧れを抱き続けてきたらしいんですよ、キキ、さんざん聞かされてたんだから>

 

  利根川岸にある雷電神社を訪ねると、境内に垢石の記念碑が建てられていて、その碑に垢石の顔が刻まれています。

なお、『烏惠壽毛』を読まれたい方は、青空文庫のコチラで読むことができます。

 

 一日中風が吹き続けていました。木の枝にとまっているスズメもみんな風上に顔を向けていました。

  夕方買い物に出たら、上毛電鉄の線路の向こうの雲の端が光ってました。
 夕日を浴びた赤城山です。きれいです。ユキ子さんはご用で外食になりました。それで、私一人の夕食になりました。

 

 これは昼食、ぜいたくなんです。下仁田ネギのカレー汁のつけ麺です。うどんは石田製麺の本うどんです。甘い下仁田ネギはカレーにも良くあいます。

  コチラは晩酌の肴、下仁田ネギのチーズ焼きと会津見知らずと東毛酪連のエダムチーズのさらだです。下仁田ネギには神津牧場のゴーダチーズを使いました。

下仁田ネギ料理の第4日はこの二品でした。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の二代目吉駒の下で修業して参りました。
初代吉駒が始めた美登利会は、来春で75回目の節目を迎えます。予定通り、4月8日に開催いたします。
亡くなりました二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、これからも引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

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『馬場川沿いの路地』の最終回を書いてたら、玄関先の水鉢が凍りついていました…

2017-12-14 07:02:27 | 前橋の路地

今朝は玄関先の水鉢が凍りました。鉢に挿しておいたイチゴノキの花の枝も凍りついていました。この冬初めてのことです。
前橋気象台のデータでは今朝の最低気温は-1.3℃だそうです。寒いです。

 昨日は、ユキ子さんの父に頼まれた役所に出す書類を作っていました。やっと、証拠書類の収集ができたので…
でもね、元公務員なんですけど書類作りが下手なんです。すごい苦手なんです。昨日も失敗を前提に様式をコピーしておいて良かったんです。見事に記載欄を間違えてやり直す羽目になりました。
そんなわけで提出書類ができたのは午後2時近くになってしまいました。

  それで、JAファーマーズに買い出しに行ったんですけど、風が強くて寒かったんです。子ども公園にも人影はありませんでした。
赤城山は姿を見せていてくれましたけど、南から西にかけての空にはあらしのような雲が流れていて、日の当たっていない青い赤城山でした。雪雲が信州を越えて流れ込んできているんですね。
新潟や東北は大雪で大お変みたいです。

 

 買い出しをすませてからあおい食堂へお昼を食べに行きました。その帰り道、本町の前橋さくらホテルのある交差点から国道50号を東へ向かいました。
直ぐに『亜麻仁』(027-224-2883)という画材屋さんの前に出ます。昔からある画材屋さんです。

これは、野村たかあきさんの版画作品のうち最も初期のものです。
ベニヤ板のパネルに水張りしたままで放置されてたのを、亜麻仁のご主人にお願いして、手入れをして額装していただいたんです。そういう事情なので紙が少々焼けちゃってますけどすごく気に入って、私の部屋にずっといるんです。
作品名は『風神の子 雷神の子』です。

今日の前橋の路地は、この亜麻仁の先、大谷歯科医院と丸茂一材木店の間にある坂道の路地の話、『聖天と天狗たち』です。

 

   
前橋の路地 第26回 馬場川沿いの路地その八 聖天と天狗たち

 本町通りの大谷歯科医院と丸茂一材木店の間に馬場川沿いの道へ下って行く路地がある。路地の入り口の右手には『馬頭観世音』と刻まれた大きな石柱、左手の石柱には『真言宗 東福寺』の文字が読める。東福寺へ下る参道なのだ。
東福寺と刻まれた石柱の後ろにも石造物が見える。これは大きな庚申塔だ。

 路地に入ると、すぐに東福寺の本堂が見える。奇妙な本堂だ。緑色の三層の屋根から突き出している飾り物は更に摩訶不思議な代物である。物知りの人に教えてもらったら、「あれはインドの神話に登場するガルーダという神の鳥の姿を模したものだよ」と教えてもらった。
そういやインドネシアの航空会社はガルーダって名前だ。仏を背にのせて世界を、宇宙を飛び回ることができる鳥だという。

そのガルーダの先に傾いた陽を浴びている赤城山の姿が見えている。

   坂を下ると山門跡の礎石があ残されている。ここにも石造物、右が『聖徳太子』、左が女人講の『観音菩薩』だ。やたらと多い石造物は必ずしもこの寺のためにつくられたものではないと思う。この近辺、江戸時代の十八郷村のあちらこちらに建てられた石造物がこの参道に集められたのだと思う。
東福寺は、前橋藩主酒井忠世によって1636年(寛永12年)につくられた寺だ。その頃のこの辺りは、城外の田畑が広がる農村地域であった。

   坂を下りきると馬場川に架けられた石橋に出る。7枚の弧を描いている厚い石材を並べた橋だ。両端の石材には穿った穴を埋めた形跡がある。これは石造りの高欄を取り除いた跡だと思う。墓参や法事に来る檀信徒の車が通れるように、高欄を取り外して幅員を確保したのだと思う。
位置を移して残されている橋柱の穿かれた窪みには木造の不動明王と思われる像がはめ込まれている。寺も、今風の利便のために山門を取り払い、石橋を削っている。
そのせいかどうかは分からないが、小さな石橋供養塔という石造物も置かれている。

東福寺は南橘地域の川端町、昔は川端村と呼ばれたところにあった歓喜天(聖天)を祀る歓喜院を移設したのに始まると伝えられている。
聖天は、もともとインドの神で仏教の守護神となったのだそうだ。その姿は象の頭をもつ人身として表現されている。普通の仏像のような単身の像よりも、男女の象頭人神像が抱擁している姿を表しているものが多い。夫婦和合や子供を授かるのに霊験があると言われ、江戸時代から庶民の信仰を集めてきた神なのだ。

高欄を取り除かれた石橋は、その外側に実に、なんとも不細工なフェンスが取り付けられている。

 境内には弘法大師像が建立されている。しかし…
江戸時代、川端村から歓喜院が移されてできたこの寺は、弘法大師の寺というよりも聖天を祀る寺として人々の心をとらえたらしい。とりわけ、若者たちの間では、好きあった者同士が連れだって聖天にお参りすると結ばれることができるということが信じられていたらしい。今風に言えば、『恋愛のパワースポット』だったのだ。
それで、東福寺に下る参道には奇矯な姿をした若者のカップルが集まったと伝えられている。

東福寺の歓喜天像は秘仏とされ、公開されていない。聖天を祀る堂もない。だからあるのかないのかも定かではない。
ただ、庫裏の前にはインドの最高神、舞い踊るシバ神の像がある。シバ神は、聖天、歓喜自在天の母親だ。

 東福寺は聖天信仰を対象に宗教活動をしている寺ではない。でも、本堂の屋根のガルーダやこのシバ神像を見ると、この寺がかつて若者たちの愛の信仰を集めた聖天を祀った寺なのだと思う。
江戸時代、この寺に集まる若者たちの姿を見て、まちの人々は彼らを『天狗』と呼んだという。それは、必ずしも奇異なものを拒むということでなく、新しきものに対する、若者たちへの温かい呼び名であったのではないかと思われるのだ。

日の傾いた参道の坂道を見上げる。石屋のある坂道でなく、この坂が本来の『天狗坂』だと思う。天狗たちが舞い踊っていた坂道なのだ。
今、このまちの天狗たちは、何処にいるのだろう。頑張れよ、このまちの未来はおまえら天狗たちのものだぜ!

 馬場川沿いの道を中川小学校のところから歩いてきた。この先、さくらホテルの裏でこの路地は終わる。

  
前橋の路地 第26回 おしまい

 

 

 中央前橋駅脇の柳の樹もあらかた歯を失ってしまっています。寒いです。

猫たちもビルドインの駐車場の硝子戸の中で、バイクのシートに座ってます。硝子戸に入線してきた電車が映っていました。

 

 夕食は、豚肉のしゃぶしゃぶにしました。寒かったですから。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
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前橋の路地第25回は、馬場川に架かる不思議な橋の話です

2017-12-12 06:52:19 | 前橋の路地

以前、「三河町の馬場川に架かるたくさんの小橋に勝手気ままに名前を付けて遊びました」って記事を書いたことがあります。その時にこの不思議な橋のことを紹介したんです。
ここを通りかかると、ときどき坐ってみる橋なんです。坐りたくなる橋なんです。
昨日も坐っちゃいました。坐ってセルフタイマーで写真撮ってたら、どこかのおばさんが口を抑えて私を眺めてました。
「どうぞどうぞお気にせずにお通り下さい」
「… … … … … 」、口を抑えて小走りに通り過ぎて行きました。

今日の前橋の路地は、その不思議な橋のある路地です。

 

   
前橋の路地 ヂ25回 馬場川沿いの路地その7 坐るしかない橋

  石屋のある道を横断すると馬場川沿いに路地が続いている。ここから先は本町通りとの土地の高低差が大きいので、路地の反対側には石垣が築かれている。いわゆる『片町』だ。
石垣の下と川の護岸との間にはヤブマオウやイタドリが暮している。今はもう枯れ果てた姿だ。

 枯れたヤブマオウの華穂だ。いつみても気味悪い。

  コチラは枯れたイタドリだ。長く伸びた枯れ枝の先には、振ったら軽やかな音のしそうな華穂が残されている。こっちは気味悪くない。人は勝手なもんだ。

 

この辺りの橋は向こう岸が崖になっているので、いままでのところと橋の塩梅が違う。みんな傾斜して架けられていて、その先は階段だの坂道だのになっている。
この橋の向こう岸は玉石を敷き詰めた石畳の坂道になっている。右側には石積の壁、その上にザクロの木がある。不思議な美しさだ。でも、その先に灯との暮らしはなさそうである。

 この橋は、橋そのものが階段状をなしてでもいる。右側の川岸には、夏の間クサギが生い茂っていた。
そんな橋のなかでひときわ異色を放っている橋がある。

この橋だ。橋の向こうは石垣である。渡る先がない。渡ることができない橋だ。

『勝手気ままに命名しちゃおうって野心的散歩の続編』(2016.3.07)では、この橋について次のように書いた。
「前から、ずっと気になっていた橋なんです。で、ときどき坐りこんでみていたんです。
この橋は、自らが橋であることを拒否しているみたいです。そいう意思をもっている橋なのかもしれません。だからその意思を尊重して、名前を付けないことにします。そして、橋ではなく、坐る場として、ときどき使わせてもらうことにします」

 橋の向こうの石垣には、石積にちょいと不自然な感じがあって、以前は何かがあったのかもしれない。それを埋めてしまったのかもしれない。
でも、今は確かに渡ることを拒んでいる橋なのだ。

 ということで、私は時折坐り込んで、この橋の意思を確かめることにしている。

昨日は、ノーベル平和賞授賞式におけるサーロー節子さんの演説を反芻していた。彼女の言うとおり、「廃絶すべき非人道的兵器」としながら、その非人道的兵器なくして「平和」を守れないとする我が国の主張は、著しい論理矛盾だと、私も思う。サーロー節子さんの筋の通った演説に大きな感動を受けていた。

 馬場川にはたくさんの橋が架かっている。中川小学校のところから数えると、この橋は27本目の橋だ。

 そして、その次の28本目の橋は、東福寺の参道の橋だ。
馬場川沿いの路地の話は、次回、東福寺の参道でおしまいにしたいと思う。

  
       前橋の路地 第25回 おしまい

なお、馬場川に架かる橋に名前を付けた記事は次の二つです。気が向いたら読んでみてください。

 「三河町の馬場川に架かるたくさんの小橋に勝手気ままに名前を付けて遊びました」 2016.3.06
 「勝手気ままに命名しちゃおうって野心的散歩の続編」 2016.3.07

 

  昨日は予定変更になったんです。それで、いきなり『前橋の路地』にしました。
昼前、出かけようとしたところに電話、司法書士の深田さんからだったんです。お願いしておいた仕事ができたって知らせでした。それなんで、予定変更になりました…

深田さんの事務所に行く途中の風景です。
まずは三河町で見た冬枯れの広瀬川です。桃井橋のところのメタセコイアもすっかり葉が落ちたみたいです。でもね、足元は緑なんです。シロツメクサが頑張って、花もつけていました。

本町通りの欅並木はすっかり葉がなくなりました。冬ですね。
そういや、まだ歳末ジャンボ買ってないな、今年はどうしよう…、買わなきゃ当たらないし…

 思案投げ首してたら、東和銀行本店脇の坂道からは赤城山の鍋割の姿が見えていました。

  商工中金前橋支店が引っ越したンですよね。一階が空き家になったビルの前は、誰も落ち葉を始末しないんですね、欅の葉が川のようにうねって積もっていました。

 

深田さんのところで話が終わって、成果物をいただいた帰り道、利根川の河原に降りて見ました。
冬の日差しに水が光っています。

 上流を振り返ったら、のんびりと釣りをしている姿がありました。
風がまだ吹き始めていない昼過ぎ、のんびりとした利根川でした。

 

  家に戻ったら、藤岡の方から下仁田ネギが届きました。
早速、2本、焼いてカツオ醤油でいただきました。酒の肴に最高です。嬉しいです。

  糸駒は遅くに東京から戻ってきました。夕食はまだというので、ジャガイモとムラサキコマツナのソテー、冷凍保存しといたポークシチューを用意してあげました。
「ジャガイモ食べたかったんだ〜」ってことでした。
私、私はホウレンソウいっぱいのオムレツで先に夕食すませちゃってたんです。

 

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の二代目吉駒の下で修業して参りました。
初代吉駒が始めた美登利会は、来春で75回目の節目を迎えます。予定通り、4月8日に開催いたします。
亡くなりました二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、これからも引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

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常備菜づくりした日の前橋の路地は『馬場川沿いの路地その6 昭和31年の滑り台』です

2017-12-09 06:17:15 | 前橋の路地

わが家の近くの広瀬川遊歩道の欅の木もすっかり葉を落としてしましました。
昨日は庭の手入れはお休み、休養を兼ねて久しぶりに常備菜を仕込むことにしたんです。朝食後に出汁を採ったり、麩や昆布を戻したり、ニンジンを刻んてゆでたり…、下ごしらえをはじめて、9時半になるのを待ってJAファーマーズへ買い出しに出かけたんです。

 まだ赤城山も見えてました。でもね、西の方から雲がずんずん広がってきて10時過ぎには赤城山を隠してしまったんです。どんより曇った寒い日になってしまいました。

 広瀬川の広東橋の工事も追い込みに入っています。高欄が取り付けられ橋名板も付いてます。歩道の縁石や何かも整って、あとは舗装と仕上げかな…、12月の中ごろには竣工のはずなんです。1年8ヶ月、通行止めになっていた橋が間もなく使えるようになります。

   

で、作った常備菜は、カリフラワーと黄人参のピクルス、五目豆、揚げ麩の煮物、生椎茸の含め煮、里芋のにころがし、胡桃ちりめん、舞茸と牛肉の炒り煮、松の実入りの蓮根のきんぴら、です。
このほかに、ひいかの煮物とマダラの味噌漬けを仕込みました。10品やったら昼を過ぎちゃいました。

そんなわけで、今日は馬場川沿いの路地の続きをします。前橋の路地第24回は『馬場川沿いの路地その6 昭和31年の滑り台』、隆興寺のことを書きます。

 

   
前橋の路地 第24回 馬場川沿いの路地その6 昭和31年の滑り台

 馬場川と隆興寺の墓地に挟まれた路地を抜けると石屋がある。石屋の前は本町通り(国道50号)へ抜ける坂道に面している。この坂道を『天狗坂』と呼ぶ人がいるのだけれど、違うのではないかなと思う。このことは後ほどあらためて…
その坂道の本町通り側でない、反対側にもう一本路地がある。石屋の裏だ。

 隆興寺の山門に続く参道だ。大した奥行はない。
隆興寺は1636年(寛永13年)に前橋藩主酒井忠世によって創建された曹洞宗の禅寺である。短い参道の奥に古びた木造の山門がある。

山門を通して大きな多宝塔が見えている。天保年間に建立された無縁仏の供養塔らしい。山門の内の石畳の道の両側はヤマザクラとセンダンの木が植えられている。春には、ヤマザクラの美しい花が見られる。

 今はすっかり葉の落ちたセンダンの枝先にたくさんの実がなっている。冬を越す鳥たちへの施しだ。

 本堂は鉄筋コンクリート造の真っ白な建物である。その本堂に一礼して左の方へ進むと…

豊川稲荷がある。毎年4月の後半に例祭が行われている。
「隆興寺の豊川さんへご祈祷をお願いしたらね、ご住職が般若心経でご祈祷してくれたのよ」、二代目吉駒から聞いた話だ。寺だから祝詞を奏上することはない、読経で祈祷するのは当然のことだ。

豊川稲荷は、愛知県豊川市にある妙嚴寺という寺院に祀られている吒枳尼真天(だきにしんてん)という霊神のことである。明治時代になってから隆興寺にも勧進されまちの人たちの信仰を集めてきたらしい。
お堂の扉には参拝に際して唱える呪文が墨書された札が掛けられている。
  南無豊川吒枳尼真天(三回唱) 「なむとよかわだきにしてん」と三回唱え
  オン シラバッタ ニリウン ソワカ(七回唱) 難しい真言を七回唱える
この真言は、吒枳尼真天という霊神が白い狐に跨って現れるときに唱えている真言なのだそうだ。よく分からないけど、かように唱えてお参りすることとしている。

 

 豊川稲荷のお堂の隣りにジャングルジムなんかの遊具がある。かつてここには『隆興寺幼稚園』という名の幼稚園があったが、平成25年度終了を以て 60周年と同時に休園となった。前橋では歴史ある名門幼稚園であった。

この写真は、2012年10月13日の隆興寺幼稚園の運動会のフィナーレの風船飛ばしの風景だ。たまたまと通りかかって、撮らせてもらった。休園となる前の年の秋のことだ。

庫裏の脇に滑り台がある。鉄筋コンクリート造の滑り台、滑走面は研ぎ出しという技法で磨かれている。前橋るなぱあくの豆汽車脇に残っている滑り台と同じ様式のものだ。支柱に貼られたプレートの擦れた文字をを読むと「昭和三十一年度修了記念」と読み取れる。

 踏み幅の狭い階段を登って、滑り降りてみようかなと思ったがやめた、怖い!
思ったよりはるかに急だ。見下ろすと滑り台の下の砂場は落ち葉に埋もれていた。

  
         前橋の路地第24回 おしまい

 

 午後、常備菜のお裾分けを友だちのところへ届けがてら、街の広場を眺めていました。ここも冬枯れ、2年前の12月9日、『腎不全』の宣告を受けたキキと、この広場で「これからどうしようか…」、<……… ……>と相談していたんです。忘れられない思い出になりました。

 そいでね、あおい食堂に寄ったらさ、常連さんがいわくありげな米を持ち込んできてこれから試食するってんで、土鍋炊きの指導なんかしちゃって、おいしく炊けて良かった、失敗してたら気まずくなってたろうなって…

 

 それから家に戻って、ヒイカの煮物で晩酌…

  夕食はね一皿料理、鶏そぼろ飯と野菜の盛り合わせンにしました。お椀はキノコと豆腐の汁です。使った野菜はね、カブの葉、レタス、赤カブ、カリフラワー、ピーマン、ホウレンソウ、椎茸、ニンジン、りんご、サツマイモ、キンカン、梅酢漬けの生姜、それとお椀の方に、白マイタケ、椎茸、ネギ、ホウレンソウなんです。

今日は、明日の餅つきに持ってゆく甘酒をつくらねば…

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の二代目吉駒の下で修業して参りました。
初代吉駒が始めた美登利会は、来春で75回目の節目を迎えます。予定通り、4月8日に開催いたします。
亡くなりました二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、これからも引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

今春の第74回美登利会の舞台の様子はコチラでご覧になれますす
お稽古場は前橋市城東町四丁目です。詳しくはコチラをご覧ください

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庭の片づけを始めた日、前橋の路地は23回『馬場川沿いの路地その5 優曇華に会えた』です。

2017-12-05 06:06:06 | 前橋の路地

昨日の朝食後から庭の手入れに着手しました。伯母さんが急逝した9月の末から全く手入れをしてこなかったんでひどい状態になっているのは分かってたんですけど、いろいろ想うことあって手が出せないできちゃったんです。一番だったのは小さな菜園なんです。
写真は、その菜園で倒れてもまだ緑を失わないでいたピーマンから収穫した実です。

 菜園の脇ではヒイラギの白い花が良い香りを漂わせてます。
「野菜の花なんて見たことないよ」っていう伯母さんのために、庭で野菜を作ることにしたんです。伯母さんがこの家で暮らすようになってからのことなんです。にわか菜園だったんです。カボチャ、キュウリ、トマト、エダマメ、トウモロコシ、ピーマン、ナス…、いろんな野菜の花を見てもらったんです。
「カボチャの花って大きいんだね」とか、「ナスの花はかわいいね…」とか…

  花を見ただけじゃないんです。採れた野菜は喜んで食べてくれました。「うちのはおいしい…」って。枯れた野菜を取り除いて、回りの草取りもして、支柱をかたずけて、マルチをはずして…
来年はどうしようかな、なんです。喜んでくれる人がいなくなった菜園は寂しいです。
「あたしが喜ぶから、来年もやってね!」、見物に来たユキ子さんは言うのですけど…

 三時間ほどかけて、にわか菜園は片付きました。明日からは、周りの木々の手入れをしなくてはなりません。それから裏庭の片づけなんかしてると、1日3時間やって10日ぐらいはかかるかもしれないです。のんびりやりましょう。

 午後、ちょいと街へ出てあおい食堂に寄って、家に帰ってくるとき三河町の博英堂さんちの窓に猫が出て来てました。
<馬場川のことまだ続くの?>
「うん、明日はさ、優曇華だの綿虫だのに出会った話を書くよ…」
<なにさ? そのウ・ド・ン・ゲって…>
「読んで、読めば分かるから…」

ということで、今日は「前橋の路地第23回 馬場川沿いの路地その5 優曇華に会えた」です。

 

   
前橋の路地第23回 馬場川沿いの路地その5 優曇華に会えた

  第2保育所の前の歩道は紅葉のトンネルになっている。それをくぐり抜けると、馬場川沿いの細道に出る。馬場川沿いに家並が続いている。

  暮らしのある家の前には草花を咲かせた鉢やプランターが並んでいる。馬場川に架けた家の入口に続く斜めな橋は物干し場などに使われている。10年ほど前までは、この地に暮らしている皆さんが手入れをしていた鉢やプランターはもっともっときれいであった。
花を巡り、洗濯ものをかいくぐって猫たちが行き来しているのを見物していたものだ。

   今、ここで暮らす人たちはずいぶんと減った。年老いて暮らしを成り立たせることができなくなった人もいるだろう。でも、区画整理事業との関係でどこかへ移って行ってしまった人々も少なくないはずだ。
誰も手入れをしなくなって枯草だになったプランター、使う人のいなくなって何もない橋、閉ざされた門扉、空き地になった向こうも無住の建物…、ずいぶんと寂しくなった。

 馬場川の川岸の草ぐさも枯れ始めている。流れる水も冷たく見えている。そんな川沿いの道を行くと…

隆興寺の墓地の外周の生け垣に出る。カラタチがほとんどだけど、ところどころにクワだの、モチだのが混ざっている。今は少なくなったカラタチの生け垣だ。
『からたちの花』は北原白秋作詞、山田耕筰作曲だ。懐かしい。
春から夏にかけてがたくさんのアゲハチョウが舞う。見ているだけで楽しい。今は冬枯れ、虫たちはいない。

こんなのにも出会える。優曇華だ。仏教の経典に出てくる優曇華は三千年に一度咲く想像上の花だ。どんな花なんだろう。
この優曇華は植物ではない。クサカゲロウの卵だ。これに出会うと良いことがあると聞かされてきた。2013年6月にこの生垣で出会った。良きことがあったか否かは記憶にない。美しかった記憶だけだ。

コチラはワタムシ。アブラムシの一種だ。北海道やなんかで雪虫とよばれて秋の終わりに風に舞う虫もこの仲間だ。この写真も2013年6月。
隆興寺の墓地の生け垣の脇を抜けて行く時、なんかに会えないかなと目を凝らす。
区画整理事業が進むとこの生垣はどうなるのだろう。ウドンゲやワタムシにまた出会うことができるのだろうか。

   生け垣の下にこんもりとした緑の塊、ヒガンバナの葉だ。花が終わると緑の葉が伸び、春になるといつの間にか消えてしまう。不思議な葉だ。
生け垣の続く路地は石屋の置き場で終わる。置き場の中に生えているニワナナカマドの葉が紅葉していた。

  
         前橋の路地 第23回おしまい

 

街灯が点りはじめた八展通り、信号待ちしている人が寒そう。昨日は午後から急に冷たくなった気がします。

 夕食には、片づけた菜園で採れたピーマンを肉詰めにしたのですが、小さなピーマンなのでほとんどの肉が残ってしまいました。それで、残りは煮込みハンバークにして、こんな料理になったんです。伯母さんに食べてもらえなかったピーマンなんです。

 あとは、トマトと卵のスープ、わさび菜と赤カブのサラダ、それとパルメザンチーズのパスタを少々でした。なんか、言葉少なに食べました。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
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落ち葉の中で風景が変わるのを待っている路地を訪ねました。前橋の路地第22回です

2017-11-30 16:06:42 | 前橋の路地

正幸寺の勝軍地蔵尊のお堂です。26日にはまだ公孫樹の葉はほとんど散っていなかったのですけれど、昨日立ち寄ってみたら散り敷きはじめていました。

 2本の公孫樹の樹はすっかり黄金色になった葉をたくさん残しています。近日中にお堂の周りは黄金色の海になります。

今日も前橋の路地をやります。丸山染工場のあった先の路地、人の暮らしが消えて風景が変わるのを待っている路地です。

 

  朝、いただいたグラニースミスをジャムにしました。とてもしっかりした酸味の素敵なリンゴジャムができました。右は出来上がり具合を確かめるので小さなパン切れにのせて試食したんです。

  広瀬川の十六本堰にはたくさんの落ち葉が流れ着いていました。カルガモが落ち葉の中を泳いでいました。

 

   
前橋の路地 第22回 馬場川沿いの路地その4 風景が変わるのを待つ路地

  丸山染工場があったところから第2保育所のところまで、川沿いの道は広がっている。自動車が走れる車道と川沿いの歩道が植え込みで分離されている。川沿いの道は舗道の先にある。
植え込みの先に白い壁が見える。あの家のところから右へ入る路地がある。今日は、馬場川からちょいと離れてこっちの路地に入る。

   右に曲がるとすぐに左に曲がっている。曲がると、右手は最初の家の生け垣、左側は白い壁の家の裏だ。その先は砂利を敷き込んだ空き地になっている。最近建物が解体処分されてできた空き地だ。この区域は前橋市が施行する区画整理事業が進められている。そのために、こういう空き地と無住になった家屋が日に日に増えているのだ。

  路地の右側、最初の家の先は住む人のいなくなった2軒長屋だ。隅を覗くと、奥に井戸のポンプが見える。物心ついた天川の戦災住宅はこんな家であった。

 長屋の前にも空き地ができている。ここの空き地にはアカマンマが一面に咲いていた。イヌタデ(犬蓼)の花、普通、7月ごろから10月ぐらいに咲く花だ。風あたりのない日差しが届く空き地は11月になっても花盛りだ。

  長屋の先を右に曲がるとそこには人の暮らしがある。ピンクの塗装が見える。『マヤ』という美容室がある。今も営業しているかどうかは分からないけれど、人の暮らしは確かにある。
左手のブロック塀は隆興寺の裏塀、隆興寺は前橋藩主酒井忠世の開基により1636年(寛永13年)に紅雲町にある龍海院の僧により創建されたと伝えられている。当時この地は前橋城下ではなく、十八郷村という村であった。

  マヤの先を右に曲がる。隆興寺の裏塀沿いの路地だ。路地は隆興寺の裏の外周を巡っている。この寺の寺域は十八郷村の時代のままなのだろうか。奥の赤い鉄製の門扉は使われていない。その手前、防犯灯の支柱のあるところを左に曲がって路地は続いている。

  左に曲がると右側はフェンスで囲まれた空地、突き当りの家も暮らしの気配はない。閉じた門の内側、玄関先のカエデの紅葉が美しい。
このくねくねと右左に曲がる路地を歩いてくると、小さな農村であった十八郷村に藩主の強権で寺院が移され創建された当時の田畑の畦道か集落道を歩いているような気がする。馬場川から水の引き込まれた田には蛍が飛び交い蛙が賑やかだったことだろう。古い街並みの裏路地には500年の昔の村の翳が残っている。

空き地の向こう側も住む人のいない家だ。取り壊されるのを待ってるだけの無機質な存在だ。
この路地、村の集落や田が長い時を経てまちの住宅地に変わり、そして70年前に米軍の空襲で焼き払われ、跡形もなくすべてを失った。その後、焼け野原となった路地につくられた人々の暮らしも、今、その痕だけになろうとしている。

 奥を覗くと大きく伸びたサザンカが満開になっていた。路地はここで行き止まり、元の道を戻る。

『マヤ』のある道の曲がり角まで戻ると、隆興寺の境内に続く路地がある。この路地の左側の家並みも、暮らしの臭いはない。
区画整理事業が進むと新しい風景が現れるはずだ。今ある家で残る可能性を感じさせる建物はない。未舗装の自動車の入れない路地も姿を消すしかない。また全てが失われる。
子どもの頃、私は、こんな路地で遊んでいた。メンコに興じ、かくれんぼや戦争ごっこをしていた。
人々の暮らしが消え、不確かな記憶だけしか残っていない路地は、新しい風景を待っている。

 

  
        前橋の路地 第22回 おしまい

 

 

   昼食は、一人でラザニアを作って食べようとしているところに出かけていたユキ子さんが戻ってきたんで、半分こして食べました。
それで、月末だからって理由で夕食の支度の免除申請をしたら、「ご馳走してあげる」っていうことになりました。しめしめで、鮨屋の『いわまる』へ出かけたんです。写真は、酒の肴につくってもらった刺身の盛り合わせとマハギの肝和えです。せっかくご馳走されるのですから、贅沢することにしました。おいしいです。

  たくさん飲んで、にぎってもらって…。写真は〆サバと大好きな車エビです。
珍しいことなんですよ、ユキ子さんにご馳走されるのって…

 

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
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キンカンを煮た日は、前橋の路地第21回「馬場川沿いの路地その三 丸山染工場」です

2017-11-29 06:34:30 | 前橋の路地

昨日JAファーマーズ朝日町店へ野菜を見に行ったら、キンカンが並んでいたのです。早いなと産地表示を見ると、前橋産ではなく、高知県から届いたきんかんでした。さっそく買い求め、シロップ煮を作りました。
伯母さんンの大好物の一つでした。「これ食べると風邪引かないのよね…」って。

   煮込みおでんを作り、豚バラ大根を煮て、菊の花の甘酢漬けを仕込みました。
おでんは、大根、コンニャク、昆布巻き、袋、里芋を朝のうちに煮込どきます。あとは夕方、ガンモドキ、チクワ、ゴボウ巻、つみれ、ハンペンなんかの既製品を加えて温めてできあがりです。
ユキ子さんは昨日も上京、帰って来たら温かいものと思ったんです。

あとは、家で本なんか読んで時を過ごして、昼飯はまちのあおい食堂でラーメンを食べました。

 ラーメン食べた帰り道、時々ベランダ猫しているご近所の顔見知り猫に出会いました。昨日はベランダでなく、ガラス窓から外を眺めてました。
<馬場っ川のこと書いてるんだって?>
「うん、ボチボチね…」
<ずいぶん前だけど、俺が子猫だったころにMATTOとかいう雑誌にも書いてたよね>
「よく覚えてるな…」
「ロスアンゼルスから来た猫なんかが出てきてさ…」

2005年のことですからずいぶん前のことです。このまちで発行されたフリーペーパーにコラムを連載したんです。「前橋のまちで佐藤さんが実際に体験した話をベースにしてください。作り話でなく。それと、短い詩を一つ必ず扱ってください」。こういう注文だったんです。
家に戻ってキキに相談したら、「引き受けてやんなよ。ついでだからさ、必ず猫を登場させるといいよ」ってことになって、前橋のまち+短詩+猫のコラム「のんべえのほおづえ」がスタートしたんです。写真は、その第1回です。中央通商店街を舞台に書きました。私が、本業を離れて勝手気ままに書いた文章を人に読んでいただくことになった最初のコラムです。

毎月一回、13回連載したのですが、13編のコラムのうち馬場川が5回登場しました。そのうち4回は馬場川沿いの路地が舞台でした。当時も、馬場川沿いの路地を毎日のように通っていたんです。

 

 正幸寺の石橋の上から上流を眺めています。川沿いの道は、正幸寺の墓地のはずれで急に道幅が拡がって、川沿いに歩道のついた自動車が走れる幅員の道になっています。
前橋の路地21回は、正幸寺の先の馬場川沿いの路地が舞台です。

 

   
   前橋の路地第21回 馬場川沿いの路地 その3 丸山染工場

 正幸寺の墓地のブロック塀の端の角まで来ると、車が通れる道に出る。通称「養行寺通」、道の左手には法華宗の養行寺という寺がある。

 馬場川に面して市立の保育所がある。30歳のころ、国の大蔵省の知り合いから、「保育所の給食と栄養価の関係を調べてほしい」という依頼を受けた。そこで、こっちの知り合いの栄養士と組んで、県内5カ所の保育所を選び調査をした。その時。この保育所も調査対象の一つに選んだ。1週間分の給食を調べるのだけど、1回だけ試食させてもらった。おやつの干しブドウ入りの蒸しパンがすごくおいしかったのを覚えている。

 

馬場川沿いには「丸山染工場」の看板を掛けた建物がある。10年ほど前まではのれんや幟旗や法被なんかを染めていたのだが今はやっていない。

以前は坂の上の本町にあったらしいのだが、私が子どもの頃にはもうこの場所に移ってきていた。

 当時は、正幸寺の墓地脇の馬場川の中に、染め上げた布帛が流され、川に入って糊抜きの作業をしているのが見られた。
冬場は、5月の節句を飾る、鯉の滝登りや武者絵の幟が流されていて何とも美しかった。川岸に座り込んで水に揺れる極彩色の図柄に見とれていた。

 ひょんなことで、丸山染工場へ仕事をお願いすることになり、親しく話をするようになっていた。
ご夫妻は猫と暮らしていた。『トラ』という名の美しい猫であった。アメリカのロスアンゼルスから海を渡ってやってきた猫だった。

MATTOのコラムの連載第2回は、このトラに登場願った。

詩は古書店『山猫館書房』をやっている俳句作家、水野眞由美さんの作品を使わせてもらった。彼女の愛称は『ネコ』だ。ただこのコラムには大きな失敗があった。なぜかおしまいの一節で「馬場川」と書かねばならないところを「風呂川」としてしまった。校正でも引っかからず、赤っ恥がそのままさらされている。

 染工場の入り口の脇の壁面を見る。ここには、染色用のさまざまな刷毛や筆が掛けられていた。今は何もない。

  
           前橋の路地第21回おしまい

 

 かつてはこのまちのあちこちに染工場があったんです。櫓に吊るされた手ぬぐい地が風にたなびくのも見られました。でも、丸山染工場が廃業してしまって、このまちの染工場はたった1軒になっちゃったんです。千代田町5丁目(旧榎町)にある出世稲荷前の前、『相川のれん店』だけなんです。
今は、のれんや幟は安価なプリントのものが主流となり、本格的な染物を使うことが減っってしまいました。そこで、相川のれん店では、伝統的なのれんや幟の注文だけでなく、ご主人が染め上げた布を使っておかみさんがオリジナルのおしゃれなバックや小物入れを製造販売しています。染工場の方は平日毎日開いてますけど、バックや小物の店は土曜日と日曜日だけの営業です。詳しくは相川のれん店のHPをご覧ください。私も相川のれん店バックを愛用しています。

 

 メタセコイアの樹もすっかり色づきました。ぱらぱらと音を立てて葉を散らすのも間もなくです。

 夕方、煮込みおでんを仕上げて、ユキ子さんの両親ちへ届けた帰り道、南西の空がこんな具合に夕焼けていました。

 

   豚バラ大根、キンカンのシロップ煮、菊の花の酢漬けで晩酌しておでんで夕飯でした。昆布巻きの昆布は姉さんが北海道で買ってきてくれた柔らか昆布です。袋には、牛肉、舞茸、しらたき、ウズラの卵を詰めました。おいしくできていましたよ。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の二代目吉駒の下で修業して参りました。
初代吉駒が始めた美登利会は、来春で75回目の節目を迎えます。予定通り、4月8日に開催いたします。
亡くなりました二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、これからも引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

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糸駒は和楽会で『三番叟』を舞い、私は正幸寺、前橋の路地第20回です

2017-11-26 20:05:02 | 前橋の路地

昨日、県民会館で温故和楽会の創立70周年を記念する演奏会が開かれました。この会は、糸駒の祖母、初代吉駒が邦楽や舞踊に取り組んでいる同好の皆さんと作った会なんです。
その記念の舞台の口開けに糸駒が茂駒と清元『若柳三番叟』を舞いました。お祝いの舞です。

 74回続いてきた演奏会、二代目吉駒は毎回出演してきました。今年も舞台に立つ予定でしたが、残念なことにそれは叶いませんでした。今日が、2回目の月命日です。
早いです。伯母さんを見送ってもう二月が過ぎたんです。

  「写真だけでも撮っておいて」と糸駒に言われて出かけた県民会館裏の公園の木々の紅葉はそろそろおしまいに近づいているみたいでした。

 

 糸駒の舞台だけ観て県民会館を後にしました。ヤギカフェで昼食をと思い来た比刀根橋、広瀬川の川面にはたくさんの落ち葉が流れていました。
どこもかしこも落ち葉、落ち葉なんです。

 11月24日の『馬場川沿いの路地 その一』のおしまいの写真、米屋があった空き地も落ち葉に埋まってました。その向こうに正幸寺が見えています。
前橋の路地第20回はその正幸寺を訪ねます。いつも、折に触れて境内をうろつかせていただいている寺なんです。住職とは高等学校で一緒してました。

 

   
前橋の路地 第20回 馬場川沿いの路地 その2 勝軍地蔵の正幸寺

  馬場川に架かる正幸寺の山門に続く橋、石造りの橋だ。
正幸寺のはじまりは1501年(文亀元年)に大誉証栄和尚という僧が厩橋城の水曲輪(現在の市役所の南あたり)に小さな念仏堂を建てたのが始まりと伝えられている。その後1590年の豊臣秀吉の小田原攻めで戦功を挙げた徳川家康が関東を治めることになり、厩橋城は家康の側近の武将平岩親吉が城主となった。正幸寺は親吉の信を得て城内に残ったようだ。
馬場川沿いに残る寺院のなかでは一番古い寺である。

  石橋の向こうは坂道、本町通(国道50号)から下ってくる参道だ。石橋の桁は大きな石材がみごとに削り出され美しい弧を描いている。馬場川に架かる橋の中で一番美しい。
厩橋城主になった平岩親吉には子どもがいなかった。そこで家康は自分の第八子の仙千代を親吉の継嗣として養子縁組をさせたという。しかし、仙千代は幼くして早逝し、親吉は正幸寺に亡骸を葬り、追善のために勝軍地蔵堂を建立したと伝えられている。江戸幕府が成立する以前の戦乱の世が収まり始めた時代の話だ。

 正幸寺の本堂を山門から眺める。
正幸寺が城内からこの地に移されたのは、江戸時代に入って酒井氏が前橋城の城主となってからだ。四代目藩主の酒井忠清による城の拡張に伴い 1656年(明暦2年)この地に移転させられた。当時、この地は城外で十八郷村と呼ばれる村であったという。
以来、ずっとこの地に続いてきたのだけれど、1945年(昭和20年)8月の米軍による前橋大空襲により堂宇を焼き払われ、全てを失った。正幸寺の今は、このまちの『戦災復興』と軌を一に、堂宇を再建し、宗教活動を再興してきた途上にある。
確かめていないけれど、参道の馬場川に架かる石橋は、空襲前のものだと思う。

 本堂の右手に鐘楼がある。今も、朝夕の時を伝える打鐘を欠かさない。最近流行の自動打鐘装置ではない、ちゃんと住職はじめ寺のみなさんが撞いている。
大晦日の除夜の鐘、正幸寺は檀信徒でない私みたいな者にも鐘を撞かせてくれる。百八つ撞いてまだ撞いていない人がいると二順目の百八つをしてくれる。諏訪若御子神社の弐年参りをすませてから正幸寺の除夜の鐘を撞かせてもらうのが城東町に住みついてからの新年行事となった。

 

境内の大公孫樹の下に将軍地蔵尊を祀る地蔵堂がある。公孫樹の葉が散ると黄金色の海の上に堂が浮かんでいるかの如くに見える。

 堂の中には、右手で武具を掲げ、左手に宝珠を持ち、白馬にまたがる若武者姿の勝軍地蔵尊の像が祀られている。不思議な仏像だ。
「悪業煩悩の軍に勝つ地蔵」ということであるが、その姿から戦国の武将の信仰を集め全国各地に伝えられているという。

美しい仏像だ。親吉は厩橋から甲斐に移り、失った仙千代の弟、徳川義直に仕え甲斐の国の統治にあたった。家康は、平岩氏の断絶することをあくまで惜しみ、その昔、親吉が産ませたという子を見つけ出し、平岩氏を継がせようとした。しかしその子の母が親吉の子供ではないと言い張ったため、家康もようよう諦め、大名家平岩氏は親吉の死をもって断絶したと伝えられている。一代限りの大名が遺した勝軍地蔵尊なのである。
幼くして逝った仙千代の面影がやどっているのであろうか…

  墓地に入り込むとシロダモの樹にもやもやした花が咲いている。シロダモは前の年の花が結んだ実が一年かけて熟れると次の花が咲くという。枝を見まわして赤い実を探すが見つからない。
足元を見ると、赤い実がたくさん落ちていた。今年は実が熟れて落ちるのが花の咲くのよりも少し早かったようだ。絶えることなく命を伝える実と花だ。

 山門を出て掲示板を見ると、写経の集いと法話の会の案内の間に一句。

  干し柿や あまたの恵 受けて生く  (角川源義)

正幸寺で命に思い巡らせた、キキの初めての月命日。

石橋のから馬場川を見る。路地は続いている。

  
            前橋の路地 おしまい

 

 呑竜仲店のヤギカフェで食べた昼食は鳥チャーシューのバルサミコ酢丼でありました。
糸駒は和楽会の舞台を終えるとすぐに、中村富十郎さんの7回忌の追悼の会へ顔出しするため上京しました。慌ただしいことです。

 

  私は家に帰ると、キキが遺して行った魚の開きのぬいぐるみと、飲み残しのコバルジンを処分することにしました。家の中にはまだキキが遺して行ったものがあちこちにあります。少しずつ、片づけて行こうと思っています。
コバルジン、2年近くキキが服用し続けた腎不全に伴う尿毒症を抑える薬なのです。

みんながいろいろ心配してくれます。でも、気分はいつもキキと一緒、あんじゃあないんです。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の二代目吉駒の下で修業して参りました。
初代吉駒が始めた美登利会は、来春で75回目の節目を迎えます。予定通り、4月8日に開催いたします。
亡くなりました二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、これからも引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

今春の第74回美登利会の舞台の様子はコチラでご覧になれますす
お稽古場は前橋市城東町四丁目です。詳しくはコチラをご覧ください

 

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前橋の路地は『馬場川沿いの路地 その一』です。それと、黒猫の熊野詣とはかりめ丼

2017-11-24 07:08:12 | 前橋の路地

昨日の朝は夜来の雨がまだ降り続いていました。ご用で上京する糸駒は傘をさしてタクシーに乗り込んでいました。
糸駒が出かけて間もなく雨はやみました。二階の窓からご近所さんちの屋根の間に赤城山の鍋割が雲間に浮くように姿を見せてくれました。

 雨粒の波紋がなくなった水溜りには、葉の落ちた柿の木の枝が映っていました。
でもね、昨日も庭仕事はパス、ずぶ濡れになっちゃいますから。で、他の頼まれ仕事だの、自治会の組長の仕事なんかしてたら昼過ぎになってしまいました。

  用足しに出かけるのに通りかかった裏弁天通、裏路地には落ち葉がいっぱいです。

今日から、前橋の路地で三河町1丁目の馬場川沿いの路地を取り上げます。明治7年開校の中川小学校のところから国道50号と赤城県道の交差点にあるホテルの裏手までの路地です。馬場川は本町と三河町の境界を流れてますけど、川沿いの路地は三河町です。
一度で書けないのでしばらくシリーズで書き続けることになります。よろしくお付き合いください。

 

   
前橋の路地 第19回 馬場川沿いの路地 その一 眼鏡探しの思い出

 物心ついたころから通ってきた道だ。
当時は天川の戦災住宅で暮らしていた。母につれられてまちへ出るとき、両毛線の線路伝いを歩き、新町の踏切から日赤病院の方へ進むと焼まんじゅうやかき氷を商っている下山商店の角に出る。そこから、線路と並行している路地をまちに向かうと中川町(今は国道50号沿いの朝日町と本町の東ハズレ)の松竹院の裏手に出て、そこで馬場川に出会う。川は国道50号の道路の下をくぐり抜けて来ている。国道を渡ると、中川小学校の校庭の南西の隅でまた姿を現し、国道の崖下、流れはまちまで続いていた。
流れの北側、芳町(今の三河町1丁目)側に川沿いの路地が続いていた。母に手を引かれて歩いた道だ。

 写真を撮っていたら犬を連れて散歩しているおじさんが、「おい、お前も撮ってもらいな」と犬にすすめる。「住む人が減っちまって、寂しくなったいね、昔は賑やかだったんだけど、芳町も…」という。
犬の背後に水門がある。この水門は馬場川が農業用水として使われてきた名残だ。ここから馬場川は南へ流れ、天川原町の田んぼに水を届けている。この水門で分水した水は、中川小学校の中を流れ、旧中川町から大塚町にかけての田んぼに水を届けてから、端気川に合流していた。

馬場川には対岸の家の数だけ橋が架けられている。川の南側で暮らす人は川に橋を架けて出入り口を確保している。水道管も川を渡って繋がれている。
川に浮かんでいる小舟は、ここでアヒルを飼っていた人がいて、そのアヒルの休憩場所だ。今はアヒルはいない。

  以前、この辺りの薮でカルガモが営巣し、川面で子育てをした。その時は、小舟はカルガモの幼鳥の休憩場所となっていた。

まだ、6畳と4畳半二間の戦災住宅で暮らしていた時のことだ。夜寝ていたら大きな声が聞こえ、一緒に寝ている姉二人とそっと起き出して声の方を見る。土間で、父が頭から水を浴びせられていた。冬のことだ、冷たかろうに…

  川にかけられた橋だ。左は住む人を失った家の橋、右は今も暮らしのある橋だ。端に並ぶ植木鉢がその違いを教えてくれている。

翌朝すべてが分かった。父は酒に酔って帰宅する途中、馬場川へ落ちたのだ。それで、どろどろになって帰ってきて水を浴びせられていたのである。県の教育委員会から通勤用に支給されていた自転車は川から引き揚げて押してきたらしく土間にあった。
「眼鏡落としてきたから、探してきなさい!」、母から命令が下った。

 当時の川沿いの路地には住宅だけでなく店屋もあった。今も青柳商店という食糧品を商っていた店の建物が残っている。営業はしていない。
店の前の路地、馬場川の岸にフェンスが見えているが、昔はフェンスなどはなかった。落ちるのは簡単だった。ここではないが、今の東和銀行本店裏の馬場川に軽自動車が落ちているのを見たことがある。「酔っ払いがさ、みんなしてもちゃげて、抛りこんじゃったのよ…」、近所のおばさんの嬉しげな解説を聞いた記憶が残っている。

 使われなくなった丸木を二本結わえた橋だ。こんな簡便な橋も残っている。落ちて不思議はない。

中川小学校のところから川底をのぞいて歩いた。一所懸命川底にメガネが沈んでいないか見つめていた。冬の馬場川は水量も少なく、水も澄んでいる、落ちていれば見える。

 でも、眼鏡は見つからなかった。父は、しばらくの間、眼鏡なしで仕事に出かけていた。まことに変だった。まだ5歳ごろの記憶、馬場川にまつわる一番古い思い出だ。

馬場川沿いにはいくつもの寺が並んでいる。まちに向かって最初は旧中川町の松竹院、次が正幸寺、その次が養行寺、そして隆興寺、赤城県道近くの東福寺、県道渡って明聞寺、六つの寺が並んでいた。
中川小学校のところから川沿いの道に入って最初の寺が正幸寺、その手前のおおきな紅葉した樹のある空き地には米屋があった。猫が飼われていた。

 
           前橋の路地 おしまい

 

 夕方近くまちで黒猫に出会いました。立川通りの蕎麦屋『大川屋』の脇の路地です。どこから来たのかは分からないのですが、どこかへ行こうとしています。ついていくことにしました。

   黒猫は立川通りの裏通りに向かいました。角でちょいと呼吸を整えて周りを窺って、左の歯科医院の建物に沿って歩いて行きます。まさか歯医者に用があるわけはないと思ってたら、道を横切って反対へ進みます。

  熊野神社の鳥居をくぐって拝殿前まで来ると、すっと背筋を伸ばして社をしばらく見上げていました。それから拝殿の脇へ回って姿を消しました。
黒猫の熊野詣でした。

 昼過ぎには晴れたのですけど、勢いよく雲が流れていた一日でした。
日が落ちるころ、上京していた糸駒が帰ってきました。

 

   夕食はアナゴ丼に野菜汁、ヤリイカのカルバッチョ、それとヤリイカのげそと金時草の柚子ポン酢和えでした。

 このアナゴ丼、いつものと少し違うんです。
テレビの『三宅裕司のふるさと探訪』って番組見てたら訪ねた先が千葉県の富津市、そこで「はかりめ丼」って食べ物探してたんです。「はかりめ丼」って何だろうなと思って見てたら、富津で獲れたアナゴを煮て丼飯に載せて炙ったものだったんです。アナゴ丼なんです。なんで「はかりめ」っていうかというと、生のアナゴの皮目の模様が竿秤(さおばかり)の竿に彫りこまれた「秤目」に似ているからなんだそうです。知りませんでした。

ただね、普通のアナゴ丼と違ってさすがは富津なんです。ご飯の上にたっぷりとモミ海苔を盛って、その上に煮アナゴ載せてバーナーで炙ったんです。海苔です、千葉海苔です。
それなんで、昨夜のアナゴ丼には、鳥山海苔店の千葉海苔をもんでたっぷり使わせてもらいました。うまかったです。江戸前の味になりました。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の二代目吉駒の下で修業して参りました。
初代吉駒が始めた美登利会は、来春で75回目の節目を迎えます。予定通り、4月8日に開催いたします。
亡くなりました二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、これからも引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

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