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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

棚からハムレット

2014-11-21 | 演劇
 いつもながらの感想ではあるのだが、芝居というものは形として残らない。写真、映像、上演台本、パンフレット等、その断片は残るけれど、当然ながらそれらは芝居そのものではなく、薄れゆく記憶を補完する材料でしかない。
 ということで、幾日も前に観た舞台のことを思い出すようにメモしておくことはそれなりに意味のあることかも知れないと改めて思う。
 この2か月ほどの間にかなりの芝居を観ているはずなのに、日々は残酷にも足早に過ぎてゆき、記憶は次々と更新されてしまうからだ。

 ということで、今思い出しているのが、今月7日に中野ザ・ポケットで観たCAPTAIN CHIMPANZEEの公演「棚からハムレット」だ。
 この劇団とは知り合ってかれこれ10数年が経つのだが、今回私がこの公演に足を運んだ大きな理由の一つは、私の好きな俳優、上素矢輝十郎さんが客演していたからだ。
 輝十郎氏とは、彼が、「ごとうてるひこ」と名乗っていた頃、それこそ17、8年前に「うるとら2B団」の舞台に出ていたのを拝見して知己を得た。
 立ち姿が美しくカッコいいのはもちろんだが、情のこもったいい芝居をする俳優で、私にないものを感じさせてくれる得難い存在なのである。
 今回の芝居は、シェイクスピアの「ハムレット」を下敷きに、登場人物たちの現実の生活と、劇中で演じられる「ハムレット」の劇が幾重にも重なったメタ演劇コメディなのだが、輝十郎さんは、主人公・公子の死んで亡霊となった父親と、その劇団を乗っ取った叔父の二役を演じていた。
 生活に疲れ、父親を憎む娘と、距離を測りかねつつ励まそうとする父、叔父役それぞれの役作りがコミカルながら説得力があり、涙を誘う。

 この芝居を観ながら私はケネス・ブラナーが監督した映画「世にも憂鬱なハムレットたち」を思い出していた。
 ケネス・ブラナーはこの映画について、「危機状態にある俳優たちの行動ぶりを自嘲的に眺めたもので、自分という存在について自身が描いている失望をコミカルに捉えた作品」であり、「俳優という存在そのものが、誰もが感じている自己妄想を強調した実例であるということ、それがどんなに面白いかをこの映画は描いている」のだと言っているが、確かにオーバーラップする部分がある。
 「棚からハムレット」もまた、それぞれに問題を抱え、絶望状態にある無名の三流役者たちが、ハムレットを上演する過程で立ち直ろうとする芝居なのである。

 この芝居そのものが、CAPTAIN CHIMPANZEEという劇団や多くの小劇場演劇を担う「無名」の劇団、役者たちの抱える様々な問題そのものをテーマに描いているとも言える。
 そうした諸々のことを考えさせてくれる、その意味でもこの舞台は私にとって忘れがたいものとなった。