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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

瞬か/言葉のない世界

2013-12-04 | 演劇
 「小説に限ったことではないが、人間の心にはなぜだかフィクションだけしか届かない場所があって、フィクションでしか癒せない部分があるような気がしている」
 と、作家の窪美澄氏がひと月ほど前(11月3日付)の日経新聞に書いていた。
 言葉を誰かに伝えようとし、その言葉が意味を持って相手に伝達されるためには一定程度論理的であることが求められる。
 しかし、論理的だから言葉が相手の心に響くわけではなく、理路整然と正しいことを言ったからといって相手が共感し、感動するわけではない。
 言葉とは難しいものだ……、と思うけれど、これは言葉そのものの難しさではなく、誰かに何かを伝えることの難しさなのだろう。
 宇宙の始めに言葉があり、言葉によって世界のあらゆるものが名づけられ、名づけることによって人がモノゴトを認識するのだとすれば、すべての現象は言葉によって規定され、意味づけられるということになる。
 しかしながら美や芸術的感動といったものが、言葉では言い表すことのできない、むしろ言葉そのものとは異なる地点から生まれ出るように思えるのも確かなことだ。
 フィクションもまた、言葉そのものからというよりは、言葉と言葉の相互作用によって認識の隙間あるいは裂け目に突然のように生まれ出るものなのかも知れない。
 
 そんなことを考えたのは、これまたひと月ほど前にフリージャズピアニストのスガダイローとバレリーナ酒井はなの二人による即興パフォーマンスによる舞台を観て、その記憶がいまだに消えずにいるからである。
 この公演は、「スガダイロー五夜公演『瞬か』」と題された東池袋の劇場あうるすぽっとの企画・製作によるもので、スガダイローが7組の身体表現家とともに五夜にわたって打合せなしの即興表現を繰り広げるというものだ。
 そのすべてを通して観なければその素晴らしさを十全に味わうことなどできないのだろうが、それでもこの一夜の遭遇に私自身は僥倖としか言いようのない感動を覚えた。
 それは身体=肉体とその表現技術を尽くして、二組の表現者がお互いの音や気配、動作、思考の方向性を嗅ぎ分け、共調しながら、自分だけでは為し得なかった表現の地平へと推し進めようとする営為なのだ。
 それぞれが生み出す音の一つ一つ、身体動作の一瞬一瞬に意味があるのではない。それらが連なることで美しさを生み出し、結びつくことで新たな表現が生まれ、観るものの意識を覚醒させる。
 そこに芸術表現の秘密=魅力がひそんでいるようにも思える時間だった。
 そうした時間のなかにいつの間にか浮かび上がるもの、その一つが「フィクション」と呼ばれるものなのかも知れない。

 それはこと芸術、文学や舞台表現にとどまらない、あらゆる人間の創造的行為、イノベーションに通底した秘儀なのである。