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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

演じるということ

2013-05-12 | 演劇
 「何かを言うために戯曲を書くのではない。戯曲を書くために何かを言うのだ」
と言ったのは劇作家の岸田國士である。

 ボヴァリー夫人を書いたフローベールは「何についても書かれていない小説」を書こうとした。
 「外に繋がるものが何もなく、地球が支えられなくても宙に浮かんでいるように、自分の文体の力によってのみ成り立っている小説。出来ることなら、ほとんど主題を持たないか、少なくとも主題がほとんど目につかない小説」
 それこそが彼の書きたいものだった。

 こんなことが言えるだろうか。
 俳優は、何かを言うために演じるのではない。演じるために何かを言うのだ、と。

 もし、演じることが演じようという意思、あるいは想像力のみによって成り立つのなら、そこには戯曲も、演出家も、劇場も、舞台すらも必要ではない。

 一方、演劇にとっていまや俳優は必要不可欠な存在ではないのだ。俳優はロボットでよい、と言い放つ劇作家もいるくらいなのである。
 演劇にとって必要なものとはなんだろう。
 
 支えがなくとも宙に浮かんでいる地球のように、演劇は何ものも必要とはしない、という仮説は成り立つだろう。
 演劇にとって、俳優も劇作家も演出家も美術家も舞台監督も照明や音響も、一切のものが実は不要のものである。
 私=私たちの知覚する世界そのものがすなわち演劇なのだから。

 さてさて、私たちの知覚する世界とは何か。その一切は誤謬であり、夢のようなものだという人もいるだろう。
 そう、演劇とは夢のように儚いもので出来ている。
 その夢の中に私自身も存在するのだ。