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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

共喰い

2012-03-10 | 読書
 田中慎弥著「共喰い」(集英社)を読んだ。
 芥川賞発表時の発言が妙にクローズアップされ、予期せぬ話題を呼んだ著者であるが、この小説がベストセラーランキングの上位に位置しているのは喜ばしいことだと思う。素直によい小説だと感じるのだ。
 この作家の文章からは身体から発するリズムや息遣いが伝わってくる。血の匂いのするセックスシーンや父子の確執、暴力、殺人など道具立てはおどろおどろしいものの読後感にある種の爽やかさを感じるのはこの作家の得がたい資質かも知れない。
 思いのほか無垢で真っ直ぐな人柄なのだ、きっと。(笑)

 さて、この文章の心地よいリズムはおそらく手書きの文章であることと関係があるのではないだろうか、というのが私の読後の第一印象である。
 池澤夏樹氏が「スティルライフ」で芥川賞を受賞したのは1988年、昭和の終わりのことでもう四半世紀も昔のことだが、その時、池澤氏が手書きではなく最初からワープロを使って執筆したということが話題になっていたと記憶している。
 (これは偶然だけれど、「共喰い」の時代背景はちょうどその頃と重なっている。作者自身が小説の主人公と同じ年齢であった頃のことだ。)
 今はすでにパソコンで執筆するということがごく当たり前のようになった時代だが、そうした執筆の「道具」が文章そのものに及ぼす影響についてはこれまでも様々に論議されてきた。文体への影響とか、文章の長さや執筆速度など、それは確かに微妙な違いとなって表れているのに相違ない。
 私自身は自分の書いた文字のまずさ加減にすぐ嫌気がさして手書きでは長く書き続けることができないのだけれど、基本的に作家が深夜一人でノートや原稿用紙にコリコリとペンで刻むように一字一字を書きつけていくという姿にはシンパシーを抱いていた。
 田中慎弥の文章には、そうした文字を刻むリズム、肉体労働としての手書きによる文字が文章になり、それが次の文章を生みながら描写へとつながっていく独自のリズムが心地よいのだと思える。

 この本に収録されているもう一つの作品「第三紀層の魚」もまた現代版「十六歳の日記」を思わせるような瑞々しい小説だ。川端康成のように醒めた透徹するような眼差しではなく、これから自分が歩み出そうとする<新しい世界=社会>への恐れを内包した無垢なるものの眼差しに満ちている。