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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

人口論

2012-02-07 | 雑感
 昨年末から今年にかけて、人口問題に関する報道を見聞きする機会が多い。
 例えば、「世界人口が2011年10月31日に70億人に達するのを記念し、国連人口基金(UNFPA)東京事務所は31日に国内で誕生する赤ちゃん全員を「70億人目の赤ちゃんたち」の一人として祝福し、希望者に認定証を贈ることを決めた」ことが記事になっている。
 70億人という数字は驚きだが、顧みれば、今世紀を迎えた頃の人口は61億人だったのだからさらに驚きである。
 ちなみに60億人を超えたのは1999年で、当時は国連が60億人目の赤ちゃんを特定、ボスニア・ヘルツェゴビナの男児をアナン事務総長が直接祝ったことが報道されていたのを覚えている。

 20世紀は人口爆発の世紀だったとも言われるが、20世紀の半ば、1950年の世界人口はわずかに25億人だったし、さらに遡って20世紀に突入する1900年は16億人だった。
 マルサスの人口論を持ち出すまでもなく、まさに人口は幾何級数的に増大するのである。
 いま、世界の人口は1日に20万人、1年に7千万人ずつ増えているのだそうで、国連推計では2050年に93億人に達するとのことだ。

 これらのことをどう捉えればよいのだろう。
 当然ながら、食料もエネルギーも人口の増大に見合った形では増やすことができない。世界は宿命的に飢餓と貧困問題を抱え込まざるを得ないのだろうか。

 「いま、この世界では、貧しい国が豊かな国との差を縮める『世界のフラット化』とそれぞれの『社会の不平等化』が同時進行している」といわれる。
 中国はいまや最も多くの人口を抱え、世界中の5人に1人は中国人と言われるほどだが、その中国では、グローバル化の恩恵により、輸出主導の高成長のおかげで2005年までの15年間に4億7千5百万人が、世界銀行の貧困ライン(1日1.25ドル未満の生活)を乗り越えたという。
 一方、インド、アフリカを中心とした国々では、未だ14億人もの人々が貧困ライン以下での生活を余儀なくされている。

 さて、わが国であるが、つい先日、国立社会保障・人口問題研究所が、日本の人口は2048年には1億人を割り込み、およそ50年後の2060年には8674万人になるとの将来推計人口を発表し話題になった。
 現在の社会は、現役世代3人が高齢者1人を支える構図だが、半世紀後にはこれが1対1となってしまうのである。

 およそひと月前、成人式が行われた頃の報道。
 今年、東京都内の新成人はおよそ11万4850人(東京都推計)だったが、これはピーク時の1968年と比べると3分の1以下の数値なのである。日本全体でみても、今年はピークだった1970年の半数を初めて下回った年なのだそうだ。
 まさに少子化の減少が顕著に表れていると言えるのだが、膨張する世界人口、縮小する日本、という構図の中で私たちはこれからの生き方を構想しなければならないのである。

 さて、ここから先が本論なのであるが、もちろん正解があるわけではなく、私に論じる力があるわけでもない。成熟社会といわれて久しいこの社会において、まさにこれからの一人ひとりの生き方が問われているのは間違いがないのだけれど・・・・・・。
 「1969」という、由紀さおりがピンク・マルティーニと組んで発表したアルバムが世界中でヒットしているというが、1969年は、まさに団塊の世代が成人を迎え、その数がピークだった時代である。
 その時代の歌謡曲が売れるというのは実に不思議ではあるのだが、案外、そんなところに大きなヒントがあるのかも知れない。