seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

Zeitgeber/労働と演劇

2011-11-09 | 演劇
 5日(土)、フェスティバル/トーキョー11公募プログラム作品、「Zeitgeberツァイトゲーバー」を観た。
 私はドイツ語がまったく分からないのだけれど、このタイトルは、どうやら「同調因子=他のリズムに対して同調を強制する振動」を意味する言葉のようだ。
 作/村川拓也、工藤修三、演出/村川拓也、出演/工藤修三、於/シアターグリーンBIG TREE THEATER。

 舞台の設えはこうだ。出演者は工藤修三ひとり。彼は実際に障害者介護の仕事をしている人だという。観客の中から一人の女性(=俳優ではない)が選ばれ、舞台に上がる。彼女は上演中、出演者として舞台上に存在し続けることを要求される。
 彼女に与えられる条件は2つ。力を抜くことと、劇中で自分が望んでいることを言葉にして3回発声することだ。ちなみに私が観た日の女性は「おいしいものが食べたい」という言葉を選んでいた。
 彼女が力を抜いて横になった時から「芝居」は始まる。彼女は寝たきりで意思表示のできない障害者であるらしい。そこに工藤修三が現れる。彼は訪問介護ヘルパーなのだ。
 およそ70分ほどの時間、彼は彼女を相手にヘルパーの仕事、と思われることを淡々とこなしていく。寝たきりの彼女に着替えをさせ、小用をさせ、車椅子に乗せ、会話をする。その会話も彼女は口が聞ける訳ではないので、彼が「ア・カ・サ・タ・ナ……」「ア・イ・ウ・エ・オ・カキクケコ……」と音を発し、それに対する彼女の反応を感知し繋ぎ合わせることで言葉にしていく。その間、彼女はなすがまま、「おいしいものが食べたい」と言う以外は意思表示も自ら身体を動かすこともしない。
 実際に介護職であるという工藤修三はまさに本当に介護の仕事はこうなのだろうなあという「行為」を淡々と重ねていく。ただ、日常と異なるのは、彼が言葉を発する時、必ずコード付きのマイクを手に取り、声を発するということだ。
 その間、演出の村川拓也は舞台下手の縁に片膝を立てた状態で座り、無言のまま二人をただ観察し続ける……。

 本作についてプログラムあるいは演出家の言葉として紹介されているものを書きぬくとこの舞台作品は、
 「介護する/される身体を舞台上に再現するもの。本来の目的を失った労働の真似事=演劇は何を語り出すのだろう」
 「労働から目的を引き剥がす。目的を引き剥がされた労働は無機能だ。しかし、無機能なゆえに新たな機能を獲得することだってある」
 という問題意識のもとに構築されている。

 しかしながら、そうした問題意識そのものが格別目新しいわけではない。
 こういう言い方ができるだろう。
 演劇という芸術が舞台上に展開するものは、多かれ少なかれ何かの真似事の再現に過ぎないのだと。
 ここでいう「労働」という言葉を「恋愛」や「殺人」、あるいは「嫉妬」や「葛藤」に置き換えるならば、それは従来からの演劇における自明のこととして、これまでも長い演劇の歴史において営々と舞台上で繰り広げられてきたことなのではないだろうか。
 舞台上の身体=俳優=男あるいは女がそこで再現するものは、そもそも当の俳優同士の「恋愛」や「諍い」そのものではなくその「真似事」にほかならないのであって、舞台上で生身の彼らがお互いを好きになったり、恋愛の果てに子どもを産んだり、憎悪したりすることそのものを目的としたものではないからだ。

 この日の舞台上で彼が相手をするのは実際に障害を持った人ではなく、脱力した状態のまま横たわり、なされるがままでいることを指示された一人の観客である。彼の行為は当然ながら障害者を介護するということによって報酬を得る「労働」ではなく、その真似事としての再現に過ぎない。
 この作品の本質/意味を私が理解し得たとはとても思えないのだが、それでも私が深く興味を惹かれたのは、実際の介護者が舞台上で介護という労働を再現するという設えのなかに、脱力し、突然自分の言葉を発する女性や舞台の片隅から見つめ続ける演出者という異物を紛れ込ませ、いちいちマイクを通して声を出すという不自然な行為をあえて導入することで、それら一連の行為そのものが得も言われぬリアリティを獲得していたということである。
 それを私たち観客は客席の高いところから俯瞰するのである。

 この舞台には深く考えなければならない仕掛けがたくさんあったように思われるのだけれど、あえてそれをごく簡単に書きとめると、私は次のような感想を持った。

 まず第1に、リアリティに対する認識の転換ということである。
 この舞台において何よりも存在感を放っていたのが、舞台上に呼び込まれた観客の女性であった。ラストシーンで俳優の工藤修三がいなくなり、演出者の村川拓也もいなくなる。舞台に一人残され横たわる彼女にライトがあたり暗くなる。その瞬間、「介護される者」としての彼女の存在感はいかなる名優の演技をも凌ぐものとなった。
 この驚くべき価値の転換!

 第2に、日常性における演劇性を逆照射することの意味である。
 再現される介護労働の様相がいかに演劇性に満ちているかということを私たちはこの1時間のうちに知ることとなる。
 ここで、雑誌「世界」10月号所収の建築家・隈研吾と演劇作家で小説家の岡田利規の対談で語られていたことを思い起こしてもよいだろう。
 岡田は「僕が日常を描いている。……でも、かりに舞台上で行われる演技が日常と瓜二つの見た目をしていても、舞台そのものが非日常の空間であることは、揺るぎない事実なんですよね」と言い、「たとえば自然な演技をしようとするときに参照する『ふだんの自分』というのを、演技していないものとしてとらえようとすると、なにが自然なのかよく分からなくなって、かえってぎこちない演技になっていまいますよね。人は日常的に演技をしているという観点をもたないとキツいんです」と言う。
 これに対し、隈は「パブリックな建築が街の中心にそびえているのと同様に、じつは、自分のちっぽけな家も、一種の演劇として都市の中に表出している。日本人が意識することのなかった、日常に潜むあらゆる演劇性を逆照射する意味で、公共建築も公共性のある演劇も必要なのです」と言う。
 村川拓也の舞台には、まさにそうした日常の演劇性を逆照射する掛けがあったと感じる。
 それでは、「演劇」を通して「日常の演劇性」を逆照射することの意味とは何なのだろうか。
 この作品はある種の「メタ演劇」、演劇のための演劇とも言えるものだった。演劇の構造を突き詰め、深く考えることによって日常における演劇性の成り立ちを腑分けし、そのことをとおして現実の課題を浮かび上がらせ、解析することにつなげることができるのではないか。そう考える事はあながち的外れな話ではないだろう。

 第3に、コミュニケーションの回路が閉じられ、個別性・孤立性が高まった世界におけるほのかな「希望」の提示がこの舞台にはあった、ということである。
 村川がそんなことを声高にいうわけもなく、そうした意図を思わせぶりに感じさせるものがあったわけではないのだが、この80分足らずの時間を共有したのちの観客の心のどこかにそんな何かが残されたのではないか、と感じるのである。

 それこそが「演劇」の力というものだろうと思うのだ。