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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

天鼓/蝸牛/紅葉狩

2011-09-19 | 舞台芸術
 8日、サンシャイン劇場で観た「としま能の会」のことを記録しておこう。
 いつもながらの解説役は、能楽評論家で横浜能楽堂館長の山崎有一郎氏。御歳99歳とのことであるが、かくしゃくとしていらっしゃるのは能という芸術の賜物だろうか。
 能組は、宝生流舞囃子「天鼓」、和泉流狂言「蝸牛」、観世流能「紅葉狩―鬼揃」の3本である。私のような初心者にも分かりやすい、視覚的にも楽しめる演目である。

 「天鼓」は、古代中国の話。帝の命に背いて鼓を隠した少年は、その罪を咎められ、呂水に沈められる。その鼓は父親にしか音を出せない。子を思う父性愛に帝は哀れを催し、少年を回向する。舞囃子は、能の後半、水上にその少年の霊が現れ、愛器の鼓に戯れ、初秋の夜を楽しく舞う・・・・・・。
 シテ(天鼓):水上輝和。

 「蝸牛」は、蝸牛(かたつむり)を食べると長生きをするという言い伝えに基づく話。主人の祖父のために太郎冠者が蝸牛を探しに行く。蝸牛を見たこともない太郎冠者は、藪の中で寝ている山伏を蝸牛と思い込むところから、この狂言は意外な方向に転じていく・・・・・・。
 シテ(山伏):野村萬、アド(主):野村扇丞、小アド(太郎冠者):野村万蔵。

 「紅葉狩―鬼揃」は、信濃国戸隠山の秋の夕暮、貴女達が紅葉狩の宴を開いている側を、鹿狩りの平維茂と従者が通りかかるところから始まる。女達の酒宴を不審に思い名を尋ねるが答えないので、維茂は彼女らの興をそがぬように通り過ぎようとする。女達はその心遣いに感じ、彼を引きとめ酒宴の席へと誘う。維茂も杯を重ね、睡魔におそわれる。女達はそれを見て鬼の本性をあらわし、山中に姿を消す。そこへ八幡宮末社ノ神が現れ、彼に神剣を授け、鬼退治を命じる。維茂は我に返り身支度をして待つうち、鬼女集団が現れ襲いかかるが、維茂は神剣を揮いこれを退治する・・・・・・。
 シテ(貴女・鬼女):観世喜正、ワキ(平維茂):宝生欣哉 他。

 さて、これらの演目を3・11の震災に引き付けて観ることは、あまりに強引に過ぎるかも知れないのだが、たとえば「天鼓」では、抗うことのできない運命の力によって引き離されたわが子を思う父性愛と、それに応えるかのように現れ舞う少年の霊の姿が、今は失われてしまった人々への尽きることのない思いを滲ませ、観る者を粛然とさせずにはおかない。

 一方の「紅葉狩―鬼揃」は、見目麗しい貴女と思えた女達が一転本性を現し、凄まじい鬼女の群れとなって平維茂に襲い掛かるのであるが、これまた、平和利用の象徴として安全神話にくるまれた原発が実はたとえようもない怖ろしいものであったことを想起させる。
 ついでにいえば、狂言「蝸牛」もまた、よく知りもしないものを探しに行った太郎冠者=人間が、山伏を蝸牛と思い込むところから繰り広げられる滑稽譚であるが、その寸鉄人を刺す風刺の力はあらためて言うまでもなく強烈である。

 以上はまあこのたびの演目を現実を映す鏡と見立てた感想なのだが、それにしても能・狂言という古典芸術の持つ象徴性には今さらのように驚かされる。これらこそは最も現代的な前衛的センスと先鋭性を備えたアートではないかと感じるのだ。
 舞台の上で一場の夢を現出させ、曲の終わりとともに舞台奥へと去っていく演者たちの素っ気なさもまたいつもながらに潔く好ましい。