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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ブルードラゴン/巨大なるブッツバッハ村

2010-11-23 | 演劇
 東京芸術劇場中ホールで観た2つの舞台について簡単に記録しておきたい。
 まず、今月11日に観たのが、「The Blue Dragon ブルードラゴン」だ。演出:ロベール・ルパージュ、作はルパージュと出演者でもあるマリー・ミショー。製作:エクス・マキナ。フェスティバル/トーキョー10参加作品。
 ストーリーをパンフレットに基づいて書くと、次のようなものだ。
 カナダ・ケベック出身のピエールは、かつての工業地帯がアートセンターに変貌し、中国アートシーンの中心となっている近代都市・上海でギャラリーを開いている。ギャラリーには、ピエールの恋人である中国人若手アーティスト、シャオ・リンも出品している。
 この街で、ピエールはかつての恋人であり、今はモントリオールの広告会社幹部として働くクレールと再会する。
 この出逢いをきっかけに、ピエール、クレール、シャオ・リンの3人にとって予想もしなかった変化がもたらされる……。
 急激な経済成長と変貌を続ける街・上海、西洋と東洋、伝統と革新、そして3人の男女の関係……といったところが道具立てとして配され、それらが単なる対立項ではなく、絡まりあい融合する様相が描かれるのだ。
 映像や舞台技術を駆使したビジュアルな演出はさすがにシルク・ドゥ・ソレイユやメトロポリタン歌劇の演出も手がけた手練を見せつけるようだ。
 舞台全面に描かれる漢字を使った表現は、西洋文化圏の演出家独特のものだろうか。野田秀樹の舞台「ザ・キャラクター」の感想でも書いたことだが、漢字に対する偏愛はむしろ西洋人のほうが強いような気もする。この舞台の演出には野田さんも嫉妬したのではないか。
 それは観るものを魅了し、見ることの喜びを十分に感じさせるものだが、物語自体はせつない短編小説のような、小じゃれた映画館で単館公開されている映画を思い起こさせるようなストーリーなのだ。それだけ分かりやすい話といっても良いだろう。
 ラストシーンは特筆に価する。3人の男女に加え、そこにはシャオ・リンが生んだピエールの子どもも乳母車に乗って登場するのだが、その別れのシーンが3パターンにわたって反復される。それは言葉に書いてしまえばそれまでのことという程度のことかもしれないが、そこにはある種の価値観の転換と発見があって、観客に驚きをもたらすのだ。快哉を叫んだ人もいるに違いない。
 その他、ポスターやパンフにも使用されているいくつものビジュアルなシーンが実際の舞台上に現れて、この舞台を忘れえぬものとしているようだ。

 さて、続いて20日に同劇場で観たのが、「フェスティバル/トーキョー10」の演目の一つ、クリストフ・マルターラー演出の「巨大なるブッツバッハ村―ある永遠のコロニー」だ。
 アンナ・フィーブロックの舞台美術が強烈な存在感を印象づける。それは秩序の崩壊であり、あるべきものがそこにはなく、ありえないものがそこにあることの居心地の悪さであり、空虚さの充満であり、バランスの喪失である。
 「ブルードラゴン」がいわば従来の「演劇」という枠組みのなかでの表現であったのに対し、この舞台では、台詞、音楽、俳優の動作、コミュニケーションといった演劇を成り立たせているはずの要素がことごとく解体されているかのようなのだ。
 それはリーマン・ショック以降の経済破綻により危機に瀕した世界の有り様でもあるが、この世界を支えていたたがが外れてしまったような奇怪なおかしみと哀しみに満ちている。
 その仕掛けは批評性にあふれているが、それをマルターラーは類まれなユーモアによって表しているのである。
 その受容は観客に委ねられている。