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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

千里眼の女

2009-10-31 | 演劇
 もう2週間も前のことになるけれど、劇団青年座の「千里眼の女」を紀伊国屋ホールで観た。
 作:齋藤雅文、演出:宮田慶子。装置をにしすがも創造舎のさまざまな舞台でおなじみの伊藤雅子が担当している。
 約100年前に起きたいわゆる「千里眼事件」を描いた作品であるが、プログラムから一部引用しつつ紹介するとそのあらすじはおおよそ次のようなものだ。

 明治43年熊本県、有明海に臨む小さな町の医家に生まれた御船千鶴子(勝島乙江)は幼いころから不思議な透視能力があり、「千里眼」と言われていた。
 実際、石炭鉱脈を発見するに及び千鶴子の噂は広まり、東京帝国大学で心理学の研究をしていた福来友吉(檀臣幸)にもこの話がもたらされた。
 科学という全能の力による千里眼の解明。
 気難しく人見知りの千鶴子だったが、科学者としても、人間としても誠実な福来の情熱に心を動かされ、東京での実験に同意する。
 一方、新聞各社は競い合ってこの話題をスキャンダラスに取り上げ、大衆を熱狂へと導いていった。
 新聞が競うように千里眼を報じるなか、新たな超能力者が全国に現れ始める。「千里眼の幼児」(名古屋新聞)、「岡崎にも千里眼」(新愛知)、「千葉にも千里眼」(報知)・・・。
 しかし、千里眼に否定的なメディアと好意的なメディアの報道合戦は次第に過熱し、論争・反目へと発展。カネ目当てのニセ千里眼の横行などもあって、ブームは次第に醜聞にまみれた事件へと化していく。
 千里眼を否定する決定的な新聞報道が出たその翌日、御船千鶴子は服毒自殺する・・・。

 以上はこの芝居の単なる沿革でしかないが、複雑かつ奥行きのある舞台の案内人であり語り部としての役回りを演じるのが、福来と千鶴子の近くにあって二人を公正かつ好意的に見続けた万朝報社の記者・橘四郎(蟹江一平)である、という設定になっている。
 この芝居のテーマは、おおよそこの橘四郎が発する台詞のなかに込められていると言ってよいのだろう。
 作者の齋藤雅文氏はこの作品の題材について「科学と宗教、真実とは、報道とは、国家による教育とは・・・」と書いており、この舞台が創られるうえでの問題意識がそこにあったことをうかがわせる。

 盛り沢山の内容で、通常その筋書きの紹介に終始しそうなこの舞台を演出の宮田慶子は丁寧に処理しながら、たっぷりとした見せ場を作っている。
 その第一が、千鶴子が福来に寄せる恋情の表出場面であるが、その淡い気持ちは伝わるようで伝わらない。そのもどかしさが「劇」的な表現となっているところが腕の見せ所であり、青年座という新劇の劇団の実力を示したといえるように思う。
 それは実に微妙で微細な表現によって緻密に構築された世界なのだ。それはあまりにはかなく幽かであるがゆえに、暴力的な報道の力や世の中の大きな声によってかき消されてしまう真実の弱さを際立たせるようだ。
 この場面、千鶴子と福来を演じる二人の俳優はほとんどささやくような声で語り合うのだが、小劇場とはいえ、400人規模のホールの奥にまで芝居を伝えるその技術は、アングラ俳優の私にとって新鮮な驚きでもある。

 それにしても、何もかもを見透かすかと思える「千里眼」を題材とした芝居のテーマが、人の気持ちの伝わらなさであったり、過熱報道の挙句に真実が見えなくなったりするというパラドックスは極めて皮肉である。
 そこにこそこの作品の面白さはあるように思える。
 そしてそのテーマは、この数十年の間に繰り返し現れた超能力ブームなるもの、オウム真理教に代表される科学と宗教の相克がうみだした奇怪な暴力、あの戦争へと人々を駆り立てた理不尽な力や迷妄、そして昨今の政治状況にもそのまま直結しているようだ。