2006年3月13日、宇野首座主教は日本聖公会各教会教役者及び同各神学校校長宛に文書を送付されました。その前半部は、京都教区主教高地主教からの定期主教会宛の報告でした。そして、後半部は主教会がこれから歩もうとしている道を証言しています。
「当該牧師は2005年に辞職したが、今なお事実をほとんど否認しているため、教区主教は、教会的な和解が成立したと認められるまで、牧会的な指導の意味で『陪餐停止』とすることを当人に通告した。関係者に明確な謝罪を行うよう今後も当人に求めていく」
高地主教の報告の最後の部分ですが、実に曖昧なものでしかないのではなでしょうか。「教会的な和解が成立したと認められるまで」とあるのですが、この教会的和解というのが、具体的には何を指しているのかまったく判りません。おそらく、主教会の中では共通理解があると思われるのですが、しかし主教会構成員以外の人々にとっては、その具体的な内容は何一つ判りません。主教会はそのことを判っていながら、首座主教の名前でこの文書を公にされたのでしょうか。それとも、主教会は既に「教会的な和解」の内容は周知のことであると判断されていたのでしょうか。
また、「牧会的な指導の意味で『陪餐停止』とする」と高地主教は述べていらっしゃいますが、日本聖公会法規第201条にある聖職の陪餐停止は、同条5.によれば、あくまでも「職務の一部執行停止または停職の懲戒を受けた聖職」に対する付帯事項でしかありません。同第197条で「日本聖公会に所属する教役者または信徒は、この法規その他の日本聖公会の法規に基づく審判廷の審判によらなければ、懲戒されない。」とあるのですが、同第203条では、懲戒の具体的なものとしてとして「陪餐の停止」が記されています。だとすれば、「牧会的な指導の意味で」の陪餐停止自身は明らかに懲戒の一部であると考えざるを得ないと思われます。なぜなら、「牧会的な指導の意味の陪餐停止」という言葉は、日本聖公会法規には見受けられないからです。
つまり、陪餐停止は、日本聖公会法規に照らし合わせて考えれば、準強制わいせつという違法行為をした司祭に対する懲戒であったはずであるということです。にもかかわらず、「牧会的な指導の意味の陪餐停止」という言葉が平然と素通りしてしまっていることに対して、大きな疑問を抱かざるを得ません。ところが、前述のように、こうした懲戒はすべて、審判廷が裁定しなければならないことが同第197条に明記されているわけですから、この陪餐停止処分はその効力を持っていないのではないでしょうか。
あるいは、この文書に好意的な視点から考えて、主教の独自の判断として陪餐停止という指導をしたとしても、それが指導である限り、H司祭が何らかの形で陪餐したとしても、主教権限でH司祭を裁くことは出来ないのではないでしょうか。
また、後段においてこの文書は「主教会はこの事態を重く受け止め、被害者とご家族の尊厳が回復され、一日も早く心の傷が癒されますよう願い、京都教区の聖職団と共にまことの悔い改めに至ることをできるよう神の導きを祈り求めます。」と書き始めて一らっしゃいますが、聞くところによりますと、この文書が出された後も「京都教区に任せてありますから」という発言をした主教がいらっしゃるようですが、もしそれが事実であるとすれば、明らかにこの文書に対して逆行した発言であるように思えるのですが、如何でしょうか。また、続けて、「長年に渡って被害者を苦しめ、なおかつ聖職等が適切に対応しなかったことによって苦しみを更に増し加えたことは、日本聖公会の信徒の皆様に困惑と失望を与え、キリスト教界全般の信用傷つけてしまうことになっりました。このことにつきまして、私たちは日本聖公会の聖職団を代表して、日本聖公会内外の皆様に深くお詫びいたします」とも述べられていますが、日本聖公会外に対してこの文書は送付されているのでしょうか。少なくとも、この文書の宛先は「日本聖公会各教会教役者及び同各神学校校長」にしかなっていません。つまり、日本聖公会に属する信者や他教派の教会に対する文書ではないということになります。「日本聖公会内外の皆様に深くお詫びいたします」と書かれているにもかかわらず、宛名は「日本聖公会各教会教役者及び同各神学校校長」でしかないという矛盾はどう説明されるのでしょうか。
これは重大な問題で、他教派の教会に属している人々がこの問題に対して声をあげていることについて、虚偽のことを記されたり、他教派の人々を排除しようとする発言が聞こえてきたりしていました。「日本聖公会内外の皆様に深くお詫びいたします」という言葉の内容とはまったく異なっていますが、このことをどうお考えなのでしょうか。
そしてこの文書は次のように結んでいます。
「この書簡の意図するところをお酌み取りいただきまして、各教会の牧師、神学校校長の皆様の牧会的ご配慮の下に信徒、神学生の方々にお伝えいただきますようお願いいたします。」
「私たちは日本聖公会の聖職団を代表して、日本聖公会内外の皆様に深くお詫びいたします」と謝罪しておきながら、そしてこの文書は日本聖公会内の教役者や神学校の校長にしか送付されていないのですから、この謝罪は、日本聖公会内の教役者や神学校の校長にしかなされていないことにはならないでしょうか。
『キリスト新聞』の取材記事や裁判記録閲覧レポートが事件の内容やそれに対する京都教区の対応を詳細に伝えてはじめてもまだ、日本聖公会としてこの事件とそれに対する対応の稚拙さを解明しようとする動きが見られません。
「主教会はこの事態を重く受け止め、被害者とご家族の尊厳が回復され、一日も早く心の傷が癒されますよう願い、京都教区の聖職団と共にまことの悔い改めに至ることをできるよう神の導きを祈り求めます。」という後段の文言は、今からすれば正に、世間体を取り繕おうとしたものでしかないように思えます。
ことは、現職司祭による準強制わいせつであり、しかも被害者は12歳以下の時から長年にわたって準強制わいせつをされていた事件です。にもかかわらず、この文書には事件に対する認識が極めて甘いものであることを露呈しています。おそらく主教会の構成員は誰一人として裁判を傍聴したり、あるいは裁判記録を閲覧していない、ということが明らかになっています。
別の観点からすれば、主教会ご自身がこの事件に関して事実を知ろうとする努力をせずに、他だ一方的にこの事件を隠蔽しようとしているとしか思えません。使徒継承は人間的な権威を継承するものなのでしょうか、それとも聖書と教会の伝承による主イエス・キリストの福音が正しく継承されるためのものなのでしょうか。
「この書簡の意図するところをお酌み取りいただきまして、各教会の牧師、神学校校長の皆様の牧会的ご配慮の下に信徒、神学生の方々にお伝えいただきますようお願いいたします。」という結びの言葉は、「牧会的配慮」によってあまり広めないようにということにならないでしょうか。もしそうだとしたら、被害者とそのご家族が望んでいらっしゃる和解への道程とは、まったくかけ離れたもののように思えてしまいます。
この文書が送付されてから、既に1年3ヶ月を経ています。
主の平安
「当該牧師は2005年に辞職したが、今なお事実をほとんど否認しているため、教区主教は、教会的な和解が成立したと認められるまで、牧会的な指導の意味で『陪餐停止』とすることを当人に通告した。関係者に明確な謝罪を行うよう今後も当人に求めていく」
高地主教の報告の最後の部分ですが、実に曖昧なものでしかないのではなでしょうか。「教会的な和解が成立したと認められるまで」とあるのですが、この教会的和解というのが、具体的には何を指しているのかまったく判りません。おそらく、主教会の中では共通理解があると思われるのですが、しかし主教会構成員以外の人々にとっては、その具体的な内容は何一つ判りません。主教会はそのことを判っていながら、首座主教の名前でこの文書を公にされたのでしょうか。それとも、主教会は既に「教会的な和解」の内容は周知のことであると判断されていたのでしょうか。
また、「牧会的な指導の意味で『陪餐停止』とする」と高地主教は述べていらっしゃいますが、日本聖公会法規第201条にある聖職の陪餐停止は、同条5.によれば、あくまでも「職務の一部執行停止または停職の懲戒を受けた聖職」に対する付帯事項でしかありません。同第197条で「日本聖公会に所属する教役者または信徒は、この法規その他の日本聖公会の法規に基づく審判廷の審判によらなければ、懲戒されない。」とあるのですが、同第203条では、懲戒の具体的なものとしてとして「陪餐の停止」が記されています。だとすれば、「牧会的な指導の意味で」の陪餐停止自身は明らかに懲戒の一部であると考えざるを得ないと思われます。なぜなら、「牧会的な指導の意味の陪餐停止」という言葉は、日本聖公会法規には見受けられないからです。
つまり、陪餐停止は、日本聖公会法規に照らし合わせて考えれば、準強制わいせつという違法行為をした司祭に対する懲戒であったはずであるということです。にもかかわらず、「牧会的な指導の意味の陪餐停止」という言葉が平然と素通りしてしまっていることに対して、大きな疑問を抱かざるを得ません。ところが、前述のように、こうした懲戒はすべて、審判廷が裁定しなければならないことが同第197条に明記されているわけですから、この陪餐停止処分はその効力を持っていないのではないでしょうか。
あるいは、この文書に好意的な視点から考えて、主教の独自の判断として陪餐停止という指導をしたとしても、それが指導である限り、H司祭が何らかの形で陪餐したとしても、主教権限でH司祭を裁くことは出来ないのではないでしょうか。
また、後段においてこの文書は「主教会はこの事態を重く受け止め、被害者とご家族の尊厳が回復され、一日も早く心の傷が癒されますよう願い、京都教区の聖職団と共にまことの悔い改めに至ることをできるよう神の導きを祈り求めます。」と書き始めて一らっしゃいますが、聞くところによりますと、この文書が出された後も「京都教区に任せてありますから」という発言をした主教がいらっしゃるようですが、もしそれが事実であるとすれば、明らかにこの文書に対して逆行した発言であるように思えるのですが、如何でしょうか。また、続けて、「長年に渡って被害者を苦しめ、なおかつ聖職等が適切に対応しなかったことによって苦しみを更に増し加えたことは、日本聖公会の信徒の皆様に困惑と失望を与え、キリスト教界全般の信用傷つけてしまうことになっりました。このことにつきまして、私たちは日本聖公会の聖職団を代表して、日本聖公会内外の皆様に深くお詫びいたします」とも述べられていますが、日本聖公会外に対してこの文書は送付されているのでしょうか。少なくとも、この文書の宛先は「日本聖公会各教会教役者及び同各神学校校長」にしかなっていません。つまり、日本聖公会に属する信者や他教派の教会に対する文書ではないということになります。「日本聖公会内外の皆様に深くお詫びいたします」と書かれているにもかかわらず、宛名は「日本聖公会各教会教役者及び同各神学校校長」でしかないという矛盾はどう説明されるのでしょうか。
これは重大な問題で、他教派の教会に属している人々がこの問題に対して声をあげていることについて、虚偽のことを記されたり、他教派の人々を排除しようとする発言が聞こえてきたりしていました。「日本聖公会内外の皆様に深くお詫びいたします」という言葉の内容とはまったく異なっていますが、このことをどうお考えなのでしょうか。
そしてこの文書は次のように結んでいます。
「この書簡の意図するところをお酌み取りいただきまして、各教会の牧師、神学校校長の皆様の牧会的ご配慮の下に信徒、神学生の方々にお伝えいただきますようお願いいたします。」
「私たちは日本聖公会の聖職団を代表して、日本聖公会内外の皆様に深くお詫びいたします」と謝罪しておきながら、そしてこの文書は日本聖公会内の教役者や神学校の校長にしか送付されていないのですから、この謝罪は、日本聖公会内の教役者や神学校の校長にしかなされていないことにはならないでしょうか。
『キリスト新聞』の取材記事や裁判記録閲覧レポートが事件の内容やそれに対する京都教区の対応を詳細に伝えてはじめてもまだ、日本聖公会としてこの事件とそれに対する対応の稚拙さを解明しようとする動きが見られません。
「主教会はこの事態を重く受け止め、被害者とご家族の尊厳が回復され、一日も早く心の傷が癒されますよう願い、京都教区の聖職団と共にまことの悔い改めに至ることをできるよう神の導きを祈り求めます。」という後段の文言は、今からすれば正に、世間体を取り繕おうとしたものでしかないように思えます。
ことは、現職司祭による準強制わいせつであり、しかも被害者は12歳以下の時から長年にわたって準強制わいせつをされていた事件です。にもかかわらず、この文書には事件に対する認識が極めて甘いものであることを露呈しています。おそらく主教会の構成員は誰一人として裁判を傍聴したり、あるいは裁判記録を閲覧していない、ということが明らかになっています。
別の観点からすれば、主教会ご自身がこの事件に関して事実を知ろうとする努力をせずに、他だ一方的にこの事件を隠蔽しようとしているとしか思えません。使徒継承は人間的な権威を継承するものなのでしょうか、それとも聖書と教会の伝承による主イエス・キリストの福音が正しく継承されるためのものなのでしょうか。
「この書簡の意図するところをお酌み取りいただきまして、各教会の牧師、神学校校長の皆様の牧会的ご配慮の下に信徒、神学生の方々にお伝えいただきますようお願いいたします。」という結びの言葉は、「牧会的配慮」によってあまり広めないようにということにならないでしょうか。もしそうだとしたら、被害者とそのご家族が望んでいらっしゃる和解への道程とは、まったくかけ離れたもののように思えてしまいます。
この文書が送付されてから、既に1年3ヶ月を経ています。
主の平安