いいたい放題

 右でも左でもない風来坊が、社会・経済・政治などの問題について、
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御衣に触れなば

2007-06-23 | Weblog

 マタイ福音書9章19節~22節
 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たち
も一緒だった。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いてい
る女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この
方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気に
なりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女
は治った。


 退院する時というのは、何とも言いしれぬ想いになります。
 「治って出ていくのだから、何故‥‥‥」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、本当に辛いものがあります。隣のベッドに寝ていらっしゃる方々、足下の反対側にいらっしゃる方々、皆さんの顔にある種の憂いが見えてしまうと、不思議な想いに駆られます。

 「そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て」
 12年間、ずっとずっと病み続けていらっしゃったのでしょう。彼女は何としてでも治りたいと思い、様々な治療を受けていたかもしれません。しかし、彼女は12年間、この病の中で苦しんでこられたのです。「出血が続いてい」たと記されています。ご婦人にとっては、重い重い病だったと思われます。誰にも話すことが出来ません。誰もこの病のことを癒すことが出来る医師を知りません。
 時の流れがいたずらに過ぎていくように見えたかもしれません。

 そして彼女は、人々から噂を聞いていたのでしょうか、病を癒すことの出来るお方が偶然に目の前を歩いてこられたのです。彼女は恐る恐る主イエスの身元に近寄りました。この時のことをルカ福音書は次のように記しています。

 この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、
その長血がたちまち止まってしまった。イエスは言われた、
「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自分ではない
と言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲んで、
ひしめき合っているのです」と答えた。しかしイエスは言われ
た、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行った
のを感じたのだ」(ルカ福音書8章44節~46節)

 驚きです。途轍もない驚きです。
 主イエスが気が付いていらっしゃらない、主イエスが見てもいない一人の婦人が、主イエスの後ろから近寄って、その御衣に触れたにもかかわらず、病が癒されているのです。主イエスは言い給いました。
 「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ。」
 この婦人を主がお招きになったのでもありません。
 この婦人を主がご存知だったわけでもありません。
 人々もこの婦人が病を背負っているということを知りません。
 彼女は身を隠すようにして、主イエスの後ろから近づいて、主におすがりしたのです。「もうこのお方にしか癒されるところはない。」彼女はそう思っていたのでしょう。

 マタイ9章22節
 「イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、
元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』その
とき、彼女は治った。」
 マタイとルカとでは治った瞬間が異なっています。おそらく、この奇跡物語が伝わっていく過程で順序が入れ替わったものであろうと思われます。言い換えれば、癒しがいつであったかは問題ではないということです。大事なことは、誰もが知らないこのご婦人が主の御衣に触れることによっていやされたという事実です。そして、この出来事は「ある指導者」の娘さんが亡くなられて、そこへ主イエスが行こうとされている道すがらでの出来事です。

 教会はいつも、この主イエスを人々に伝えていかなければなりません。
 この指導者は、この主イエスの癒しの御業を止めていません。自分の娘を早く死から救い出して欲しいと願いながらも、主イエスを自分の家に駆り立てようとしていません。

 主なる神よ
 あなたの御子主イエス・キリストの御業を感謝いたします。
 あの主を、私たちも人々に伝える信仰をお与え下さい。
 主イエス・キリストの御名によって、アーメン。