今回は、音楽記事です。
このカテゴリーでは、先日、山田パンダさんについて書きました。
そこでは、パンダさんの芸歴に関わってきたミュージシャンたちのことを書きました。そこでは書きませんでしたが……もう一組、パンダさんとは浅からぬ縁を持つ重要なフォークグループが存在します。
それは……ザ・リガニーズ。
ということで、今回はこのザ・リガニーズについて書こうと思います。
ザ・リガニーズというのはふざけた名前ですが、日本フォーク草創期を代表するグループの一つであり、彼らの代表曲「海は恋してる」は、フォークごく初期のヒット曲として記憶されています。
山田パンダさんとの縁は、たとえば所太郎さん。この方は、パンダさんが在籍していたシュリークスのメンバーでもありました。
あるいは、ベースの内山修さん。この方は、前回紹介したパンダさんの「明日の恋人」で、ムーンライダーズとともに編曲を手がけているということです。
パンダさんとの縁ということを別としても、ザ・リガニーズのメンバーは後のフォークシーンのあちこちに顔を出しています。
なかでもよく知られているのは、新田和長さんでしょう。
この方は、プロデューサーとしてフォーク~ニューミュージックにおける多くのアーティストを手がけてきました。その仕事リストにはチューリップ、甲斐バンド、オフコース、長渕剛……とビッグネームが並びますが、そのなかにあって忘れてならないのは、RCサクセション。RCはデビュー当初はフォークトリオだったわけですが、その時期に新田さんをプロデューサーに迎えていました。忌野清志郎は、スタジオで「海は恋してる」を歌ってからかったりしてたそうですが……
また、ザ・リガニーズのメンバーのうち二人は、吉田拓郎さんのバックバンドから発展した猫に参加……と、後のフォークの発展にさまざまなかたちで寄与しています。内山修さんが山田パンダさんの作品に参加しているというのもその一環でしょう。
「戦争は知らない」は、フォークの名曲です。
作詞が寺山修司――ということで、本来ならば前にやっていた寺山修司シリーズで紹介するべきだったかもしれません。
Senso Wa Shiranai
その寺山修司ですが、歌謡曲というものについてこんな言葉を残しています。
歌謡曲というのは個的にはきわめてアナーキーなものです。それが集団化したときには――アナーキズムというのはすれすれのところですぐファシズムと通底する要素をもっていて――それが歌謡曲の本来的な性格である。
これは、寺山修司の慧眼といえるでしょう。
「ファシズムとは暴力による無政府主義だ」といったのはパゾリーニですが、それを本邦音楽業界にあてはめてみると、寺山修司の先の分析が出てくるのかもしれません。
フォーク、ロックといったジャンルを呑み込んで歌謡曲化させていく力について、このブログでは何度も書いてきました。つまりは、そういうことでしょう。
別に歌謡曲が悪いというわけではない――と、これまでこのブログで日本の音楽について書くときに私は何度もそういう言い回しをしました。
そうなんです。
個々の歌としてみれば、歌謡曲自体は悪くない。
けれど、それが歌謡曲として多くの人に親しまれるようになると、そこにある種の全体主義性が顔を出してしまう……そこが私は気に食わないのです。
フォークやロックといった音楽は、本来はそれに抗う力を持ち、抗うことを本分とする音楽であるはずでした。ところが、歌謡曲のもつ全体主義性は、フォークやロックも呑み込んで歌謡曲化してしまう……
寺山修司は、そうした「歌謡曲の本来的な性格」に自覚的であることによって、歌謡曲に取り込まれることを回避するクレバーさを持っていたのだと思います。ゆえに、音楽界に多くの詞を提供していながら、そのなかに“歌謡曲”と呼べるものはほとんどありません。
フォークの曲に多いわけですが、それは寺山がフォークに詞を提供したのではなく、寺山が詞を提供したからフォークなのです。
フォークが、まだ歌謡曲にからめとられずにいた草創期……そんな時代に活動していたザ・リガニーズだからこそ、寺山作詞の「戦争を知らない」がレパートリーにあるということでしょう。
もう一度新田和長さんの話に戻ると、この方は後に自らいくつか音楽会社を設立していて、そのうちの一つに「フールオンザヒル」というのがあります。
この名は、いうまでもなくビートルズの
Fool on the Hill
からとったものでしょう。新田さんを音楽業界に誘ったのは日本におけるビートルズの仕掛け人といわれる高嶋弘之さんだそうですが、そういったことも関係があるでしょうか。
Fool on the Hill という歌は、以前一度このブログで紹介しました。一説にはガリレオ・ガリレイをモチーフにしているともいい、“新陳代謝”を体現する歌だ――と書きました。
フールオンザヒルという会社名にどういう意味が込められているのかというのは想像するよりほかありませんが、あるいは、そういうガリレオ・ガリレイ的な意味合いもあるのかもしれません。世間が持つ重力というか、空気というか、そういったものに抗う力……フォークやロックは、そういう力を持っていてほしい。まあ、日本の音楽業界の歴史をたどってみれば、ちょっと心もとない感じはしてくるわけなんですが……