ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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The Offspring, The Kids Aren't Alright

2019-01-05 22:39:37 | 音楽批評
今回は、音楽記事です。

新年一発目となる音楽記事は……ずばり、オフスプリングでいこうと思います。

なぜオフスプリングかというと……
そう、彼らはいま、日本公演のために来日してるんですね。
今月中に、大阪、名古屋、東京をまわることになっていて、タイムリーなアーティストというわけなんです。

一応、簡単な紹介を。

オフスプリングは、以前紹介したエピタフともつながりがあるハードコアパンクバンドです。

みずからNitro というレーベルを主宰するなど、その振る舞いはまさにハードコアといっていいでしょう。Nitro というレーベル名は火薬的なものを想起させますが、このきな臭い感じもまた、ハードコアならでは。バッド・レリジョンのKeroseneなんかを思い出しますね。
バンド名のOffspring は、「子孫」といった意味の単語ですが、ここには、ロックから生まれて次のステージに行く存在……といった意味が込められてるんだそうです。このネーミングにも、過去の権威を否定するパンク/ハードコア的な感じが出ています。

The Kids Aren't Alright は、こんな歌です。




歌詞の一部を抜粋して紹介します。


  俺たちが若かったころ 未来は明るかった
  町には活気があって
  通りのキッズたちはみんな
  打ちのめされることなんてないと思ってた
  
  いま、町は引き裂かれてしまってる
  キッズたちは大人になったけど
  人生に疲れきってる
  一つのちっぽけな通りが
  こんなにも多くの人生を呑み込んでしまうなんて  
  
  チャンスは投げ捨てられ
  カネを払わずに得られるものはなにもない
  かつての姿に戻ろうとしても
  それは難しい
  こわれものの人生 錆びついた夢 


The Kids Aren't Alright というタイトルは、フーの The Kids Are All Right を思い出させます。

ここで歌われるのは、「現実というもっとも残酷な夢」の前に打ちのめされていくキッズたちの姿でしょうか。
フー的な無軌道と現実との葛藤……それが、90年代という時代を背景に、シャープに表出しているようです。
くたびれ、打ちひしがれた感じは、かつてはある程度社会に共有されていた理想像が潰え去ったアメリカを告発しているようです。

実際のところオフスプリングは、パンク/ハードコアの反権力的な姿勢もしっかり継承してます。たとえば、LAPDという歌ではこう歌います。


  LAの街は監獄みたい
  ヘリが頭上を飛び 銃弾がかすめていく
  戒厳令は解決にならない
  警官の暴力はただの社会的害悪だ

  黒人たちを叩きのめせ
  目につくやつは誰でも叩きのめせ
  理由なんかいらない
  それがLAPDさ


LAPDというのは、警察の「ロサンゼルス署」みたいな意味ですが、威圧的な警察をこんなふうに批判しているわけです。
一応念のためにことわっておくと「叩きのめせ」という部分は、以前このブログでも書いた、批判する相手になり切って歌うロック語法。英語詞では nigger という差別的ともとれる単語を使っていますが、別に黒人を差別しているわけではありません。「クズの白人を叩きのめせ」と歌っている部分もあります。
戒厳令云々というのは、以前このブログで紹介した映画『マーシャル・ロー』を思い起こさせます。
英語詞では、そのまま martial law という言葉を使ってます(ただし、映画の『マーシャル・ロー』の原題はmartial law ではない……ややこしい)
やっぱり、そういう問題意識とつながっていくわけですね。
新自由主義のもとにおける格差の拡大、付随的に起きる社会の分断、不満分子に対する体制の抑圧的傾向……それら混然一体となった時代の空気を、パンクスは告発せずにいられません。
自由を侵そうとする権威に対する抵抗……先に書いたことと矛盾するようですが、そこは、世代を超えてロックという音楽に通底するもので、ロックにおける不易の部分だと思うんです。ジョー・ストラマーがいうところの、スタイルではなくてアティチュードに属するところというか……そういう意味では、オフスプリングは“正統派”でもあるわけでしょう。
残念ながら私は彼らの来日公演に参戦することはできませんが、オフスプリングには、そのアティチュードをガツンと日本に注入してもらいたいなと思います。

ファイナルファンタジー・タクティクス

2019-01-03 16:16:50 | ゲーム
どうも。
村上暢です。

突然ですが、新年を機に、このブログもなにか新しいことを始めようと思いました。

ということで……
新たなカテゴリーとして、「ゲーム」を設置することにしました。
まあ、自分はそんなにゲーマーというわけでもありませんが、アニメのカテゴリーと同じように、自分が過去にハマっていたゲームについて書こうかなと。

で、その一段目として……『ファイナルファンタジー・タクティクス』というゲームについて書こうと思います。

一応、例によってのしりとりスタイルです。

先日このブログで、映画『ボヘミアン・ラプソディ』のことを書きましたが、その冒頭で流れていたのが、 Somebody to Love という曲でした。
じつは、『ファイナルファンタジー・タクティクス』は、この Somebody to Love が一つのモチーフになっているのです。



以下、ゲームの内容について書いておきましょう。

『ファイナルファンタジータクティクス』――略して、FFTは、ファイナルファンタジーシリーズの番外編ですね。

タクティクスとは、「戦術」の意味で、その名が示す通り、シミュレーションRPGゲーム。
箱庭状のマップでキャラを動かして、敵と戦うゲームになっています。そこが通常のRPGとは違うので、番外扱いになっているということでしょう。
ストーリーに沿ってバトルが発生するのとは別にランダムエンカウントバトルもあり、そこでキャラクターを成長させていくことができます。キャラを成長させることでアビリティを身につけ、また、だんだんと高位のジョブにチェンジさせていくことができます。

私は、結構このゲームにはまってました。
発売当初もそうでしたが、それから二十年近く経った頃に、ふとやりたくなってまたやってみたんですが、やはり十分に楽しめました。

高度に構築されたジョブシステムで、どこまでもやりこめる自由度の高さが、なんといってもこのゲームの魅力です。
習得したアビリティを組み合わせて、自分なりのキャラをカスタマイズしていく面白さは、『FF5』のジョブシステムをさらに高度に進化させたものといえるでしょう。

そんなのありかよ、という無茶苦茶な技を敵キャラが使ってくるんですが、こちらはさらにその上をゆく無茶苦茶なアビリティを身につけてねじ伏せていく……というのが楽しみでした。

濃密なストーリーもまた、歴代FFにひけをとらないものでした。
名家に生まれた青年が、王位をめぐる争いに巻き込まれながら、その背後にひそむ邪悪な陰謀に立ち向かう物語。王道のファンタジーと、高度な政治劇……その物語性は、『FF4』にも匹敵するかもしれません。

先述したとおり、クイーンの Somebody to Love のイメージがあって、ゲーム最終章のタイトル「愛にすべてを」も、その邦題からとられています。
どのあたりがつながっているのかというのはネタバレになるので伏せておきますが、ゲームのラストについても、いろいろな議論を呼びましたね。

難点をあげるとすれば、ゲームバランスでしょうか。
シドが出てきたところでゲームバランスが一気に崩壊するとか、キャラを鍛えすぎると、どんな敵でも瞬殺できるようになってしまうとか……ランダムエンカウントの敵は、こちらのレベルが上がると相手もレベルが上がる仕様になってるんですが、ガチガチに自キャラを鍛え上げると、どんな強い敵でもほとんど無傷で勝てるようになってしまいます。
密猟バグという有名なバグ(というかプログラムミス?)があって、これを使うとゲームバランスはさらに崩壊の一途をたどります。

しかしそこは、さまざまな縛りをセルフで導入することによって、自分なりに楽しむという工夫がなされています。特定のジョブや、アビリティ、アイテムを使わないようにするとか、5人まで出せるところを、それより少ない人数で戦うとか……そういうことですね。そんなふうにしてでも楽しみたいということで、このゲームが名作であるのは間違いないところでしょう。

ちなみに、先述した「議論を呼ぶ」ラストですが、その点については、発表から20年近く経って公式見解が出されました。
その間、PSP版や、スマホ版、また、続編タイトルがいくつか出ていたりもするようです。スマホ版なんかは、数年間に出ているようで……やはり、ある程度レジェンド的な扱いになっていないと、こんなふうにリメイクや移植はされないでしょう。
そういったこともまた、このゲームが名作であることの証ではないでしょうか。