今日は3月20日。
イラク戦争開戦の日です。
今から16年前の今日、アメリカはイラク戦争を開始しました。
去年は、地下鉄サリン事件とからめた記事を書きましたが、今年は、イラク戦争のほうについてもう少し詳しく書いておきたいと思います。
(文章中の肩書・役職などは、2002、3年当時のものです)
その当時の自分は、ちょうど大学卒業を間近に控えたところでしたが、開戦に対する反対運動が世界的に広がっていたのをおぼえています。日本ではそれほどでもなかったと思いますが、それでも全国の自治体で開戦に反対する決議が出されたりしていて、私の住んでいた東京の小金井市でも、たしかそういう決議をしていたと思います。
私自身も、開戦には反対でした。
大量破壊兵器云々というのがまず相当あやしいということは当時からいわれており、国連決議1441を開戦の根拠とするのは無理があるということも、さんざんいわれていました。
しかし、ブッシュ政権のもとで、アメリカはもう聞く耳持たぬという感じで開戦に突き進んでいきます。
サダム・フセイン政権を打倒し、イラクに民主的な国家をつくる――その構想をブッシュ大統領から聞かされたとき、ラムズフェルド国防長官は「無理があると思った」のだそうです。
無理があると思ったんなら、その場で止めたらよさそうなものですが、現実にはラムズフェルドさんはアメリカを開戦に引っ張っていきました。
結局大量破壊兵器はありませんでした。
というか、ないということは多分アメリカの首脳たちも薄々わかっていたはずです。
であればこそ、サダム・フセインはアルカイダとつながりがあるから「テロとの戦い」の延長だとか、独裁政権を倒してイラクを民主化するためだとか、そういうとってつけたような理由をいろいろと持ち出したのでしょう。
前者に関しては、実際には、サダム・フセインはアルカイダとつながりがあるどころか敵対関係にあり、それも間違い(というか、はじめからわかったうえでの嘘?)でした。その根拠となるテロ組織構成員の“証言”は、拷問によって“いわせた”ものであることも後にあきらかにされています。
後者に関しても、戦後処理のことをろくに考えずに開戦したために、サダム政権崩壊後にまともな政体を作ることができず、腐敗や縁故主義、宗派によるセクト主義が蔓延し、そこにテロリストのつけこむ余地が生まれ、イスラム国の台頭を許してしまいました。一年あたりの死者数ではサダム政権時代よりもひどいという調査結果もあり、サダム時代のほうがましだったという声も根強いといいます。
そもそもの発端である大量破壊兵器の件にしても、その有力な情報源とされた人物が、まったくのくわせものだったことが後にわかっています。“カーヴボール”と通称されるこの人物は、ごく個人的な怨恨という動機からアメリカの諜報機関に偽の情報を流し、開戦の口実を探していたアメリカがそれに乗っかったという構図があるのです。
こうして戦争を引き起こした結果、膨大な戦死者を出し、中東を不安定化させ、当のアメリカ自身も国際的な地位を相対的に低下させることになりました。
ばかげているとしかいいようがありません。
ここで、名曲を一曲。
ベタですが、ボブ・ディランの「風に吹かれて」です。
どれだけの銃弾が飛べばいいのだろう
それが永遠に禁じられるには
どれだけ彼らは顔をそむけて
見えないふりをし続けるのだろう
いくつの耳が必要なのだろう
人々の鳴き声が聞こえるようになるには
いくつの死が必要なのだろう
あまりに多くの人が死んだと気づくには
答えは友よ、風のなか――というのがこの歌の結びですが、ベトナム戦争の頃にこの歌が発表されてから、およそ半世紀。もうそろそろ気づいていなけりゃいけないんじゃないでしょうか。
イラク戦争開戦の日です。
今から16年前の今日、アメリカはイラク戦争を開始しました。
去年は、地下鉄サリン事件とからめた記事を書きましたが、今年は、イラク戦争のほうについてもう少し詳しく書いておきたいと思います。
(文章中の肩書・役職などは、2002、3年当時のものです)
その当時の自分は、ちょうど大学卒業を間近に控えたところでしたが、開戦に対する反対運動が世界的に広がっていたのをおぼえています。日本ではそれほどでもなかったと思いますが、それでも全国の自治体で開戦に反対する決議が出されたりしていて、私の住んでいた東京の小金井市でも、たしかそういう決議をしていたと思います。
私自身も、開戦には反対でした。
大量破壊兵器云々というのがまず相当あやしいということは当時からいわれており、国連決議1441を開戦の根拠とするのは無理があるということも、さんざんいわれていました。
しかし、ブッシュ政権のもとで、アメリカはもう聞く耳持たぬという感じで開戦に突き進んでいきます。
サダム・フセイン政権を打倒し、イラクに民主的な国家をつくる――その構想をブッシュ大統領から聞かされたとき、ラムズフェルド国防長官は「無理があると思った」のだそうです。
無理があると思ったんなら、その場で止めたらよさそうなものですが、現実にはラムズフェルドさんはアメリカを開戦に引っ張っていきました。
結局大量破壊兵器はありませんでした。
というか、ないということは多分アメリカの首脳たちも薄々わかっていたはずです。
であればこそ、サダム・フセインはアルカイダとつながりがあるから「テロとの戦い」の延長だとか、独裁政権を倒してイラクを民主化するためだとか、そういうとってつけたような理由をいろいろと持ち出したのでしょう。
前者に関しては、実際には、サダム・フセインはアルカイダとつながりがあるどころか敵対関係にあり、それも間違い(というか、はじめからわかったうえでの嘘?)でした。その根拠となるテロ組織構成員の“証言”は、拷問によって“いわせた”ものであることも後にあきらかにされています。
後者に関しても、戦後処理のことをろくに考えずに開戦したために、サダム政権崩壊後にまともな政体を作ることができず、腐敗や縁故主義、宗派によるセクト主義が蔓延し、そこにテロリストのつけこむ余地が生まれ、イスラム国の台頭を許してしまいました。一年あたりの死者数ではサダム政権時代よりもひどいという調査結果もあり、サダム時代のほうがましだったという声も根強いといいます。
そもそもの発端である大量破壊兵器の件にしても、その有力な情報源とされた人物が、まったくのくわせものだったことが後にわかっています。“カーヴボール”と通称されるこの人物は、ごく個人的な怨恨という動機からアメリカの諜報機関に偽の情報を流し、開戦の口実を探していたアメリカがそれに乗っかったという構図があるのです。
こうして戦争を引き起こした結果、膨大な戦死者を出し、中東を不安定化させ、当のアメリカ自身も国際的な地位を相対的に低下させることになりました。
ばかげているとしかいいようがありません。
ここで、名曲を一曲。
ベタですが、ボブ・ディランの「風に吹かれて」です。
どれだけの銃弾が飛べばいいのだろう
それが永遠に禁じられるには
どれだけ彼らは顔をそむけて
見えないふりをし続けるのだろう
いくつの耳が必要なのだろう
人々の鳴き声が聞こえるようになるには
いくつの死が必要なのだろう
あまりに多くの人が死んだと気づくには
答えは友よ、風のなか――というのがこの歌の結びですが、ベトナム戦争の頃にこの歌が発表されてから、およそ半世紀。もうそろそろ気づいていなけりゃいけないんじゃないでしょうか。