むらぎものロココ

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パッション

2005-09-23 21:36:16 | 映画
passion「パッション」(passion)
1982年 スイス・フランス
監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
出演:イザベル・ユペール、ハンナ・シグラ、
イェジー・ラジヴィオヴィッチ、ミシェル・ピコリ
 
 
 
「カタストロフって何だ?」
「愛の詩のはじまり」

サルトルはフォークナーの小説にまやかしを見る。その手口は「言わないこと、隠していること、故意に隠していること、ほんのちょっぴりだけ言う手」であり、「要は照明の問題である」という。フォークナーは何ひとつ明らかにせず、すべてを読者の想像に委ねる。そしてサルトルは「行為と言葉の彼方に、空虚な意識の彼方に、人間は存在し、私たちは真のドラマを、一切を説明する一種の観念的性格の存在を予感」しながら読み、そこに一個の物体を見つける。(「それは物である。一個の物体=精神、意識の背後にある凝結した不透明な精神、暗黒にしてしかも本質は光明、これこそはまさに魔法的物体といえよう」)しかし、このような物体は本当は存在せず、これこそがまやかしなのだと断罪する

このように全てを明るみに出そうとして、そこからこぼれてしまうものをまやかしとして否定する見方からすれば、ゴダールの「パッション」もまやかしによって生み出されたものでしかないだろう。探し求められていた光がいつか錯綜する断片に差し込み、すべてを明るみに出すことを予感させながらも、そのときは遂に訪れることがなく、現象の世界に否定性をもって現れるロゴスが分かち合われることもなく、パトスが統合(sympathy)されることによるカタルシスも得られないまま、工場は倒産し、ホテルは売却され、映画は完成を放棄され、それらに関わった人々は四散してしまうという映画に、いったいどんな意味があるというのか。

ロラン・バルトは言う。
「どんな事実の上にも、この上ない瑣末なことにさえ、ある質問をかぶせようとする、絶えざる(そして錯覚的な)情熱(passion)がある。それは≪なぜ?≫という子どもの問いではなく≪それはどういう意味か?≫という古代ギリシアの問いであり、すべての事物は意味によって震えているはずだとでもいいたげな、意味についての問いである。事実を何が何でも、観念に、記述に、解釈に変形してしまわなければならないという、要するに、事実のために≪それ自身の名前とは違う別の名前を≫見つけてやらねば気が済まないのだ。」

「人は事実を非=意味化の状態にあえて放置しようとはしない。それは寓話の作用であり、寓話とは現実のどんな断片からも教訓を、ひとつの意味を引き出すものである。」

そしてバルトはそれとは逆向きの本の構想について記す。
「無数の「些細なできごと(incident)」を報告しながら、断じてそこから一筋の意味を引き出すことも差し控えるというものだ。それこそ正真正銘の≪俳句≫の本ではないか。」

passion は受難と情熱を意味し、ギリシャ語の pathos に由来する。リデル&スコットには calamity (不幸、災難)、 misfortune (不運)、 suffering (苦しみ)、 incident (できごと、事件)といった意味が記載されている。「パッション」には様々な不幸や災難、不運や苦しみがあるが、ここでは incident としてのパトスに注目したい。
ルクレティウスは「事件とは物資と空虚から生ずる結果で、物質のようにも空虚のようにも存在しない」と言った。このように、事件は断片と断片の間にあり、その都度意味の呪縛を逃れていくものである。エイゼンシュテインはそれを、つまりフィルムの断片と断片のはざまにおこる質的な飛躍を、彼の映画理論のなかで「パトス的構成」と呼ぶ。断続性と飛躍性が、観客を感動させエクスタシーへと導く力なのである。

ロゴスには言葉、比、尺度、定義、概念、思想、法則といった意味があり、ギリシャ語の中でも最も多義的な語の一つである。このロゴスは世界と同一ではなく、仮象の世界、現象の世界に対しては否定性として現れるが、その語根であるlegは集める、数える、繋ぐなどを意味し、それは一定の順序をもって集め、整理し、ある形をもって表出されるということである。ラテン語の ratio と結びついて人間理性の側に取り込まれたロゴスではなく、ヘラクレイトスのロゴス、つまり、万物の生成はロゴスに従っているのにも関わらず、人間にはわからない、気づかれないものとしてのロゴスがあるのである。絶対者による保証もなく、忘却と闇という脅威に常にさらされたものとしてのロゴス。ジュリア・クリステヴァであれば、こうした危機のなかで多元化され、無限に更新されるロゴス(ポリローグ)と呼ぶであろうロゴスがあるのである。

できごととしての諸断片をあるやりかたで集めて繋ぐこと。映画においてパトスとロゴスはこのように融合する。

ゴダールは言う。
「この映画の出発点となったアイデアのひとつは、民主主義というものだ。ぼくはこの映画のすべての要素を、どれも平等にとりあつかうことにした。〔……〕どの要素にも同等の重要性を与えようとした。一本の草にも、一陣の風にも、空の一片にも、主役の俳優に与えるのと同じくらいの重要性を与えようとしたわけだ。ごくありふれたものの偉大さを見つけ出そうとしたわけだ」

確かに「パッション」においては、映像、物音、音楽、台詞それぞれが拮抗している。そしてゴダールはハイフンとなり、現実と虚構、ドキュメンタリーとフィクション、男と女、光と闇、水と火、労働と愛、経営者と労働者、ヴィデオと映画、絵画と映画、天と地といったように、あらゆるものごとの間をつなぎ、それらが遭遇する場としての映画空間を作り出す。それは「嘘とは違う想像されたもの」であり、「真実ではないのにその逆でもないもの」であり、「外の現実からいつもかけ離れるほとんど深く計算された真実らしさ」である。

再現的模倣ではないイマージュの発生する場所としての映画。ニーチェ=ドゥルーズであればそれを力としてとらえるだろう。絶えず競いあう力同士の関係、そして差異。つねに内的な差異化を含み、自己同一性をかわして生成するものとして。このことはさらにヘラクレイトスへつながっていく。「反対するものが協調するのであり、相違するものから、最も美しい音律が生まれる。そしてすべては争いから生ずる」

ゴダールの映画は死と再生をくりかえす。ゴダールの映画にある痛ましさの感覚はまさにそこにある。しかし、それはイエスの受難ではなく、ディオニュソスの受難であり、それは生を、映画への愛を肯定する。
生成と多数性を肯定すること。ディオニュソスが八つ裂きにされ、手足がばらばらとなる状態に至るまで肯定すること。映像も音楽も台詞もズタズタになりながらも、この映画という存在そのものが苦悩を是認するほど十分神聖なのである。そして永遠に再生し、破壊から立ち帰るのである。

→ジャン=ポール・サルトル「フォークナーの『サートリス』」(「シチュアシオン1」人文書院所収)
→ロラン・バルト「それはどういう意味か?」(「彼自身によるロラン・バルト」みすず書房所収)
→ジュリア・クリステヴァ「ポリローグ」(白水社)
→ジャン=リュック・ゴダール「言葉への道」(「ゴダール全評論・全発言2」筑摩書房所収)
→ジル・ドゥルーズ「ニーチェ」(ちくま学芸文庫)
→フリードリヒ・ニーチェ「権力への意志」(河出書房)


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