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むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

特性のない男

2005-02-18 01:23:38 | 本と雑誌
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Robert Musil(1880-1942) 
 
ロベルト・ムージル「特性のない男」(松籟社)

●生体解剖保存法

「高度の厳密さと極端な分解、数学的な定式化の無限定の交換と、不定形なものあるいは定式化されないものの追求」
(ブランショ「来るべき書物」)

細分化するイロニー。

「思考は語を概念に分節する。そして結合している予感の塊を思考は分解する。それは細分化のイロニーである。われわれの戦術とは、いたるところで諸要素をばらばらにし、その各部分のどこにも、世界が再び現れるのを是が非でも回避することにある」
(ジャンケレヴィッチ「イロニーの精神」)

物体を諸要素に分解すること、現実を生体解剖すること。

ドゥルーズはそのべケット論「消尽したもの」において、先のブランショの一節を引用している。「一切の可能性を排除しないために何もしないこと、またそうすることによって一切の可能性を尽くしてしまう」べケットとムージルの交感。遠くにダンテのベラックヮがじっとうずくまっている。

可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)。
デュナミスとは力、強さを意味し、エネルゲイアは行為を意味する。アリストテレスにおいて運動(キネーシス)は可能態から現実態への移行であり、それは多様な可能性を持っている質料(ヒュレー)が一つの性質を現実に持つ、すなわち形相(エイドス)を得るということであり、こうしてそれは完成態(エンテレケイア)となる。可能態にとどまることは、特性を持たないままにとどまること、完成することを拒否するということだ。常に別の何かになりうる能力を担保するため「いまだ……ない」状態にとどまる。これがムージル的「力への意志」である。

「イロニー的人生とは、したがって純粋の否定であり、相対性である。それはどこにも停止せずに、個々の現実の間をさまよう。イロニーの富は、ある特定の像を選び取るのを拒否することにほかならない。イロニーは敵にも味方にも同じように悪戯をし、皆を裏切ったために、気紛れな行動をしながら、孤独で、痩せ衰え、醒めきっている」            
(ジャンケレヴィッチ 同上)

イロニーが陥る危険から逃れるためか、半ば唐突に現れる愛という主題。これによって、現実的なものに先立つ可能的なものに優位性を与えることが現実の浄化ともなり、ここに千年王国と呼ばれるユートピアが提示されることになる。イロニーが先鋭化し、あらゆる幻想を呵責なく嘲笑すればするほど、繊細なまでに愛の再生を支援する。
しかし、この愛が成就することはない。

「不思議だね、この瞬間にも多くの人間が生死を賭けて戦い、動物たちが互いに襲いあい、無数の活気ある仕事が営まれているんだからね」             
(ムージル「特性のない男」)


クレーの絵と音楽

2005-02-16 20:25:49 | 本と雑誌
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Paul Klee 
「肥沃な国の境界に立つ記念碑」1929
Monument an der Grenze des Fruchtlandes
 
ピエール・ブーレーズ「クレーの絵と音楽」(筑摩書房)

この本の原題は「肥沃な国」といい、パウル・クレーの絵に由来する。ブーレーズにとって、この絵との出会いは天啓のようなものであったらしい。この本は、ブーレーズがクレーについて語った三つの講演を基にして、彼の友人であったポール・テヴナンが編集したもの。
1950年代、現代音楽の世界では「全面セリー音楽」と「偶然性の音楽」との対立があり、ブーレーズはこの二つの立場の間で揺れ動きながら「管理された偶然」を主張するようになるが、そこに至る過程で彼に大きな影響を与えたのが、マラルメであり、クレーなのである。
ブーレーズはクレーの描く線や円について、カンディンスキーと比較しながら語る。カンディンスキーが定規をあてて引いたような完璧な線や円を持つならば、クレーの場合は歪みやねじれを持った、手で引かれた線や円であると言う。これは幾何学と幾何学からの逸脱を同時に獲得することであり、ブーレーズはそこに、規律を自らつくりながらも同時に自らで無秩序を導入して闘わせることから生まれるポエジーを、厳密な構造化と想像力のせめぎあいから生まれる新しい詩学を見い出す。
クレーの作品の題名は「肥沃な国の境界に立つ記念碑」という。境界とはどことの境界なのかと言えば、不毛の国ということになるだろう。対立する立場のどちらか一方にとどまる限り、我々は不毛の地にとどまることになる。全面セリー音楽はその厳格な法則性ゆえに、偶然性の音楽はすべてを偶然にゆだねるがゆえに、ともに自由意志による創造性を発揮しうる領域を見失ってしまう。だからこその「管理された偶然」であり、ブーレーズはこの自らの立場と同様の構造をクレーの作品および造形理論に見い出したがゆえに天啓のように思ったのだろう。時期的には「全面セリー音楽」の「ストリュクチュール」を作曲していた頃というから1950年頃だろうか。「管理された偶然」としての「ピアノ・ソナタ第3番」が作曲されたのは57年か58年頃、同じ頃には「プリ・スロン・プリ」も作曲された。
音楽とは異なる時間と空間の構造を持つ絵画という芸術について考えていくことは、音楽を考えるための思考形式をつくりあげていくということで、このことは絵画から受けた印象を音楽にするといったようなこと以上に、両方の芸術にとって有益なものだとブーレーズは言う。今のブーレーズはもう「管理された偶然」などは捨ててしまって久しいが、それはまた別の話。


散種(フルーツ盛合せ)

2004-12-09 02:55:21 | 本と雑誌
オノ・ヨーコ「グレープフルーツ・ジュース」(講談社文庫)

Cut a hole in a bag filled with seeds of any kind and place the bag where there is wind.


梶井基次郎「檸檬」 (instruction edit)

本を積み上げなさい
その上に檸檬をおきなさい
気詰まりな丸善がこっぱみじんになるところを想像しなさい