goo blog サービス終了のお知らせ 

もうひとつの部屋

昔の記憶に、もう一度会える場所にしようと思っています。

現実とつながれない朝

2025-06-04 09:22:02 | ひとりごと

朝、目が覚めて

なんとか起き出しても

「昨日のつづき」にならない…

そんな日が、今でもある。


べつにウツっぽいわけでもなく

気分がはっきり沈んだり

重力が急に大きく?なったりとか…

そこまでのことじゃないのはわかる。


でも、毎朝するようなこと、たとえば

台所をちょっと片づけたり

着替えて散歩に出ようと思ったり

そんななんでもないことが

まったく自分と関係ないようで…

昨日までしていたことが

自分からすっぱり切り離されて

知らない人の生活、人生?にしか

思えなくなるような感じ。


いつもはそういうときは

お天気が下り坂だから…とか

雨が振りそうだし…とか

気圧?のせいにしたりする。


なにか理由があった方が

自分の元気のなさを、自分に対しても

たとえば若い友人に対しても

説明しやすくなるから。


そういう説明があると

一旦、そのことを片づけられる。


で、いやいやながらも

ヨクワカラナイ「今日」を始められる。

 

そんなふうにして一日が始まる朝が

最近は増えてきた気がする。


でも……


昔のように、何倍にもなった重力に

のしかかられて床に圧しつけられ

身を起こせない… なんてことはなくなった。


見える「世界」と自分が

全く無関係になることもなくなった。



それらを思えば、これくらいのことは

ユルさなければ…


今日もそんなことを思いながら

やっと起き出すことができた(^^;

 

 



移った「はてな」はこちらです。

https://muma-muma.hateblo.jp/

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ブログを始めた理由、やめられない理由 

2025-05-25 14:28:16 | ひとりごと


最近たまたま過去記事を読み返したら

面白いのにオドロイタ。

自分で書いたのを、自分でオモシロイもないもんだけど

スラスラ読めて、どんどん次も読みたくなる(^^;


若い友人にそのことを言うと


「自分で書いたのは面白いよ。

自分で書いたんだから、よくわかるし」


面白くて当たり前といった顔の友人。


アナタも自分で書いたの読むことあるの?

と聞くと、ちょっと答えにくそうだったけれど

小さく頷いて、そのあと口早に言ったのは


「日記ブログなんて、絶対面白いはず。

そのときそのときで、何思ったかなんて

どんどん忘れてしまうのが普通なのに

後から読めるんだもんな~(笑)」

          

          

実はここまでは、2年前に書いたのが

下書きファイルに残っていたもの。


途中まで書いて放り出した(らしい)けれど

放り出したのがなぜかは、思い出せない。


それとは別に、そのときアタマにあったことで

覚えていることは少しだけある。



わたしが、このブログを「もうひとつの場所」として

12年前、わざわざ「眺めのいい部屋」とは別に始めたのには

はっきりした理由(目的)があった。



「あまりに「暗い記憶」としてしか思い出せない

自分のこども時代。でも、こどもなんだから

もっと明るい出来事があったはず。

楽しいこと、嬉しかったことも、きっと」 

「だから、今覚えている自分より

ちょっだけ明るい「自分」を主人公にして

日記を書いてみたら… 過去の記憶が

ほんの少しでも明るく見えてこないかなあ」

 

この「もうひとつの部屋」の最初の方にある

「ねねの日記」(カテゴリーとしては「E市での記憶」)

という記事は、そうして書かれた。


「書かれた」なんて妙な?言い方をするのは

「作りものの主人公」だけれど

起きているのは「事実」そのままだから。


自分で書いたのだけれど

自分で書いたんじゃないような気がするくらい

「手が、どんどん勝手に書いてくれた」から。

 

今思うと、「眺めのいい部屋」で、過去の出来事

もう会うことのない人たちのことを書くのは

当時のわたしにとっては結構タイヘンな作業だった。


エネルギーも時間も、相当たまらないと

出来なかった…という意味で。

 

でも、こちらの「もうひとつの部屋」では

そんなたいへんさを感じたことがなかったと思う。

 

そして、大変だったことも、そうでなかったことも

どちらもわたしにとっては、「ブログを書く理由」に

直結していることだった… というのに

今、自分でもちょっと驚いている。

 

物事を論理立てて整理・説明したり

自分なりに解釈して、次につなげたり…といった

作業をしたがらないわたしのアタマでは  

ここまでしかワカラナイけれど…

 

今回、gooからのブログの引っ越しなどせず

過去記事も全部消えて、オシマイになるのもいいかも…と

半ば本気で思ったりした。

 

なのに、こうして今(はてなでも)書き続けているなんて

ずいぶんわたしもメンドクサイ人やなあ…と改めて思う。

 

この先もこれまで同様、いろんな人、いろんなモノに

助けられて、支えられて、なんとか人生が続くんやろな……


そんな気がする。

 

 

 

(タイトル 2023年5月30日)

 

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gooブログサービス終了について

2025-04-25 15:15:48 | ひとりごと

こちらのブログを始めて、12年が経ちました。

今回、あと半年でサービス終了と知ったときの驚愕!!!

そのショックからなんとか抜け出そうとジタバタしましたが

一応、今後のことを決められそうです。


過去記事をどうするかに、いちばん悩みました。


お引っ越しサービスをして下さるとわかっていても

このgooブログのテンプレートを背景にしてしか

自分の書いたものを思い出せそうにないし…


ここまでで終了。放置・削除でもいいような気もして。

(これはこれでいい区切りかもしれない)


それでも…


このブログには、もう会うことのできない人たちのことを

主に書いてきました。

その人たちのことを、自分が忘れてしまわないうちにと

書き始めたようなものでした。


その後、鳥さんたちのことや

自分がぼんやり思うことを書くようにもなりましたが…


それらは消えてしまってもかまわない。でも

「もう会えない人たち」のことは

わたしが読んだり(見えなくなっても聞いたり)

出来る間は、やっぱり残したいなあ… と

思うようになって…

 

なので、たぶん「はてなブログ」に

過去記事ごと、お引越しすると思います。


PCに不慣れな自分には大変そうですが

時間をおいて、「お引越し」が混まなくなってから

自分の体調とも相談しながら

ぼちぼちやっていこうと。

 

これまで読んで下さった、書き込んで下さった方々

面倒をみて下さっていたgooのスタッフの方々に

心から感謝しております。


本当にありがとうございました。

 

あと半年、これまでどおり

「ごくごくたま~に」更新されるだけの場所ですが

どうぞよろしくお願い致します。

 

 

 

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得意なことって…なんだろう

2025-04-06 12:41:36 | ひとりごと

朝起きる前、布団の中で

「自分が得意なこと」っていうのを

ちょっと考えてみた。


…… 思いつかないなあ。


昔は「人間に興味がある」人だったから

人の話を聞くのは好きだった。

でも、上手だったわけじゃないし。


20年に10回引っ越してた頃には

多少は「引っ越しに慣れた」気もしたけど

業者さんとの交渉その他

メンドクサイことは家族の担当だったし。


いろんな理由で、いろんな場所で

「ガマンする」とか、「耐える」とか

必要に迫られてやってきたけど

そんなこと、得意なはずないし。


ずうっと無職の主婦(モドキ)だったから

仕事上鍛えられたことも

求めて身に着けたことも、ない。


長く続いた趣味ってのも

(強いてあげれば)映画と本。

あとは近所の散歩くらい。


習ったり、学んだりしたことがあっても

ほんの一時期。身につかない。


興味を持つことがあっても

なぜか「深く」ならなくて

「得意」レベルには届かないまま。


となると、う~ん……



自分って、ほんと

「なんにもないヒト」なのね。



あ、でも

「よくそんなに、何もせずにいられるわね」

って、言われたことはあったなあ。


それも、当時はとても親しかった人から。

  
そうかあ、人はもっともっと

積極的に「何かする」んだ。

わたしはこれで精一杯なんだけどな~

なんて思った。

 

メンドクサガリで、モノグサで

せずに済むなら、何もしたくない。

 

思い返すと、わたしの場合

長い間、望んできたのは

願い続けた「見果てぬ夢」?は

「緊張せずに、肩の力抜いて

ただただリラックスして過ごす」こと。


だから、ヒマな時間ができると

映画観て、手に入る本読んで

それだけで十分シアワセ。


それすら出来ない時期も

結構長かったと思う。


でもでも……



もうすぐ71歳。だいぶ前から

1日の大半が「自分の時間」

信じられないけど、ほんとにそう(^^;


でも、もっと信じられないのは

それでも「新しいこと」

しようとはしない自分。

 

1年の大半「うつっぽい」とか

この10数年「化学物質過敏」に

つきまとわれて、行動の自由が利かないとか

そんなことが理由じゃない。

 

もしかしたら……


わたしは「何もせずにいる」ことが

ほとんど特技なのかもしれないって

気がしてきた。


こんな生活していて

「することがなくて退屈」って

感じたことが一度もないんだから。



履歴書にも書けないし

人にもうまく説明できない「特技」


筋金入りのナマケモノ。


動物のナマケモノは、あれで十分

頑張ってるんだと思うけど

今のわたしは、いつのまにか

「頑張れない」人になっちゃっただけ。


そもそも素質があったからだし

もうそれでいいやって

オナカの底から思ってる… のかな。

 

(……まで来て、やっと起きる気になった)

 

 

 

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うつくしいもの

2024-08-04 17:13:14 | ひとりごと


よあけのそら そらのいろ

こくいっこくと かわってく いろあい


もうすこし そのままでいて って

おもっても かなわない


なんていったか 

にほんでつくられた バラのなまえ


はな ひとつ ひとつ

はなびら いちまい いちまい

そこはかとなく あいまいに

いろとふぜいをかえながら

いつのまにか ちっているバラ


よあけまえ ベランダからみる

そらのいろは そのはなに にてる。



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70歳になって、ふと思うこと

2024-07-11 15:55:13 | ひとりごと

わたしの人生は、長くてもあと10年。

数少ない身内の女性たち(二人の祖母と母親)は

大体80歳前後で亡くなっている。

(母の兄弟姉妹は、皆こどもの頃に

亡くなっているので参考にできない)


「長くても、あと10年」と区切ると

なんだか寿命を知らされたようで(錯覚)

「じゃあ、その間は何をしようかなあ」

 

わたしの家族(連れ合い)は同い年で

わたしより2ヵ月早く誕生日を迎えた。


その前後によく口にしたのは

「寿命が前もって知らされればいいのに」


なぜかと訊くと

「残り時間がわかっていれば

そのつもりで計画が立てられる。

あと数年なのか、10年あるのか

20年、30年あるならどうしようか…って」


家族は長寿の家系なのだ。

しかも、目標に向かって、計画を立てて

「努力するのが好き」という人。


若い頃からの持病に加えて

加齢による?病気も現れ

それでも前向き。

コップ半分の水は「まだ半分ある」と

考えたい、考えるべきだという人。

 

わたしは全く違う人種で

「努力」も「向上心」も、いつのまにか

わたしの辞書からは消えている。


前向きな性格とは言い難く、むしろ

過去のことばかり考えているうちに

時が過ぎた… という人。


妙に運命論者なところもあって

重要なコトほど、モノの弾みや

その場の勢いで決めてきた。


これまでも、人生の残り時間なんて

気にしたことはなかった。



「早く人生が終わればいい」とは

こどもの頃から思っていたけど

「長生きしたい(死にたくない)」と

思ったことはなかった。



特に、この10年は

「もう十分、生かしてもらいました」

「ほんとに、もういいんです。十分です」と

寿命を決める存在?に訴えたいような気分だった。



なのに今、「残り時間は長くて10年」なんて

あっけらかんと思う自分。

10年を長いとも短いとも感じない。

ただ「終わりが具体的になったなあ」とだけ。


若い頃にあれほど近く感じた「死」と

高齢になって、着実に近づいてくる「死」とでは

自分の受け止め方だけでなく、「死」の種類も

違うのかもしれない。


仕事をせずに生きてこられたわたしは

身体を酷使せずに済んだ。

命に係わりかねないような持病を

抱えずに済んだのには、それも大きいと思う。


要するに「深刻な苦労はせずに済んだ」 

そういう70年だったのだろう。

 

家族は言う。

「人生ほんとに100年の時代

あと10年で終われるかどうか…(苦笑)

でも、自分で自分のことが決められる

やりたいことがまだ出来る…っていうのは

確かに、あと10年だろなあ」


55年間、身近に暮らしながら

全く違う道を歩いてきた気がするけれど

すれ違いをくりかえして、回りまわって

ちょっとは似た場所に、いつのまにか偶然

たどり着いたみたいで… 可笑しい。

 

家族はまず手始めに…と

長年勉強してきた英語の仕上げに

外国へ2週間の研修に出かけた。

これで英語はおしまいにして

次は他の外国語をやってみたいと。


そのお陰でわたしは

「100% 好きなように暮らせる」

2週間の休暇を、目下楽しんでいる。

 

5年前、家族が「ピースボートで世界1周」に出たときは

「貴重な自由時間(3ヶ月!)が出来たのだから

『何か意味のあること』をしたい(しなければイケナイ)」と

源氏物語をせっせと読んだりしたけれど…


自分でもなんだか、檻の中のクマが

ウロウロ歩き回りながら、仕方なく

古典なるモノに挑戦してるような気もした。


「100% 自分の自由だった」とは思えない。



今回の2週間(まだ6日目)は

あのときのような「勉強」要素のない

「ただ楽しく心地よく暮らせる」時間に

なっていると思う。


わたしが自分でそうしたいと思い

そういう時間の使い方、暮らし方を考えた。



どういう理由で、何がきっかけでそう決めたのか

例によって自分ではワカラナイ。


正直に言うと、ただ「そうなった」のだ。

自分でそうしたのだという自覚はあっても。



「70歳になる」というのは、わたしにとっては

そういうことだったらしい。


この後の10年は、果たしてその延長上にあるかどうか…

実のところはわからない。

良いコトばかりが続くはずはないし、かといって

この期に及んで、悪い想像をしてもはじまらない。

 

「これまでどおり、何があろうと

家族みんなで助け合えますように」

 

なんのことはない、何歳になろうと

そこだけは変わらないのを再確認して…



今日はここまで。

取りあえず、洗濯物でも取り込もう(^^)

 




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時間がつながらなくて…

2024-04-29 21:16:56 | ひとりごと


毎日、映画を観たり、ドラマを見たり。


…すると、その前のことが

思い出せなくなる。


わたし、今朝は散歩に行ったっけ。とか

わたし、朝ごはん何食べたっけ。とか


掃除機かけたっけ(かけるつもりだったけど)

洗濯もの、どーしたっけ。



ま、いいのよ。ソンナコト。


わたしにとっては

映画の方が大事(たぶん)


でも、こーゆーのが当たり前になるのも

それはそれで、ちょっと困る?


でも、困っても

なるものはなる(きっと)



モノが脱走して見えなくなるのは

モノの自由?かもしれないから

モノスゴク大事なものじゃなければ

帰ってくるの待っててもいい。


でも、わたしの「時間」が

つながらなくなっちゃうのは

ウレシクないなあ(どーしよう)

 

すごーく不思議なんだけど…


それでも人生は続くのね。

「人生」は続くけど

「わたしの時間」はブツブツ切れてる。

 

これって一体、なんなんだろう…って

この頃毎日思ってる。

 

 

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生と死は、同時にそこに存在する  ・・・「超絶技巧を超えて 吉村芳生展」

2023-08-20 15:12:52 | ひとりごと

「美しさ」の持つ力を

久々に実感する機会がありました。



鉛筆で、色とりどりの花を描いた

吉村芳生という方の展覧会。

 

向かい合わせに飾られた

それぞれ壁一面を占める

鉛筆画(2m×7m位)二枚。



一枚は、数多の長い花房を

カーテンのように垂らして

静まりかえる、藤。


向かい合うのは、菜の花の咲く

川の中州を描いて、しかもそれを

上下さかさまに「完成」とした、風景。

 

その二枚にはさまれるように

部屋の中央に立ってみて

初めてわたしの意識に昇ったこと。



「死と生は、別々には存在しない」



「生」がなければ、「死」はあり得ない。

「死」がなければ、「生」はおそらく意識されない。



敢えて言葉(理屈)で説明すると

そんな風になるけれど

そんなことをしなくても

「死」と「生」は、いつも

同時にそこに存在してるんだと。



二枚の美しい鉛筆画は、そういう空気で

わたしをふうわり包みました。



たくさんの藤の花房。

「その花もつぼみも、ひとつひとつ

東北の大震災で亡くなった方々

ひとりひとりの命だと思って

描いてました」


という画家の言葉が

小さな文字で添えられて。



菜の花と枯れたススキの中州

川面はその影を映しています。


「花は、自分にとっては浄土のよう。

生まれることを繰り返す世界」と。

 


「人間の主観の入らない方法で

世界を描きたい」


若い頃から、敢えて

徹底した機械的・単純作業で

モノクロの版画や鉛筆画を描いてきた人が

さまざまな経験の後

200色?という色鉛筆を用いて

あれほどの「精神性」(それこそ主観そのもの)を

感じさせる作品にまで昇りつめた…



もしかしたら、そのことの重さが

わたしの心をこれほどまでに

揺さぶったのかもしれません。



絶筆はコスモス畑。


方眼紙のように、ひとコマひとコマ

色鉛筆を塗っていて…

描き手の亡くなった後の部分は

白紙のまま。



最後まで「機械的・単純作業」で

絵を描いておられたこと。


人生を通じての膨大な仕事量

その根気、思いの強さにも

圧倒された時間でした。

 

 

 

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知らないうちに「橋」の上

2023-07-28 12:17:05 | ひとりごと

 

最近は毎日、足元ばっかり

見て暮らしている(らしい)


そのせいだろうか

ずっと同じ道を

歩いてるつもりだったのに…


ふと気づいたら、どこかの広い川にかかる

橋の上を歩いてた。



渡り始めたばっかりか

もう渡り切る寸前なのかも

よくわからない。


霧がかかってるみたいに

辺りの様子もボンヤリとして…



わかっているのは

どこかとどこかの「境界」に

自分がいるらしいということだけ。


どことどこの境目なのかは

訊かれてもワカラナイけれど。

 

最初は、自分がいつのまにか

「どこかの川を渡ってしまった(らしい)」

という風に感じてた。


それはそれでオドロキで

早から「川を渡る」なんて、いったい

どーゆー意味??(すごーく不可解)

 

でも… 


「これまでとは違う自分」に

なりつつあるという感覚は

確かにあって…

 

来年70歳になるっていうのは

そんなにタイソウなコトなのかしら。


自分では、自分のこと

オバーサンだと思っていても

いわゆる「老人」とは

思ってなかったのかな?



いやまあ、何をどう思うとか

そういう話じゃなくて…


「明らかに身体が変わりつつある」のが

問題なのです(^^;


「身体」は「アタマ」も含みます。

 


橋の上から見る風景は

たとえ霧に隠されていても

一生に一度の景色でしょう。


渡り切ってしまったら

これまでの世界のことは

思い出さなくなっていきそう。



向こうの世界が

「当たり前」の毎日になったら

どんな自分になってるのかな。


怖いような、でも

ちょっとわくわくするような

「橋の上」での貴重な残り時間…なのかも。

 

 

 

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欲しかったのは、自由と勇気

2023-07-23 14:08:40 | ひとりごと

わたしがずっと欲しかったのは

「自由」だったと、やっと気づいた。


そのためにこそ

「勇気」という言葉に憧れたんだと。


私にはないモノ・・・そう思っていたけど。

 


「ただただ自由になりたかった」のは

「このままじゃ生きていけなくなる」って


「窒息して死ぬしかない」って

こどもの目にも見えてたから?

 


自由がなかったのは

わたしのせいじゃなかった。


あそこまでがんじがらめに

恐怖でしばりつけられたら

こどもは自分ではほどけなくなる。


それも

しばられてることもわからないくらい

巧妙なやりかたでもって。


でも・・・

 

「勇気がなかった」のは

自分のせいだったと

今でも思う。


勇気は深紅のルビィみたい。


わたしはソンナモノ

持ったことも

見たことさえ

なかったと、今も思う。

 

 

 

 

(タイトル 2021年11月1日)

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