もうひとつの部屋

昔の記憶に、もう一度会える場所にしようと思っています。

文士になりたかった人  

2014-03-18 18:32:14 | E市での記憶
祖父のことを考える時、私の頭の中には
蔵座敷の風景が自然に浮かぶ。


二階建ての蔵の一階には、畳敷きの「お座敷」が二間あった。

細かく光る砂の混じった藍色の壁は「一尺以上の厚みがある」と言われ
冬暖かく、夏はひんやりと涼しかった。

例えば私が思い出すのは、季節に合わせた掛け軸や香炉のある床の間と
隣の「違い棚」との間の仕切り壁に
小さな通路のような「くり抜き」があったこと。

面白がって、そこをネコのように通り抜けて見せる姉や私を見ても
案外祖父は叱らなかったような気がする。

祖父は無表情に見える顔で
「昔、すわ一大事というような時に
床の間に掛けてある刀に、反対側からでも手が届くように」
そうしたものなのだという話をしてくれた。

その小さな「くり抜き」の縁取りも、二つの座敷を隔てる「欄間」同様
綺麗な(と子供心にも思った)木彫だった。

どちらの部屋から見ても「森に小鳥たちが遊んでいる」ように見える
透かし彫りの欄間は、私たちが夜寝つくまで、或いは病気で寝ている時に
いつも眼にする「風景」のひとつになっていた。


床の間のある部屋の方が広い「本座敷」で
隣は「仏間」になっていた。

大きな仏壇の足元には
額に入った一枚の写真が立てかけられていて
そこに写っている制服姿の小学生の男の子は
母の一番上のお兄さんだと聞いた。
まだ子どもの頃に亡くなったらしかった。

仏壇の傍には本棚もあって
上半分には祖父の古い文学全集が並んでいた。

ある時期を境に、祖父は昼間もそこに布団を敷いて
横になっていることが多くなった。

眠っていることもあったけれど
横になったまま本を読んでいることもあった。


ある時、私が話しかけたのか
それとも向こうが独り語りに口にしたのか
その時祖父が読んでいた本の話になった。

本棚に並んでいた祖父の本というのは
古い日本文学全集だったらしい。

それまでは本棚に並んでいる「箱」の部分の暗い赤と
背表紙の紺、包んでいる薄紙の曇りガラスのような色しか
私は見たことがなかった。
「怖い」祖父の本なので、小学生の私が
勝手に触ることなど考えられなかった。

ところが、祖父はその時手にしていた本を
開いて私に見せてくれた。

そしてひと言、不思議な言葉を口にした。
「お祖父さんはブンシになりたかった」

私はちょっと考えて、オソルオソル訊いてみた。
「ブンシって、なあに?」

「小説を書く人のことだ」

そして、更に難し気なことを言った。
「コンジキヤシャは良かった」

「コンジキヤシャって何?」

もっと小声で訊いた私に祖父は答えず、ただ同じ言葉を繰り返した後
「ああいう小説が書けるのは、今時のモンにはおらん」

祖父との会話は、それで終わった。


雷の記憶と同じように、私はこの時のやりとりを
後年、何度も思い出した。

「ブンシ」が「文士」で「コンジキヤシャ」は「金色夜叉」
と判る頃には、古臭いなあ・・・などと思ったりもした。

けれど更に後、母から祖父の生い立ちを聞き
父がその昔祖父から聞いたという言葉を知ってからは
「文士」の話は違ったものに思えてきた。


祖父の養父(祖母の実父)は、祖父のことを
とても大事にしてくれたらしい。

祖父が「文士になるために」三校(京都)の入試を受けても
なかなか通らないことを責めるようなことは無かったという。

ただその頃には、代々その辺りの庄屋だった
養家の経済状態も悪化していた。

祖父も、いつまでも帝大への夢を追いかけることが
出来る状況ではなくなったのを感じたのだろう
金沢の医専に進む道を選ぶ。

けれど、医専に入学した後も経済状況は悪化する一方で
祖父は博士号を取ることも出来ず
「町医者」として開業することになる。


父から聞いた祖父の話というのは・・・

「お父さん(祖父のこと)に会った最初の頃に言われたのは
『人生というものは、こうなったらいいがなあ・・・と思うのの
丁~度、真反対にしかならないものだ』ってことだった」

「そう言われたときには、真反対に・・・なんていうのは、正直
ちょっと言い過ぎじゃないかと思った」

「でも、今となるとお父さんの言った意味も解る気がする。」

父はそんな話をしてくれた頃には肝臓がんで
手術不能ということも既に判っていた。


養父の実子たちよりずっと年長だった祖父だけれど
「家」の犠牲になっただけではなかった・・・と、今の私は思いたい。

「『おとっつぁんに楽させてあげるからの』と、おじいさんは、よう言うてた」と
一度祖母から聞いたことがある。

養家の長女(祖母)との結婚。
育った家を出て町中で開業し、一生懸命働いた若い夫婦。
しかし生まれてくる子どもたちは、皆夭逝してしまう。

仏間にあった写真の男の子は
中でも一番、祖父が期待をかけた長男だったらしい。

小学校入学時に、制服制帽、ランドセルを背負って
記念に撮った写真は、けれど
遺影として長く使われることになった。

男の子が3人、女の子も母以外にいたのかもしれないけれど
そんな話は殆ど誰からも聞くことがなかった。
祖父の生い立ち同様、子どもの話も
家の中ではタブーになっていた気がする。

結局、中程の年齢だった病弱な母が
一人だけ生き残った「跡継ぎ」だった。


「どうしてそんなに次々とみんな死んでしまったの?」と
ずっと後になって、私は母に聞いてみたことがある。

母はかなり考えて言葉を選んだ後に、短く答えた。

「おばあちゃんが過労だったってことやね、結局」

祖母は、子どもの私が身近で見ていた頃も
医院の「賄い」全てを担当していた。

祖父が現役だった頃は、ありとあらゆる家事・雑用・人間関係が
祖母の所へ押し寄せたことだろう。

「おじいさんは患者さんが一番で、自分の身内(子ども)は
最後の最後になってもまだ見に来てくれなかった」と
祖母が涙を見せたことがある。
祖母に亡くなった子ども達の話を聞くことができた
一度きりのことだった。

けれど、いくら乳幼児死亡の多かった時代とはいえ
「手遅れ」になる以前に、そもそも「母体の過労」と言い切った母の言葉は
祖父母どちらにとっても辛い事実を言い当てているんだろうな・・・と
当時、幼い子を育てている真っ最中だった私は想像した。


祖父の「文士」の話から、随分遠くまで来てしまった。


祖父は医者になった後、失った養家の土地を買い戻し
医院の中庭を隔てて、念願の「蔵」を建てた。

祖父の死後、「茶室に使いたいので売ってほしい」という話が来たほどの
田舎ながらも精一杯「贅を尽くした」作りで、祖父の自慢の「蔵」だった。

養家の借金を返した後は、祖父は若い頃とは打って変わって
大変な遊び方をするようになったらしい。
芸者三昧はもちろん、正月には人を呼んでかるた会を開いたり
魚釣りと称して、川でダイナマイトを爆発させて警察に引っ張られ
祖母が「貰い下げ」に行った・・・などなど
無くてもいいような武勇伝がいくつも残っていた。

しかし、当時の医者の職業病とも言うべき肝臓病が悪化して
六十過ぎで、祖父は突然亡くなる。

晩年、あの自慢の蔵座敷に怠そうに横たわっていた祖父は
毎日何を想っていたのだろう。

孫にも男の子は生まれなかった。
祖父は残念だったと思う。


どこから来たのか、実の娘さえ中年以降になって漸く
「人から聞いて」知ったという祖父は、どこへ行きたかったのか。


「文士になりたかった」

という言葉を聞いた時、私はまだ小学校の低学年で
会話というほどのものではなく、たまたまこぼれ聞いただけだったと思う。

でもこうして書いているうちに、当時の自分の幼さが
自分でも残念だった気がしてきたことに、私は今、とても驚いている。
(そもそも、こんなに長い文章になるとは思っていなかった。)


あの「蔵」は、祖父の死後五十年近くを経て
一昨年の母の死の後、取り壊されたと聞く。

祖父のことを知る人は、もう殆ど残っていない。





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