もうひとつの部屋

昔の記憶に、もう一度会える場所にしようと思っています。

今だけさよなら  

2020-04-03 13:38:42 | 出会った人々
「カクザイって、握ってると、後で手ェ離そうとしても
 ガチガチで、離せなくなるんですよ」

     「・・・火炎ビンとか投げたりしました?」

「う~ん、そーゆー話はまあ置いといて(笑)
 え~と、何科なんですか?」

     「何科?」

「お医者さんなんでしょ?」

     「ううん、私は医者じゃないの。
      なれなかったんです。あ、でも
      卒業だけはしたんですよ(ほとんどジョーク)」

「う~~~ん(クソ~)ぼくは2年で放り出された(笑)}
 
 (周囲から「長崎だから」の声)

     「あ、(かの有名な)長大方式の・・・
      
      ヒドイ目に遭ったんですね。2年の終わりに単位がちょっと
      足りないくらいでやめさせられるなんて」

「(うんうんと頷きながら、でもちょっとハズカシソウに)
 ま、授業どころじゃなかったし、結局勉強なんてしなかったし」


「卒業したなんて偉いですよォ。偉い偉い、ほんとに」と
子どもに言うような、自分に言い聞かせるような口調で
繰り返しておられたのを思い出す。


35年ほど前のこと。

「家族の友人」程度の関係で
言葉を交わしたのも、このときだけ。

なのに・・・今も忘れられない。


ごく少数の「個人の集まり」として
市民運動をしていたグループの中で
家族はその人と知り合ったらしい。

当時の私は、精神科を出たり入ったり。
その人のことも、四方山話として聞くだけだった。


どんなイベントだったのか・・・
私も家族に連れられて
珍しく遠出した帰りのこと。

既に時刻も遅く、仲間同士で
飲みにいくことになったらしい。

小さな居酒屋が連なるほの暗い小路の一軒。
急な階段を上がって、天井の低い2階の小部屋。
数人で卓を囲んで、古い畳に坐って・・・


飲み会なんて学生時代以来。

一人で帰るという知恵もなかった私は
言われるままにその場に坐って
周囲の話を聞いていた。

みんな学生時代のことを
わいわい話していたけれど・・・

カリカリに細い長身。
キラキラした大きな目が
歯切れのいい口調以上にモノを言ってる。

その人のサービス精神に富んだ
明るい喋り方を聞いていると
学生運動も市民運動も、なんだかとても
「わくわく楽しいこと」のように聞こえた。


上の会話は、その途中に
偶然挟まったものだった。

その後、私はそういう場へ
出向くことは無くなったけれど
「奥さんは来ないのかって訊かれた。
残念そうな顔してたよ」と家族は言った。


その後、家族も私も高知を離れ
あちこちを転々とした後
もう一度高知に戻ってきた。

Nさんは、ちょっと離れた町で
ある病院の事務長をしていると
久しぶりに会った家族から聞いた。

「事務長ってのは、もう何だってやる。
 トイレが詰まったのも、ヤクザとの交渉も」

なんて話を聞くと、「あはは、変わってないんだ」
勝手にそんな風に感じて、私はなんだか嬉しかった。



いつのことだったか・・・

突然、その人が入院していて
近々ホスピスに移るという話を聞いた。

家族も「しばらく会ってないから(事情がわからない)」と
迷いながら、お見舞いに行った。

(一瞬、一緒に行こうかと思ったけれど
我に返って「行かない方がいい」)


幸運なことに、相手は小康状態だったらしい。

「1時間くらい、ロビーで話した。
 ずっとあのいつもの調子で喋ってたよ」

「・・・サービスしてくれたのね」

家族も苦笑して頷いた。


その後まもなく訃報が届いた。




「今だけさよなら」というタイトルで
その人のことをいつか書こうと思っていた。

訃報を聞いて浮かんだのが、その言葉だった。

今度会ったら「その後どうしてましたか~」って
あのときの気分で聞いてみたい。

楽しい話が、きっと待っていると思う。





(2017年6月17日「眺めのいい部屋」より  2010年3月 タイトルのみ下書きファイルに)
コメント (6)
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そりゃあ泣くわぇ、こどもやもん  

2020-04-01 19:22:36 | 出会った人々
13年前。今はなくなってしまった映画館で。

「アンタも来ちょったんやね。

うちら、後ろの方で観ちょったき
気ィつかんかったやろ」

・・・映画お好きなんですか?

「うん。ここも時々来るよ。

今日のはアンタ、どーやった?」

・・・う~ん、まあまあかなあ。


「実はうち・・・最近、姉が亡うなってね。

乳がんやったんやけど、なんかしてやりとうても
何したらいいんかわからんで。

それで、死んでからもずっと考えよった。

この映画の題名、『死ぬまでにしたい10のこと』やろ?

もしかして、こうしてやったら良かったってことが
なんかわかるかもしれん思て、来てみたんやけど」

・・・期待はずれだった?

「うん。映画は所詮、映画やね。仕方ないけど」



何年か後。自主上映会の会場ロビーで。


「あ、アンタもおったん。

もう観た? アタシは次の回観るんやけど」

・・・良かったですよ~。面白かった。

「そうね。アンタも映画ほんとに好きなんやね。

ねえ、今度一緒に飲みにでも行かん?」

・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・ゴメンナサイ。アタシそうゆうのダメやから。
・・・いっつもお断りするんです。ほんとゴメンナサイ。

「えいえい。かまんよ。それじゃ~また」



Uさんと会ったのはそれが最後になった。



Uさんは「学校に行かない子を持つ親の会」の
先輩メンバーだった。

月1回の例会で、よくお会いしたけれど
登校拒否については、「親」に対して
本当に厳しい物言いをする方だった。

同時に、かつての自分がいかに子どものことを
解ろうとしなかったか、ということも
本当に正直に口にされていた。

だから、どんなに言葉がキビシク聞こえても
怖がる必要はなかったのだけれど
私は、Uさんの真っ正直さ、率直さが苦手で
その前ではいつも緊張していたと思う。


そういう「ちょっとコワイ」先輩方が
何人か居られたにもかかわらず
私は例会では(自分の子どものことでなく)
自分自身のことをよく話した。

オトナがいかに子どものことを理解しないか
子どもの頃からずっと経験してきた?身としては
他の親御さんたちの話を聞いていると、どうしても
子どもさんの側に感情移入してしまうのだ。

自分が「親」の立場で同様のことを
自分の子どもにしているというのに。

ただ、親御さんたちが感じる、心配する事柄を
同じ親である自分はそれほど感じない・・・
ということだけは早くから気づいていた。

要するに、私は「ピントのずれた」親だった。

傍目にどう見えるかをあまり気にしないせいで
「コルクの栓のようにポ~ンと浮いてしまう」のにも
慣れてしまって?いたのだろう。

「何を話しても構わない」というその会の雰囲気に
ただ甘えていただけだと思う。


ある例会で、本当に珍しいことに
「(親である)自分も、子ども時代に
結構タイヘンな目に遭った」というような
話になったことがある。

そのとき、私は初めて
Uさんの幼い頃の話を聞いた。


「うちは母親が仕事行くのに
アタシはまだ小さすぎて
誰かに預けることもできんていうて
ヒモで柱にくくりつけて
家に一人で置いていったんやと」

「もうワァワァ泣いてたって
大きゅうなってからもよう言われた」

Uさんは、ちょっと黙った。

「親戚も、泣き方が凄かったって。でも・・・」


「そりゃあ泣くわえ、子どもやもん。

二つや三つで、泣かんわけなかろうが」


Uさんは、それ以上何も言わなかった。

「ヒドいことされたねえ」といった言葉が
あちこちで聞こえた後、話題はまた
自分たちの子どものことに戻ったような気がする。



時が経ち、子どもはオトナになり
親として例会に顔を出すことも少なくなった頃・・・

Uさんも、腰痛が酷くなったとか
オートバイに乗れないから来れないとか
顔を合わせる機会は稀になった。


自主上映会で偶然出会って
飲みに誘われたのはその頃のことだった。

何年か後、Uさんの訃報を聞いた。
ビルからの転落・・・という噂だった。


Uさんが、お姉さんについて
言っておられたのと似たことを
私も思わずにはいられなかった。

「あのとき一緒に飲みに行けばよかった。
話したいことがあったのかもしれないのに」

「せめて、どうして行けないのか
もう少し詳しく説明したらよかった」

「私も長年、うつに振り回されてるのに。
そういう話をしても構わない相手だって
Uさんは薄々気づいてくれてたのに」

私が誘いを断ったとき、Uさんは
「ああ、わかってるわかってる」
とでもいうような表情で
「いいよいいよ、かまわないよ」と
言ってくれたのだから。



亡くなってから何年になるだろう。

後悔の思いは年とともに薄れても
あのときのUさんの照れたような笑顔は
今も忘れられない。





(2017年6月8日 「眺めのいい部屋」より)
コメント (2)
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