もうひとつの部屋

昔の記憶に、もう一度会える場所にしようと思っています。

家族の肖像

2014-06-30 12:38:02 | E市での記憶
別のブログ(「眺めのいい部屋」)でこれまでに書いた、父、父方の伯父たち、姉、義母 母に関係のある文章を、古いものから順にまとめて載せておきます。(長文が多く、単に自分用の簡易索引のつもりなので、どうぞスルーなさって下さい)

父の次兄 http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/1f0c7d43f797f65592d0c290766546c7 「“洗脳”という嵐」

     http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/b9e42ab7629e2c142eb6e5e653e8a2d4 「“死に後れる”ということ」


姉 http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/368328dfee6678a29101cf2a80f5f3a9 「過去からの電話」

  http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/02e58ad53966c6443584245f56e19bab 「『カムイ外伝』の話から・・・」

  http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/de3a6d95603659ddbd02aea51c193f07 「父親と娘」

  http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/e35ad51a6cc4c01eec6849e0ddd53e6c 「映画はいつも・・・」

  http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/a14f9a763fe7f596623eaec7de6e600a 「アウトローと“青春”」

  http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/ad2cbc661d3bdbb82d5e34d09ded26d5 「セピア色の故郷」


父の長兄 http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/a22e2a3c368101ed2be0b869535a48a1 「飛行機嫌い」


父 http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/3fad34affcc364168b02d50f98c50346 「“父親”?の出現」

  http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/9f69495a1b9f0e21a4097edbe301c3fd 「楽しい夢」

  http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/250c594ee84dcd501e991bd64f69c1b8 「ジェルソミーナの記憶」

  http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/f2befe13632e973837ec4f510f9af21c 「豪雪・多病・貧困」


義母 http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/33b02ba0d9b5e263a77ca0c2ef858688 「ショウコさんの戦争」

   http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/b1f2adf888b4f392a9f5be325b1d3841 「お正月スケッチ(2013年1月2日)」


母 http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/87319f733cbf2af2927efc08707ae277 「老いること、ひとりで死ぬこと」

  http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/92f206091669cd12bb5d60de7b62891f 「そうか、もういないんだ・・・」



(ほんの少し関わりがある程度のものも入っています)
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文士になりたかった人②

2014-06-15 14:20:51 | E市での記憶
今朝、机の周りを整理していたら
一枚のメモが出てきた。

『文士になりたかった人』というタイトルで
チラシの裏の白い面を使って、走り書きしたものだ。

何年も前のものだと思う。
自分ではすっかり忘れていた。

祖父について自分が覚えていることを
ただ列記しただけのものなのだけれど・・・

自分でも驚いたのは
このブログに書いた祖父についての記憶は
その一部にしか過ぎなかったこと。

私は前回の記事で、祖父のことは全部
書き尽くしたような気がしていたのに。

明治生まれの祖父が亡くなって、既に
50年近くが経とうとしている。

祖父は私が小学五年生のときに
娘夫婦に置き去りにされたような形のまま
劇症肝炎で突然亡くなった。

だから私が覚えているのは
子どもの頃の、ごく僅かなエピソードだけだ。

それでも・・・

出てきたメモを見ると
このブログに書いたようなものとは違う
もっと普段着の祖父の姿が残っていた。


例えば・・・幼い頃の姉と私が
クレヨンで絵を描いている。
2歳の年の差は大きくて
私は姉のようには描けない。

描き上がったものを誰かに見てもらおうと
二人で祖母を呼びに行く。

優しい祖母はにこにこしながら褒めてくれるけれど
私は自分の絵のどーにもならなさが
自分でも判っているので、ハズカシくてならない。

すると、通りかかった祖父がチラッと眼を走らせて
何も言わず、ただ「遠目にはこっちの方がいい」。

まさか祖父が褒めてくれるとは思わなかったし
絵に「近目」と「遠目」があるなんて
考えたこともなかった。


またある時は・・・習わされていたピアノの練習をしていて
いつも同じところで間違える私に
横になっていた祖父が声を掛ける。

「もう少し上(の鍵盤)だ」

ほんとだ。驚いた私は聞く。「どうしてわかったの?」

「おじいさんは何でもわかる」

私は笑わなかった。ただ、ヘンなヒトだなあ・・・と。
ピアノなんて習ったことない筈なのに。
なんだか不思議なものを見たような気がした。


蔵の設計、座敷の内装、庭のデザイン・・・
それ以外にも、たとえば祖父は和太鼓の名手だったらしい。

私は一度も聴いたことがない。

それが今でも残念でならないのだけれど
音楽の好きな父が、お祭りの時に聴いて
真顔で褒めていたのを思い出す。

芸術的なセンスを感じさせる人だったのだろう。

子どもの私には、とてもとても「怖い」けれど
なぜかカッコイイようなところもあって
目を惹かれるものがある人に見えた。

前々回に書いた「雷の記憶」が長く残ったのも
そういう祖父の人となりと関係があるのだと思う。

あの時、私は「おじいちゃん、さびしそう」などと
思ったのではなかった。

祖父は「さびしそう」には全然見えなかった。

ただ、好きな“雷”が空に描くものを
純粋に楽しんでいたのだと思う。

それでも「孤独」という言葉の本質的なものを
幼い私に感じさせるような雰囲気があって
「孤独」と「さびしそう」とはずいぶん違う言葉なのだと
子どもの私はごく自然に感じたのだと思う。


ここまで書いてみて思うこと。

私にとっての「書く」ことのマイナス面は
「書かれた」ことだけが記憶として定着し
それ以外は自然に消えてしまうこと。

自分でそれが判っているので、普段から
嫌な記憶はなるべく書かない。
書くなら、せめて気持ち良く書き終われるように
自分の中の記憶を注意深く扱う。

フィクションは混ぜないし、脚色というほどのこともせず
どれも私が記憶しているままに書いているつもりなので
要するに「本当に嫌だったこと」には、触れないままになる。

私は「憎しみ」を書きたくない。

人を憎むということがどういう感情なのかを
私は多分子どもの頃に、経験してしまったのだと思う。

それがどれほど強い感情か
どれほど自分自身を蝕むものかを知ってしまったことで
私はかえってそれを表現できなくなった・・・そんな気もする。

だから、私のブログに載る記事はどれも
自分でも「砂糖菓子」みたいだと思う。

砂糖菓子だけを記憶の宝箱に残したい
・・・そんな風に思っているのかもしれない。


一緒に暮らしていたときも、離れてからも
何年もの間、私にとって祖父は
「砂糖菓子」からはほど遠い人だった。

「家」と「血」と「地」の呪いの真ん中にいた人。

それでも今、こうして祖父のことを書いているのは
そんな祖父に対する、子どもの私の
あれほどの憎しみがあったからこそ・・・という気もする。


祖父からは、晩年に一度だけ
手紙をもらったことがある。

両親に半強制的に書かされた祖父への手紙に
返事を書いてくれたのだ。

丁寧な言葉遣いで書かれたその手紙の末尾には
(書痙で)手が震えて上手く書けない・・・といった言葉もあった。

祖父が亡くなったのは程なくだったと思う。

こうして書いてみて、初めて判った。
祖父はユーモアの解る人で
人と話すことも嫌いじゃなかった筈。


私は祖父を見ていなかったと思う。

あの手紙が残っていないのが残念でならない。



コメント (4)
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