もうひとつの部屋

昔の記憶に、もう一度会える場所にしようと思っています。

ロッカーと思うことにしたから

2023-11-14 15:29:38 | 若い友人との会話

若い友人との四方山話。


新聞を見たりするうちに

なぜか「社会規範」「常識」が話題になって…

日本では、どうしてみんな

そんなに縛られたままでいるんだろう。

道徳だの倫理だのは、とっくに

タガが緩んでしまって

エライ人たちはムチャクチャしてるのに

ヘンな「常識」は生き残ってる… などなど



すると、友人は突然


「僕は、自分のこと

ロッカーって思うことにしたから

(常識とか世間とかは)平気になった」


「ロッカーって物入れみたいやけど(笑)

でも、そう思うようになったら

社会規範から外れても当たり前?になった」

 

     初めて聞いたわたしはビックリ!

     でも、即思った。

    
     「いいわね、『ロッカー』って。

     わたしもなりたい!」


     
     「これまでずっと、自分のことは

     専業主婦のカクレミノ着た

     『ロクデナシ』って思ってきたけど

     おたくの『ロッカー』と

     似たような人種… じゃないかな」


(「おんなじおんなじ」と真顔で友人)  

   
     「でも、そーゆー言葉は(自分については)

     浮かばなかったの。なんでやろ」

    
     (そんな肯定的な?言葉、全然)

 

     「そういえば、ロッカーになるって

     決めたきっかけは何だったの?

     さっき聞いたばっかりなのに

     忘れちゃった。ごめん」

 

「ううん、謝ることない。

学校行かなくなったときだと思うよ」


「そう、あのとき。・・・たぶん。

『ロック』なのは尾崎豊のせいだな(苦笑)」

 

     「わたしは絵ぇ描くの好きやったら

     自分は絵描きやから…とか

     何か書くヒトやったら『詩人』やから…とか

     思ったかもしれんね。それでルートから降りる」


     「でも何もしないヒトやったから

     そういう言葉は思いつかんかったの」

 

「僕もロックなんかやらない(笑)

聞くだけやけど、それでも『ロッカー』

聞くの好きやから。それだけ」

 

     
     (友人のこういう笑顔に

     わたしはどれほど支えられてきたことか。

     彼が、小学生で「学校をやめた」後

     既に20数年が過ぎた)

     

 

 

 

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今がすべて、今しかない…でも

2023-11-06 17:14:28 | 若い友人との会話

若い友人との四方山話の途中で
友人はわたしに、さりげなく
でも、これだけは言っておきたい
という風に

「生きてる間に、一度はやってみたいと
これまでに思ったことがあるなら
今からでもやってみたらいいと思うよ」

「それでクタビレて1週間くらい寝込んでも
今はもう、ウチでは誰も困らない。大丈夫。
やっとそういう時期が来たんだよ」

友人は、「遅くなって悪かったけど…」と
小声で、ちょっとすまなそうに
付け加えた。


わたしはわたしで
最近、ふと思ったことがある。

 
そろそろ70という歳になった今
振り返ると、色んな時期に、あちこちに
「開けようと思えば開けられる」
扉があったのが見える。


でも、自分はその当時
ソンナモノは全く見えてなかった。

見えるけど開けなかったんじゃなくて
本当に見えてなかった(何もないと思ってた)


扉、分かれ道、そんなものは何もないまま
ただただ歩かざるを得なかった…

自分の来し方は、わたしには
ずっとそういう風に見えていた。


などという話も、それまでにしていたのだけれど
友人は、それとは別の次元の話
もっと現実的なこととして
言ってくれてるのがわかった。

ここしばらくの私の「不調」を見ていて
そういう話も、この際しておいた方がいいと
思ったのかもしれない。

 

友人は言う。

「過去は変えられないし
未来は誰にもわからない」

まあ、自分についても
同じなんだけど…と言いながら


「それでもほんとに、あるのは今だけ。
『今』しかないんだ」と。


友人の口調が真剣だったせいで
わたしは素直に
「やりたいと思ったこと」を
しばらく考えてみた。


けれど… 何も思い浮かばない。

好きだったこと、やってみたいと思ったことは
そのときそのときで、あったはず。

遠い過去のことだとしても
何もなかったというのは
いくら何でも、嘘になるはず。


でも、きれいさっぱり
何も浮かばない。


ちょっと浮かびかけても
「今」やってみようと思うような
気持ちには、まったくならない。


一生懸命考えても、結局
「思いつかない」ことに
自分でも驚き、呆れたけれど…

実際そうなのだから、仕方ない。


さらに自分でも驚いたのは
ここ数年ずっと思い続けてきたことが
不意に口を突いて、出てしまったこと。


「私は今、本当にしあわせなの」
(こんな言葉を人に言うことがあろうとは!)


「だからね、正直に言うと
今人生が終わったらいいのに…って
思うことはあるよ」


相手がギョッとしたのがわかったので
話を和らげる?ために
軽い調子で映画の話をした。


「とても仲良く暮らしてる夫婦の
奥サンの方が突然、大雨の日の
増水した川に、身を投げるの。

誰もその理由がわからない。

髪結いの亭主だったダンナサンも
何もしなかった自分が悪かったのか
とか思うんだけど… 違うのね」


「彼女が自分から死を選んだのは
『今の幸福の中で死にたい』
と、心の底から願ったから」


観た当時(30年以上前)は
いかにも作り物のストーリーに思えた自分。

記憶違いかもしれないけれど…

でも今は、あの奥サンの気持ちも
わかる気がする。


「今の幸福がいつまで続くかは
誰にもわからない。というか

多分そんなに続くようなものじゃない
ってわかっている。 だから…」


今のこの幸せの絶頂で
自分は人生を終わりたいのだと。



彼女の死の選択は能動的だと思う。


でも、わたしの願望は多分
老いることへの不安?から来ているだけ。



「生きているのがつくづくイヤになった」
「早く死にたい」

と、夜中に電話してくる知人や親族は
これまでも何人かいた。


うつっぽさに長年つきまとわれている
わたしにも理解できる気持ちだと思った。
(返事にはいつも困ったけれど)


わたし自身、こどものころから

「早くこんなこと(生きてること)終わればいいのに」
「明日の朝、目が覚めなければいいのに」

と、いつも心のどこかで思っていたけれど…


気づいてみると、いつのまにか
そういう風には思わなくなっている。


私は元々「あの頃はよかったな~」
「あの頃に戻れたらいいのに」

なんて思ったことが一度もなかった。


いつも「今が一番しあわせ」

そもそも「わたしは幸せなはず」

ほんとにそう感じていたのか
そう思わなければいけないと思っていたのか。

とにかく心の表面では
いつもそんな声が聞こえていた。



それが作り物(嘘)だったのが
今となるとよくわかる。


何をそんなに頑張っていたのだろう。

でも、当時の自分には
それが必要だったのだろうとも思う。


しあわせじゃないときほど
「しあわせなんだ」と思いたい。

そう思えないと、なぜか誰かに
申し訳ないような気がしてしまう。


生きていくのに一生懸命な時期には
そういう「目くらまし」も
重要に思えることがあるのかも。



でも、わたしはもう
「生きるのに一生懸命」じゃない。

「一生懸命」じゃなくても良くなった。 なので


今感じている幸せは、わたしにとっては
本物なんだろうと思う。

だから「今、さっさと死にたい」
というのも正直な気持ちなんだよね。
(ここまで来ると笑い話だけれど)

 



ここまで長々ダラダラ書いてみても
何が言いたいのかわからない。

単なる覚え書・下書き・メモなんだけど
下書きファイルに紛れてしまうのも
残念な気がして、UPしておきます。

 

それにしても
「やってみたいことが思いつかない」なんて
ずいぶん若い人の台詞のような気もして
自分でも笑ってしまう。

総ては体力不足(化学物質過敏も含めて)
と言われれば、正にそうです(^^;



ヘンな話につきあわせて、若い友人には
悪かったと思いましたが
「しあわせな今、人生を終わりたい」
と、誰かに一度言いたかったのかもしれません。

「話せて少し元気が出た。ありがとね」
と、翌日友人に言うと
「とにかく元気が少しでも出たなら良かった」
と、言ってくれた後
「たまに誰かに言う機会があった方が
いいようなことなのかもしれないな…」
とかなんとか、独り言のように呟いていました。


さすがに、あんまり寄りかからないように
心しないといけないと思いました(^^;

 

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