もうひとつの部屋

昔の記憶に、もう一度会える場所にしようと思っています。

音匣 おるごおる

2024-08-18 15:16:13 | K市での記憶

オルゴールが好きだと言っていた父は

晩年になって、外国のメロディーの入った

大きなオルゴールを買った。


なんていう曲かはわからなかったけれど

父の書斎の「箱型の棚」に置くと

棚が共鳴して、素晴らしい響きになるとわかった。


テーブルに置いて、ふたを開けたときは

ごく普通に「きれいな音色」


でも、棚に置いて開けると、突然

魔法の楽団が現れたみたいになる。


「共鳴ってすごいね」

「音の魔術だね」


姉もわたしも、ただうっとり聞きほれた。


オルゴールの秘密を教えてくれた母は

発見したのは自分と言いたそうだった。

 

ほんの数分の室内楽。

音の箱をじっと見つめて。

 

オルゴールを「音匣」と書くと知ってから

あのときの光景が

一枚の静止画になって目に浮かぶ。

 

あれから40年以上。

今はオルゴールも、あの家もなく

父も母も別世界の人。


姉の声を聞くこともなくなって…

 

それでも、またいつか

いっしょにあの曲を聴ける日が

来るような気がして、仕方ないのだ。

 

 

 

 

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私の眼の、届かない所に行きなさい

2023-11-29 11:38:13 | K市での記憶

近いと、見えなくてもいいものまで

目に入ってしまう。 どうしても

口も手も出したくなる。


「だから、近くには住まないでほしい」


亡くなった母は、もしかしたら

昔からそう思っていたのかもしれない。


わたしは、直接そう言われたことは

なかったけれど。

 

それがわかったのは、姉が実家の敷地に

家を建てようとしたとき。


母ははっきり口に出して


「境界がちゃんとわかるようにして!」

「廊下で繋ぐなんて言語道断!」


「近いとロクなことにならないのよ。

(それがどうしてわからないの?)


自分たちで買った土地があるんでしょう。

そっちに建てたらいいじゃないの」

 

対する姉は、母の言葉に

全く耳を貸さなかったらしい。


姉の夫にあたる人も

姉がなぜ、そこまで実家の近くに拘るのか

最初は理解できなかったと聞いた。


母の若さ(50代半ば)と本人の希望から

「お母さんの老後の心配は、まだ早い。

予定通り、自分たちの家は

自分たちの買った土地に建てよう」と。


それでも姉は、粘り強く夫を説得。


結局、母の住む実家の隣に

新居を建てた。

(自分たちが買っていた土地は

その前に手放したという)



話が本決まりになった後で

わたしは電話で事情を聞いた。


当時のわたしは、故郷を遠く離れ

夫の転職に応じて

引っ越しを繰り返す日々。


姉はそれも考えた上で

「あなたもその方が安心でしょう?」と。


安心も何も、わたしはわたしで

母自身がまったく望んでないことを

そこまで自信をもって決められる姉が

理解できなかった。



姉は言った。


「わたしは老人病院に勤めてみて

初めてわかったの」

人は、人生の終わりに近づくと

ひとりで生きてはいけない。

最期に、誰かの手を借りずに

ひとりで死ぬことなんてできない。

「その誰かの中には、家族も必要なのに

あの人(母)は、それがわかってないのよ」


姉は、そういう意味のことを

諄々と諭すようにわたしに言った。



娘には絶対に迷惑はかけたくないという

母は母で、自分の老後のことは

考えている様子だったのに。


姉はそれを「母の強がり」

「真に受けるわけにはいかない」と

本気で聞く気はないように見えた。

 

母は、娘やその家族に

近くに住んでほしくないと

あれほど本気で言っているのに…


どうしてその「本気」の度合いが

姉に伝わらないのか

わたしには不思議でならなかった。

 


幼い頃から、その強圧的な姿勢

ヒステリックな物言いで

姉もわたしも、母を恐れていた。


それでもわたしは

自分も家庭を持った頃から

母がわたしとは遠く離れていたいと

望んでいるらしいのを、どこかで

感じ取っていた気がする。


ただ、わたしはそれを

「自分(母)の責任範囲の外でなら

なにがどうでも自分とは関係ない」

というような、母の割り切り方だと

理解していた。


母にはそういうドライなところも

あるように見えていたから。

 


「私の眼の届かない所に、行きなさい」


顔の見えない、ずうっと向こう。

声の聞こえない、はるか遠く。

 


口出し手出しし過ぎる自分に気づき

あれほど気性の激しかった母が

本気で抑えていてくれたのに。

 

その意味に、わたしが本当に気づいたのは

母が亡くなって、ずっと後のことになる。

 


進学を機に故郷を離れて以来

「実家」は自分にはないもの

(あっても頼るわけにはいかないもの)

そう思って生きてきた。


それには、わたしなりの

人には説明しがたい理由もあった。



それでも、わたしは

こどもの頃も、オトナの今も

あの母を、好きなままでいる。



あれから50年。


年と共に、思った以上に

自分にも母と似たところが

あったのに気づいて

驚いたりしている。

 

 

 

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「上」が全部いなくなれば、自分が見えてくるよ

2023-11-27 14:26:18 | K市での記憶

仕事から帰った父は

ネクタイを外して着替えながら

世間話をするように言った。

 

「オレなあ、この年になっても

自分がどういう人間か

全然わかってない」


「アンタ、どうや?

自分がどういう人間か

わかってるか?」

         
         ワカッテナイ…


「そうやろう。そんなもんや」


         ???


「いや、今日な、長いこと会わんかった

中学の同級生に、たまたま会うたんや」


「で、立ち話してたら、そいつが

『そういえば、昔っから○○(父の旧姓)は

ようそんなこと言うとったなあ』って言うんや」


「そんなことって、大したことやないけど

そ~んな昔から、自分が言うてたとは

思わんかったから、もうびっくりした」


「ほんとかあ?って聞いたら

『だってお前、そういう奴やったやないか。

自分で覚えとらんがか?』って」


「覚えとらんのやなあ、それが」

「相手は何でもなさそうに言うんやけど

自分がいつも、そんなこと言うとったとは

どうしても思えん」



「要するに、や」


「自分で自分のことが

今でも全然わかっとらんのやわ。

この年になっても

自分がどんな人間なんか」

 

      イツカワカルモンナン?

      ワカランママ??



「あんなあ、自分より上のヤツがおるやろ。


      ウエノヤツ?


「親とか兄弟、兄貴とか」


「それが一人ずつおらんようんなると

少~しずつわかってくるんやわ」


「全部わからんでも。少しずつでも」


       オトウチャン、マダワカッテナイッテ…


「そういえばそうやった(爆笑)」


「でも、そうなんやぞ」

 

 

父がガンで亡くなる、何ヵ月前だったか…


書斎の大きな姿見の前で

何気なく交わした会話を、今も時々思い出す。


もう30年以上前のこと。


でも、70歳目前の今も

わたしは自分がどういう人間か

ヨクワカラナイままだ。


今思うと、当時の父は60そこそこ。


妙なところが似た

父娘だったんだな~と

ちょっと呆れている。


 

 

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ちぃの落書き、首すっぽん 

2018-03-25 14:53:44 | K市での記憶
おじいちゃんも、おばあちゃんも
本家のおじさんも、洋品店やってるおばちゃんも
み~んな、おかあちゃんのこと
「ちぃ」って呼ぶ。

「ちいさなお嬢さん」って
意味なんだって。

おじいちゃんは

「ちぃは賢い。ひとつ聞いたら十悟る」

アタシが屏風の女の人見て
おかあちゃんに似てるって言ったら

「似とらん(きっぱり)」

「ちぃはもっとベッピンじゃ」


ずっと後になって
本人から聞いたこと。

「とにかく叱られた記憶がないわね」

・・・イタズラとか失敗とかしなかったの?

「したけど、怒られなかった」

「たとえば」と思い出す顔になって・・・


「小さい頃、本家に連れてかれたときに
縁側に立派な鉢植えの花があったの」

「オトナは話が弾んでても
こっちは退屈で仕方ないでしょ?」

「面白かったから、お花をひとつずつ
従兄弟の男の子とちぎってたら
木がまるはだか~になっちゃって」


「でね、もちろん見つかった。大人に」

「そしたら男の子だけ怒られて
引っ張っていかれちゃった」

おかあちゃんは可笑しそうに

「なんて言うんだっけ、ドナドナ?
あんな感じで、男の子がこっち見て
助けて~って、顔で言ってた」

・・・笑いごとじゃないと思うけど。


おかあちゃんは何も言われなかったの?
って聞いたら

「言われなかったよ、なんにも。
男の子に、お前が誘ったんやろって」

でも、アレ始めたのわたしだったのよねって
おかあちゃんは澄ましてる。

男の子、可哀想。

「まあね。でも、とにかくそれで済んじゃった」


もっとあるよって顔になって

「お雛さまの首も
いっぱい抜いたっけ」

・・・首、抜くの?

「面白かったのよ。すっぽんすっぽん
あれって簡単に抜けるの」

だからうちのお雛さまの顔は
一段ごとに違ってる筈だって。

「首がなくなると次の買うんだけど
やっぱりヤッちゃうのよね、スッポン!」

・・・はぁ・・・


「でもねえ」と彼女。

「一度フスマに落書きしたときは
失敗だったな~」

「やっぱり本家のお座敷で
新しい真っ白のフスマ見つけて
誰もいなかったし、全部そろって
あんまり真っ白だったから
つい、なんか描きたくなって」

描き出したら止まらなくて
次々描いてたら
本家のオジイサンが
通りかかったんだって。


「それがねえ、オジイサン
まじまじと、描いた絵見てるの」

あんまり時間かけて見てるんで
やめるわけにもいかなくて
次のフスマにも描き始めたんだけど
やがて、おじいさんは背筋を伸ばして
たった一言。

「ちぃは上手やのォ」


おかあちゃんのお父さんじゃなくて
めったに会わないオジイサンが
ほんとに感心した様子で
しみじみそう言ったもんだから・・・

「あ~んな具合悪かったの
後にも先にもなかったわ」


それ以上は、何も言われなかったけど
落書きは、その後しなくなったとか。

さすがのおかあちゃんも
ちょっと気恥ずかしそうな顔してた。


でもねえ・・・


こーゆー話を聞いたのは
アタシが高校生の頃だったけど
正直思った。

「アナタ、ほんとにアタシのお母さん?」

子どもの頃、ほんとに厳しかったから
何かして怒られないように
おねえちゃんもアタシも
あんなにビクビクしてたのに・・・


「今頃になって言うなんて」

おかあちゃん、ズルイ!!!





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たもとを重ね、目を伏せて

2017-03-20 17:01:46 | K市での記憶
生前、母が大事にしていた日本人形がある。

絹の着物は、渋い紫の濃淡の縞。

黒のきいた幅広の帯を締め
心持ち前かがみになって
もの思わしげに立っている。

うっすら綿を入れた裾を長くひき
だらりの帯はやや無造作に。

髪はふっくら結い上げられて
華奢な両手はそっと前に。


人形はある日突然
金沢の家にやってきた。

車を持つ知り合いに母が頼んで
隣県の生家に残してきたものを
わざわざ運んでもらったのだという。

着いたばかりの人形は
その地味な色合いもあって
子どもの私の目には
ちょっとやつれて見えた。

詐欺に遭って借金を抱え
経済的には苦しかったはずのその時期に
母は、大きなガラスのケースを注文して
人形を中にそっと納めた。

和室の床の間の上で
人形もほっとしたように見えた。


「きれいだね」と私が言うと、母は頷いて
「女学校の頃作ったんよ」

こんなもの、どうやって作るんだろ・・・
というような顔を私がしたのだろう。

母はもう一度
「着物も自分で縫って着せたし
帯ももちろん、自分で結んだ」

「髪も?」

「もちろん。自分で結ったの」

「・・・こういう髪型って、なんて言うの?」

母はちょっと考えて
「つぶし島田のうちかなあ」

髷は細い藁束のようなもので結んであって
かんざしなどはなく、鼈甲の櫛と笄だけ。

帯の後ろの形も、たれの下がり具合が独特で
私には、どちらも母の「創作」に見えた。


その後、母が人形のことを
特に口にすることはなかった。

けれど、子どもの私は時々
畳の上にペタンと坐って
ガラスの中の人形を見ていた。

きらびやかなところが全く無くて
うりざね顔に、切れ長な目をやや伏せて
ひっそりと立っている人形が
私は、いつも好きだった。

モダンなデザインが元々好きで
機能的・合理的な考え方を優先し
ズケズケ言いたいことを言い
自分の気分で周囲を猛烈に振り回す
あの母が作った・・・というのが
ちょっと不思議な気がしたけれど。




晩年、母は自分が亡くなった後のことを
私たちに色々言い残そうとした。

「必要な書類や大事なものは
ここにまとめてあるから・・・」とか
「お世話になった誰それさんには
こういう風にお礼をしてね」とか。

私は長年、遠くで暮らしていて
数年に一度しか会えなかったからだろう
顔を合わせる度に、母は私に
同じ言葉を繰り返した。


その後も時は流れ・・・


元気な母に会った最後のときのこと。
四方山話をしていたら、母はふと

「葬式も何もしなくていいから
ただ、お骨は私の故郷のお墓まで
持って帰って」

面倒なこと頼んで悪いわね・・・と
妙に殊勝な顔をしながら、付け足すように

「お棺にもなにも入れなくていいから。
ああ、あのお人形だけ入れて頂戴」

私はちょっと驚いた。

母があの人形を気に入っているのは
子どもの頃から知っていたけれど
そこまでとは思っていなかったのだ。

「わかった。あれだけ入れるね」

母は安心したように頷いた。


それなのに・・・


2年後の母の急逝に際して
あの人形を棺に入れてあげることは
私は、結局できなかった。

人形のことなど思い浮かばないような
突然の訃報だった。


私は、ただ呆然としていた。

遺骨は義兄が母の故郷に持ち帰り
お墓に納めてくれた。



あの人形がその後どうなったのかは
わからないままになっている。

人形があった母の家も
壊されて今はない。


それでも、今も折にふれて
私はあの人形を思い出す。

憂いを帯びた顔立ち。
もの想わしげな佇まい。

私にとっては「憧れ」そのものの
大好きだった「お人形」だけれど
母にとっても、「理想の美」を作り上げた
誇らしい作品・・・だったのだろうか。


思い出すたび、母が傍にいるような気がする。





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「ああ、これは私の大事な・・・」 

2016-09-20 18:16:05 | K市での記憶
子どもの頃、病気ばかりしていた私の
看病をしてくれたのは、母方の祖母だった。

祖母はまだ五十代。

小さな医院とはいえ、入院患者さん、看護師さん
そして家族・・・と30人近い人数の
日々の賄いを担当していた。

コマネズミのよう・・・という形容がぴったりで
小柄な祖母は一日中、クルクルと立ち働いていた。

それなのに、苛立ったり不機嫌だったりといった
いかにも「忙しそう」な風情は
私は見たことがなかった気がする。


早くから起きて、まず最初に汲む水を
高い所にある水神(みずがみ)さんに供える。

その後、茶の間の神棚と蔵座敷の仏壇にも供えて
榊や切り花の水も替える。

濡れ縁を小走りに行く途中で朝日が射すと
足を止め、手を合わせて拝む。

「なまんだぶ、なまんだぶ・・・ありがたいの」

大きなガス釜にご飯を炊く片方で
大鍋にお味噌汁を作る。

用意が出来ると、どれも出来たてを
おままごとの道具のような漆器によそって
可愛らしいお膳に載せて、仏壇に供える。

「神さん仏さんは、出来たての湯気を召し上がる」
などと祖父は言っていたけれど
祖母は何も言わず、ただ忙しく
表の台所と奥の蔵座敷の間を行き来した。

その頃には、住み込みの看護師さんたちも起きてきて
手分けして入院患者さんたちに食事を出したり
自分たちも朝ご飯を食べたりして
田舎町の小さな医院の「朝」は始まった。



私がその医院で祖父母と暮らしたのは
昭和30年代の、ほんの7年ほどのことだ。

私が10才の時、両親は姉と私を連れて
金沢に引っ越した。

婿養子だった父は、医院のあとを任せられる人を探し
自分は子どもの頃からの願いだったという
肢体不自由児施設の医者になったのだ。


その後まもなく、祖父は劇症肝炎で急死した。
60歳を過ぎたばかりだった。

それまで寝たり起きたりの生活が長かったのも
「肝臓の具合がずっと良くなかったからだろうなあ」と
後になって、父は語った。

父自身もその頃には慢性肝炎、肝硬変
やがて肝癌という経過をたどりつつあった。

当時の外科系の医者にとっては
職業病のようなものだった。


祖母は、結局医院を畳み
残ったそれまでの家と、隣の県の私たちの家とを
行き来しながら暮らすようになった。

祖母は元々、大声で何かを言い立てたり
言い募ったりするような人ではなかったので
私は、祖母が何を思っているのか
あまり気にかけたことがなかったと思う。

それでも、開業していた頃よりも
家族として一緒に過ごす時間が多くなってみると
祖母と母、或いは祖母と父との関係が
子どもの私の目にも入ってくるようになった。

祖母が、たったひとり生き残った子どもである母を
どれほど大事に思っているか・・・が
私にも少しずつ解ってきた。


日常的には、祖母と母は
毎日「親子喧嘩」?をしているようなもので
それに口を挟むことは誰にもできなかった。

といっても、文句を言っているのは母だけで
祖母は大抵は黙って聞いていて
ごく稀に言葉を返すだけ。

それなのに、それが「喧嘩」であることが
どうして私などにも判ったのだろう。

一方的に文句を言われているように見えて
祖母は決して「可哀想」ではなかった。
(「喧嘩」に「負けて」いたのは
もしかしたら母の方だったかもしれない)


祖母は、父に逆らうようなことは
ほとんどしなかった。

けれど、祖母は父が嫌いなのだということを
私は田舎で一緒に暮らしているときから感じていた。

大人になった今となると
わざわざ言葉にして書くほどのことでもない
世間によくあることだったのだとわかる。

一人娘を「取られた」母親の寂しさから
幼い孫を「抱きしめて」いたかったのだろうということも。
孫は何かの代わり、要するに「モノ」だったのだということも。

すべては遠い昔の話だ。



祖母は晩年、病院に入院したまま亡くなった。
臨終の時、誰も傍には居なかったという。

認知症が進んだこともあったけれど
父の闘病のためもあって
母は祖母を入院させたのだと聞いた。

入院生活が祖母にとって快適な筈がないということは
承知の上での、母の決断だった。

「どうしたらいいのかは誰にもわからない。
でも、決めたことの結果は全部私が担ぐから」


入院した祖母の認知症は進んだ。

たまたまその病院に職を得た姉は
祖母の姿を見ながら
複雑な気持ちになったという。

「もう少し私が面倒見てあげたかった。
もうあとほんのちょっとの期間しか
無理だったかもしれないけど、それでも・・・」

母のやり方に「口出し」することは
姉にも出来なかった。


遠く離れて暮らしていた私が
晩年の祖母に会いに行ったのは
たった一回だけだった。

そのときの祖母の姿は
今も忘れられない。


看護師さんが一々「これは誰?」と
面会に行った私たちを指差すのに
私は苛立っていた。

判らなくてもいいじゃないの。

祖母は私が身近に知っていた頃より
二周りくらい小さく?なっていたけれど
顔色も良く元気そうに見えた。

私たちにも看護師さんにも気を遣っている様子が
昔の祖母のままなので
私はなんだか・・・辛かった。

勿論、祖母は私が誰かなんて判らないし
判らなくて当然なのだ。

あれほど身近に居て、あれほど心配かけて
いつも看病してもらった頃の私は
もうどこにもいないのだから。


最後に、看護師さんは母を指差して聞いた。

「この人、誰かわかる?」

母を見た祖母の目に、パッと
それまで無かった光が灯った。

そして、みるみる涙があふれた。

「ああ、これは私の大事な・・・私の大事な・・・」


名前が出てこなくても、母のことは判っているのが
見ている私たちにもはっきり伝わってきた。

私もしばらく涙が止まらなかった。

母は、祖母にとっては
本当に特別な人なのだということが
よくわかった瞬間だった。


母は、祖母の晩年については
その後ひとことも触れなかった気がする。

「お墓の中まで私が一人で持っていく」と言った通り
何も言わずに、4年前母も亡くなった。




私は、60歳過ぎた今頃になって
自分が性格的に一番似ているのは
あの祖母だ・・・と、思うようになっている。

日の出を見ると手を合わせたくなるのも
周囲の人の言葉に左右されやすい?のも
料理が好きでもないのに、台所に立つことや
洋裁が出来るわけでもないのに、針を持つことが
それほど苦にならないのも
「社会に出たい」と全く思わないのも。

だから、祖母のことを断片だけでも
書けるものなら書きたかった。

でも・・・

やっぱり何も書けなかったと思う。

ごめんね、おばあちゃん。








(2014年11月~2016年9月)
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