最近たまたま過去記事を読み返したら
面白いのにオドロイタ。
自分で書いたのを、自分でオモシロイもないもんだけど
スラスラ読めて、どんどん次も読みたくなる(^^;
若い友人にそのことを言うと
「自分で書いたのは面白いよ。
自分で書いたんだから、よくわかるし」
面白くて当たり前といった顔の友人。
アナタも自分で書いたの読むことあるの?
と聞くと、ちょっと答えにくそうだったけれど
小さく頷いて、そのあと口早に言ったのは
「日記ブログなんて、絶対面白いはず。
そのときそのときで、何思ったかなんて
どんどん忘れてしまうのが普通なのに
後から読めるんだもんな~(笑)」
実はここまでは、2年前に書いたのが
下書きファイルに残っていたもの。
途中まで書いて放り出した(らしい)けれど
放り出したのがなぜかは、思い出せない。
それとは別に、そのときアタマにあったことで
覚えていることは少しだけある。
わたしが、このブログを「もうひとつの場所」として
12年前、わざわざ「眺めのいい部屋」とは別に始めたのには
はっきりした理由(目的)があった。
「あまりに「暗い記憶」としてしか思い出せない
自分のこども時代。でも、こどもなんだから
もっと明るい出来事があったはず。
楽しいこと、嬉しかったことも、きっと」
「だから、今覚えている自分より
ちょっだけ明るい「自分」を主人公にして
日記を書いてみたら… 過去の記憶が
ほんの少しでも明るく見えてこないかなあ」
この「もうひとつの部屋」の最初の方にある
「ねねの日記」(カテゴリーとしては「E市での記憶」)
という記事は、そうして書かれた。
「書かれた」なんて妙な?言い方をするのは
「作りものの主人公」だけれど
起きているのは「事実」そのままだから。
自分で書いたのだけれど
自分で書いたんじゃないような気がするくらい
「手が、どんどん勝手に書いてくれた」から。
今思うと、「眺めのいい部屋」で、過去の出来事
もう会うことのない人たちのことを書くのは
当時のわたしにとっては結構タイヘンな作業だった。
エネルギーも時間も、相当たまらないと
出来なかった…という意味で。
でも、こちらの「もうひとつの部屋」では
そんなたいへんさを感じたことがなかったと思う。
そして、大変だったことも、そうでなかったことも
どちらもわたしにとっては、「ブログを書く理由」に
直結していることだった… というのに
今、自分でもちょっと驚いている。
物事を論理立てて整理・説明したり
自分なりに解釈して、次につなげたり…といった
作業をしたがらないわたしのアタマでは
ここまでしかワカラナイけれど…
今回、gooからのブログの引っ越しなどせず
過去記事も全部消えて、オシマイになるのもいいかも…と
半ば本気で思ったりした。
なのに、こうして今(はてなでも)書き続けているなんて
ずいぶんわたしもメンドクサイ人やなあ…と改めて思う。
この先もこれまで同様、いろんな人、いろんなモノに
助けられて、支えられて、なんとか人生が続くんやろな……
そんな気がする。
(タイトル 2023年5月30日)
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