眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

 初めて見た風景

2006-06-28 15:22:34 | 人の記憶
昔、3年ほど佐賀市の郊外に住んだことがある。広いバイパス道路が出来たばかりで、大規模な公共施設や車での客を対象にしたレストランといった建物の間には、まだ麦やさまざまな野菜の畑が目についた。私たち家族が住むようになった新築のマンションの最上階にも、元は農家、今はガソリンスタンド経営という大家さんが住んでいたりした。それでも、マンションの周囲にはまだ他に高い建物も無く、幹線道路からも僅かながら離れていたので、辺りには元の緑の雰囲気が辛うじて残っていた。

私はそれまで九州に住んだことが無く、新幹線が関門トンネルを抜けた途端に車内で聞こえる言葉が一変するのにまず驚いた。単なる偶然、或いは私の思い込みのせいかと最初は思ったけれど、その後遠方から訪ねてくれた人たちが皆同じ事を言い、私自身も新幹線で往復する度いつも同じことが起きるのを感じた。私が育った金沢が、広い意味での「関西文化圏」とでもいうようなものに含まれるとしたら、それとは全く異なる「九州文化圏」も厳然と存在するのだ・・・ということを、実際その後佐賀で暮らす間にいろいろ体験した。

佐賀はとにかく「空の広い」街だった。当時は地価が全国有数の安さで、だからあれほど建物が敷地を広くとって建てられており、その結果として繁華街のビルの間からでさえ、空が広々と見えていたのだと後から知った。いかにも水郷地帯という独特の細い水路が張り巡らされ、黒いタキシードの袖から豪華な白いレースが覗いているような、見たことのない鳥があちこちに居て、空には鮮やかな色の熱気球が毎日一つ二つは必ず浮かんでいた。「見たことのない鳥」が和歌で有名なかささぎだと知って感激したり、熱気球はバルーンと呼ばれ、選手権の開催中はトラブルに見舞われると「畑なんかにボタボタ落ちてくる」と事もなげにいう土地の人に驚いたり、私にとってはちょっとした「異国」だったと思う。


もっとも、暮らし始めてみると、実際の私の生活はあまり変わり映えしなかった。佐賀に住んだのは初めての子どもが2才半から5才になるまでの間だったけれど、そういう小さい子どもの居る生活は、どこへ行ってもそれほど変わりようが無かったのかもしれない。人付き合いの苦手な私にとって、知らない土地で小さな子どもと暮らすという事は、文字通りの24時間労働を意味していた。子どもの父親は家庭を大事にしたいという人だったので、随分子どもの相手をしたりしてくれたけれど、彼の佐賀での仕事は本人にとっても初めての種類のもので、しかも非常に忙しく、当時の私は子どものことでその邪魔をしてはいけないと思い込んでいたのだ。

映画を観ること、美術館に行くことは勿論、絵本以外の本を読むことさえ自分で意識的に避けていた記憶がある。好奇心も感動も、子ども達の世界、子ども達の居る風景の中に限ろうとした。それほど「子ども」という生き物に纏わる事柄が私にとっては新鮮に見えたのも事実だったが、それ以上に、元々「子どもが嫌い」な私としては、本来の自分の興味の対象を一時的にでも頭の中から追い出しておかないと、自分の子どもの存在に余計に苛立ちそうな気がしたのだと思う。もっとも、何年もの間、いつになったら私は夜続けて5時間睡眠が取れるようになるのだろう・・・などと思っていたくらいだから、子どもが眠っている時間を自分のために使える余裕は実際問題として無く、家事を片付けるか自分も眠るかぐらいしか選択肢が浮かばなかった。

同じマンションに似たような年頃の女の子達が居て、とにかく息子と二人きりで居るよりは・・・と、よく一緒に遊んだ。互いの家を行き来したり、まだ入居者の少なかったマンションの駐車場を使っておもちゃのゴルフをしたり、片隅の砂場で「ケーキ」を作ったりした。

昔から「子ども」という人種が苦手ではあっても、私の全く知らない世界を生きているかのような彼らを見ているのがそれなりに面白かったからこそ、なんとか私は保っていたのだと思う。親という立場の難しさについては、私なりに子どもの立場で経験済みだったし、姉や友人達の子育ての大変さも身近で見てきたつもりだったので、結婚後何年もしてから、それでも子どもを持つ決心をしたのには、相応の覚悟とでもいうようなモノもあった。単なる成り行きなどでは決してなかった。

それでも当時は、なんだか自分がこのままずっと、永遠にこの生活を続けなければならないような気がして、堪らなくなる時があった。「永遠」などという、現実にはあり得ないような言葉が浮かぶこと自体、今から振り返ると自分がどれほど疲れていたかを感じさせるけれど。

そんなある日、私はひとりの男の子に出会った。


夏の日の夕方だったと思う。少し涼しくなったのを見計らって、隣家の姉妹と息子と私で散歩に出た。マンションの近くに小さな神社があり、時々通りがかりに寄って遊んだりしていたけれど、そこに遊びに来る他の子ども達とは出会ったことがそれまで無かった。

ところがその日は時間帯が良かったのか、何人もの男の子達が遊びに来ていた。彼らは皆、一カ所にじっとしてなんかいられないといった様子で狭い境内を走り回り、その合間には時々、広場の真ん中辺りにたった1本だけで立っている木の最初の枝分かれ地点まで、先を争ってよじ登り、また降りてくる・・・というのをくりかえした。私と一緒に来た子ども達もしばらくそれを見ていたが、登るのは無理と判っているらしく、間もなく自分達だけで遊び始めたので、私はいつものようになるべく子ども達全員に目が行くように、漠然と全体を眺めていた。神社に集まっていたのはその近所の遊び仲間達と思われたが、眺めているうちに、せいぜい5、6才といった中にひとりだけ、目立って小柄な子がいるのに気づいた。年齢的なものなのかただ単に小柄なだけなのか、私には判らなかったが、どちらにせよボス格の子の後からついて回っている子ども達の中でも、その子はいつも最後尾にいたので、余計に目に付いたのだと思う。

やがて、ひとりで居る大人に気付いた子どもがよくするように、何人かの子ども達が話しかけてきた。当然のように、ボス格の子が「僕ら、あの木に登れる」といった意味のことを佐賀弁で叫んだかと思うと、皆一斉に木を目指して走り出した。

彼らが登るのを近くで見ようと姉妹や息子と一緒に木の方へと歩いている間に、慣れている子は既に枝分かれ地点に立っているのが見えた。私達が木の傍に着いた時には、殆どの子どもが登り終わる頃で、あの小柄な子だけがまだ幹の途中にへばりついていた。他の子ども達は、驚くほど無造作に彼をよけて登り、次の瞬間、今度はドヤドヤと彼を掠めて降りていった。小さな手が踏まれるのを見て、思わず庇いかけたが、踏まれている本人は何とも思っていないようで、枝も無いようなところにどうやって彼が留まっているのかも不思議だったけれど、それなりに彼がこの「木登り」に慣れていることが判った。

私は、それまでに子ども達が登り降りを繰り返している際も、彼が皆のように上までは登れないのを見て知っていたので、今回も彼は皆が降りた後から、途中までで自分も降りるのだろうと思っていた。

ところが、皆が居なくなった後、彼はジリジリとまた登りだした。私は、見飽きた私の連れの子ども達が木から離れていったため、彼らの様子を見に行った方が良いと思いながらも、木の傍を離れられなかった。遠くから聞こえる声と「背中の眼」に感じる気配で姉妹や息子の安全を確かめながら、私はそのまま、彼がごく僅かずつ上に上がって行くのを、息を詰めて見ていた。彼が木から落ちるのではないかという心配は、もうしていなかった。

長い時間に思われたけれど、ほんの数分のことだったのだろう。彼は目指す地点に到達し、別れた枝の間に注意深く立った。微かな風が吹いているのに、私もその時初めて気が付いた。見上げた私の目の前に履き古されたズックと細い脚があり、さらにその上に、何でもなさそうな彼の横顔が見えた。

私よりも高い所から、神社のこぢんまりとした広場と周りの木々を見渡していたかと思うと、次の瞬間、彼は今度は降り始めた。降りる方が難しいのかと思っていたら、拍子抜けするほどあっさりと彼は地面に降り立ち、仲間の方へとまた駆けていった。私の方が呆然としていると、「Uくんのおかーさーん、来て来てー!」という女の子の声が聞こえ、途端に私も現実に戻った。

しばらくして、そろそろ私達が帰ろうとしているところへ、子ども達がやって来た。何人もがまた、口々にいろんな事を喋ってくれたが、最後にあのボス格の子が傍にあの小柄な子が居るのを見て、この子は今日初めてあの木の上まで登ったのだという意味の事を私に言った。なぜかちょっと誇らしそうにしているボスに肩を組まれて、小柄な子は一瞬表情を緩め、珍しくも笑顔に近いものを見せたが、やはり私の方を見ようとはせず、私はまた、どこかあらぬ方を見ているかれの横顔と向かい合った。彼は結局、一度も私と目を合わせることもなく、子ども達同士の間でさえ、口をきく場面は見なかった。

息子達を連れて家に帰る途中、私は何となくボンヤリとしていた気がする。

その後、その時の子ども達に会うことは無かった。それでも、あの小柄な男の子の事は鮮明な記憶となって残り、ふと思い出す度、あの時の息をひそめるようにして見つめていた自分が蘇るような気がした。なぜか、思い出すのは、私が日々の暮らしに押し潰されそうな気持ちになっている時が多かった。あの木登りの情景には、そういう時でも私を慰め、落ち着きを取り戻させるささやかな力があったのだ。

私は永い間、この記憶を、「子どもが初めて木に登れた」瞬間を目にした感動ゆえに覚えているのだと思っていた。ただ、いろいろな子どもと身近に接する機会が比較的多かった私は、それより前にも後にも、そういう「初めて」に居合わせたことが何度もあったのに、あの木登りの事だけが特別なものとして忘れられずにいるのが、不思議でもあった。

今回この文章を書いていて、その理由が少しだけ解ってきたような気がする。


あの男の子は、私の好奇心が実は恋心とでもいうようなものから生まれてきているのを、理屈抜きに実感させてくれたのだと思う。

それまでも私は、例えば異文化同士が出会うような領域、或いはそういったものに興味を持つ人々に自分が惹かれるらしい・・・ということに気付いてはいた。けれど、吹き抜ける風と共に「神」の存在を感じさせるかのようなイスラム寺院、全く内容を理解出来ないにもかかわらず陶然とさせられるオペラのイタリア語、シルクロードの数々の遺跡から発見された焼き物の人物像やその果てにたどりついたかのようなマイセンの磁器の人形達・・・私がたどたどしい日本語で慣れない形容をしても仕方がないけれど、そういった諸々の「美」を「恋心」と結びつけて考えたことは無かったと思う。

私は自分の知らないこと、自分の日常から遠く隔たったところにあるものの中で初めて、肩の力を抜き、深く息がつけるような人間なのかもしれないという事。いつも無意識の中に、そういう場所を求めていて、それは「恋心」とでも呼ぶしか仕方の無いようなモノであるらしい事。あの男の子は、全くの「見知らぬ人」でその後二度と会うことが無かったからこそ、私の本来の好奇心に訴えかけてくるものがあり、ひとことも口をきかなかったからこそ、宝物になったのだろうと。

叩きつける雨風に耐えている動物のように、目を細め、仲間の靴を避けようとしていた彼の顔。枝の間に立って、見慣れているはずの景色を確かめるように見回していた表情。そして、ボス格の友達の隣で一瞬だけ見せたはにかむような笑顔と、すぐにそれを消して遠くに目をやるように横を向いた仕草。見知らぬ5才の男の子が見せてくれたのは「若い男の子」の本質の一端に繋がるものだと、あの時の私は感じたのだと思う。私の知らない「男の子」の世界。だからこそ、目を離すことが出来なかったのだ。


あれから後も、私の生活に特に変化があったわけではなかった。ただ、「この生活がいつまで続くのだろう・・・。」ではなく、「この生活には、私に必須の何かが欠けている。」という微かな自覚の芽のようなものが、もしかしたら私の心の奥深い部分に生じるきっかけにはなったのかもしれない。本当に、ごくごく小さな芽ではあったけれど。


あの時「初めての風景」を見たのは彼ではなく、おそらく私の方だったのだと思う。







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