数週間前に劇場で「ニュー・ワールド」を見て以来、この映画を作ったテレンス・マリック監督の世界から、自分が帰れなくなっている気がする。
私は、名前以外にこの監督のことを全くと言っていいほど知らなかった。耳にしたことがあっても記憶に残っていないのかもしれないけれど、かつてビデオで観た「天国の日々」がこの人の作品であることも、今回話を聞くまで気がつかなかった。
「ホラーは苦手だからそれ以外で、何かいい映画ありませんか?」と訊いた時、映画好きの知人は、30年以上かかって4本しか映画を作っていないらしいこの監督のことをざっと説明した上で、「とにかく変わったヒトらしい」けど「シン・レッド・ライン」は「自分としてはとても良かった」と真剣な表情で言った。そして近々、7年ぶりの「ニュー・ワールド」という新作が来るが「良い出来かどうかはワカラナイ・・・」と、例によって笑顔でそっと付け加えた。ポカホンタスとイギリス人の恋人の話らしいと聞いた私は、なんとなく気は進まないものの、それでも知人の言葉が気になって観に行った。そして、映画が始まった文字通りその瞬間に、この「ニュー・ワールド」という作品が私の予想していたようなものではなかったことが判った。
映画は、イギリス人達が新大陸に到着するところから始まる。その後ジョン・スミスがポカホンタスに出会うまで、映画は「西洋」が侵入してくる以前の新大陸の自然、それもほとんど常に水の流れを伴う風景を映し出す。
その「水の流れ」の連続するシーンの美しさを、なんと言ったらいいのだろう。
単なる映像としての美しさではなく、単に眼に感じる心地よさでもない、まるで自分がその中に身を浸して自在に水と戯れているような、そんな感覚を実際に身体で感じるのだ。このままこの美しさ、心地よさに浸っていれば、悠久の時の流れに融け込んでしまえるのではないか・・・とでもいうような不思議な感覚。自分の五感、自分の身体だけでなく(おそらくは魂といったものを含めた)自分という存在そのものが、非常に大きな何かにそのまま合流出来るような、自分では考えも及ばないほど遠くにあるはずの、自分の故郷、出発点にそのまま帰っていけるような、そういう安堵感のようなものを伴って・・・。
もしかして、こういう感覚を人は「魂の救済」といった言葉で表現するのかもしれない・・・そんなことを、ふと本気で考えた。少なくとも私自身はこういう根源的な安心感を、これまでの実人生であまり経験してこなかったような気がしたのだ。強いて似たものを探せば、こぢんまりと家族だけで暮らした、私が3才までの頃の母との情景が浮かぶ。しかしそれらの断片的な記憶とは、もう少し違った質のもののような気もする。
私がこの映画の風景描写、「水の流れ」の映像から感じるものは、もしかしたら「生」よりはむしろ「死」に近い感覚なのかもしれない。
ただ、そうだとしても「生」が無から始まり無に還るのではなく、「非常に大きい何か」から芽生え、やがては(「死」を経ることによって)またそこに還っていくとでもいうような、そういうものに感じられてくる。「生」と「死」がそれほど隔たったものではなく、また自分と他の人間、或いは他の生き物、すべての生命あるものとが、それほど遠く離れた存在ではないような・・・。同じものから生じ、同じところへまた還っていく存在、或いはお互いが「非常に大きな何か」の、ごくごく些細な一部であるかのように思えてくる。
これまで私はこういった考え方があるということを、あくまで頭の中での知識として知っているにすぎなかった。
元々哲学的なことを自分のこととして考えるような機会も習慣も無く、40代の後半に至るまでは、この世に生きる機会をほとんど無理矢理与えられた者として、早くこの義務から解放されて眠りたい・・・と本気で思い続けてきた。なぜ自分が今ここにこうしているのか・・・といったことは、私にとっては元々「決して答えの得られそうにない」疑問であって、ワザワザそれを考え続けるような余裕は当時の私の生活には無かったということもある。
結果として私は、「死」という名の休息を子どもの頃から本気で求めながらも、実際はただただ「生きのびる」ことを最優先に、私にとっては膨大に思える義務と「雑用」を日々こなしてきたような印象がある。私にとって「生きる」ということは、降りかかる「雑事」をひとつひとつ片付けていくだけの作業だった。その時々に嬉しいこと、楽しいことが数多くあったはずなのに、私には、望まないのに与えられた仕事にしかどうしても思えなかったのだ。
ところがその後、人生に付き物のさまざまな出来事がきっかけになって、自分のことが過去に遡って整理されていくにつれて、生きていることが違った風に見え始めた。子どもの頃から縁の切れなかった離人感も昔とは比べものにならないくらい薄くなった。
自分が間違って地球に放り出された異星人だとしかどうしても感じられなくて、それが周囲に知れたら皆が一斉に襲いかかってくるような気がして、必死で隠していた長い年月が嘘のような気がする。(一体何を、どうやって隠していたというのだろう。いくら子どもでも、そんなことがあり得ないことはよくよく解っていたのに。)けれどあの必死の思いは、今思い出しても胸が痛くなるほど、私としては実感として感じる恐怖だったのだ。そして、「実感」だからこそ大人になっても払拭されないまま、私にとっては馴染みの感覚として長い間残った。
それにしても、「誰にも知られてはならない」、「誰にも言えない」というあれほどの孤独に、子どもの私はどうやって耐えていたのだろうか。
その後、生きていることに対して少しだけ肯定的な気持ちを持てるようになった頃、私は丁度50才になった。50才という年齢まで自分の命があったことが、本当に信じられない気がした。子どもの頃からずっと傍を共に歩いていた「死」がいつの間にか居なくなって、その代わりのように今度は「老い」を伴った別の貌を持つ「死」の気配を、行く手に感じるようになっていた。人生50年というありふれた言葉が、私にとってはそれなりに真実を秘めているような気がした。これから先の人生はラッキーなオマケのようなものなのだと、その時本気で思った。
そして今、テレンス・マリックの世界を見ている・・・。
「ニュー・ワールド」というこの映画自体は、冒頭だけでなく、全編美しい映像に満ちている。登場人物達の想いは、本人の声で独白として背景に流れ、ほとんど映像詩を観ているような趣があり、その登場人物達も皆、それぞれ生身の人間としての個性を感じさせる。「自然」を体現しているかのようなポカホンタスの日常の美しさも、「水平線に恋をしている」が故に彼女をほとんど捨てるようにして別れていくスミスの意外なほどの繊細な感受性も、その後彼女の夫となる農場主の「待つ」ことを知る男の優しさも、この映画の魅力になっている。
しかし私は、観た後時間が経つほど、あの冒頭の水の流れの描写だけが鮮やかな記憶になっていくのを感じた。典型的な「失楽園」の物語を描きながら、この作品がなぜかキリスト教的なものを私に感じさせなかったのは、あの「水の流れ」が寧ろ非西洋的なものを感じさせたからだろう。
私は、知人が言っていた同じ監督の「シン・レッド・ライン」を、どうしても観たくなった。
私は、名前以外にこの監督のことを全くと言っていいほど知らなかった。耳にしたことがあっても記憶に残っていないのかもしれないけれど、かつてビデオで観た「天国の日々」がこの人の作品であることも、今回話を聞くまで気がつかなかった。
「ホラーは苦手だからそれ以外で、何かいい映画ありませんか?」と訊いた時、映画好きの知人は、30年以上かかって4本しか映画を作っていないらしいこの監督のことをざっと説明した上で、「とにかく変わったヒトらしい」けど「シン・レッド・ライン」は「自分としてはとても良かった」と真剣な表情で言った。そして近々、7年ぶりの「ニュー・ワールド」という新作が来るが「良い出来かどうかはワカラナイ・・・」と、例によって笑顔でそっと付け加えた。ポカホンタスとイギリス人の恋人の話らしいと聞いた私は、なんとなく気は進まないものの、それでも知人の言葉が気になって観に行った。そして、映画が始まった文字通りその瞬間に、この「ニュー・ワールド」という作品が私の予想していたようなものではなかったことが判った。
映画は、イギリス人達が新大陸に到着するところから始まる。その後ジョン・スミスがポカホンタスに出会うまで、映画は「西洋」が侵入してくる以前の新大陸の自然、それもほとんど常に水の流れを伴う風景を映し出す。
その「水の流れ」の連続するシーンの美しさを、なんと言ったらいいのだろう。
単なる映像としての美しさではなく、単に眼に感じる心地よさでもない、まるで自分がその中に身を浸して自在に水と戯れているような、そんな感覚を実際に身体で感じるのだ。このままこの美しさ、心地よさに浸っていれば、悠久の時の流れに融け込んでしまえるのではないか・・・とでもいうような不思議な感覚。自分の五感、自分の身体だけでなく(おそらくは魂といったものを含めた)自分という存在そのものが、非常に大きな何かにそのまま合流出来るような、自分では考えも及ばないほど遠くにあるはずの、自分の故郷、出発点にそのまま帰っていけるような、そういう安堵感のようなものを伴って・・・。
もしかして、こういう感覚を人は「魂の救済」といった言葉で表現するのかもしれない・・・そんなことを、ふと本気で考えた。少なくとも私自身はこういう根源的な安心感を、これまでの実人生であまり経験してこなかったような気がしたのだ。強いて似たものを探せば、こぢんまりと家族だけで暮らした、私が3才までの頃の母との情景が浮かぶ。しかしそれらの断片的な記憶とは、もう少し違った質のもののような気もする。
私がこの映画の風景描写、「水の流れ」の映像から感じるものは、もしかしたら「生」よりはむしろ「死」に近い感覚なのかもしれない。
ただ、そうだとしても「生」が無から始まり無に還るのではなく、「非常に大きい何か」から芽生え、やがては(「死」を経ることによって)またそこに還っていくとでもいうような、そういうものに感じられてくる。「生」と「死」がそれほど隔たったものではなく、また自分と他の人間、或いは他の生き物、すべての生命あるものとが、それほど遠く離れた存在ではないような・・・。同じものから生じ、同じところへまた還っていく存在、或いはお互いが「非常に大きな何か」の、ごくごく些細な一部であるかのように思えてくる。
これまで私はこういった考え方があるということを、あくまで頭の中での知識として知っているにすぎなかった。
元々哲学的なことを自分のこととして考えるような機会も習慣も無く、40代の後半に至るまでは、この世に生きる機会をほとんど無理矢理与えられた者として、早くこの義務から解放されて眠りたい・・・と本気で思い続けてきた。なぜ自分が今ここにこうしているのか・・・といったことは、私にとっては元々「決して答えの得られそうにない」疑問であって、ワザワザそれを考え続けるような余裕は当時の私の生活には無かったということもある。
結果として私は、「死」という名の休息を子どもの頃から本気で求めながらも、実際はただただ「生きのびる」ことを最優先に、私にとっては膨大に思える義務と「雑用」を日々こなしてきたような印象がある。私にとって「生きる」ということは、降りかかる「雑事」をひとつひとつ片付けていくだけの作業だった。その時々に嬉しいこと、楽しいことが数多くあったはずなのに、私には、望まないのに与えられた仕事にしかどうしても思えなかったのだ。
ところがその後、人生に付き物のさまざまな出来事がきっかけになって、自分のことが過去に遡って整理されていくにつれて、生きていることが違った風に見え始めた。子どもの頃から縁の切れなかった離人感も昔とは比べものにならないくらい薄くなった。
自分が間違って地球に放り出された異星人だとしかどうしても感じられなくて、それが周囲に知れたら皆が一斉に襲いかかってくるような気がして、必死で隠していた長い年月が嘘のような気がする。(一体何を、どうやって隠していたというのだろう。いくら子どもでも、そんなことがあり得ないことはよくよく解っていたのに。)けれどあの必死の思いは、今思い出しても胸が痛くなるほど、私としては実感として感じる恐怖だったのだ。そして、「実感」だからこそ大人になっても払拭されないまま、私にとっては馴染みの感覚として長い間残った。
それにしても、「誰にも知られてはならない」、「誰にも言えない」というあれほどの孤独に、子どもの私はどうやって耐えていたのだろうか。
その後、生きていることに対して少しだけ肯定的な気持ちを持てるようになった頃、私は丁度50才になった。50才という年齢まで自分の命があったことが、本当に信じられない気がした。子どもの頃からずっと傍を共に歩いていた「死」がいつの間にか居なくなって、その代わりのように今度は「老い」を伴った別の貌を持つ「死」の気配を、行く手に感じるようになっていた。人生50年というありふれた言葉が、私にとってはそれなりに真実を秘めているような気がした。これから先の人生はラッキーなオマケのようなものなのだと、その時本気で思った。
そして今、テレンス・マリックの世界を見ている・・・。
「ニュー・ワールド」というこの映画自体は、冒頭だけでなく、全編美しい映像に満ちている。登場人物達の想いは、本人の声で独白として背景に流れ、ほとんど映像詩を観ているような趣があり、その登場人物達も皆、それぞれ生身の人間としての個性を感じさせる。「自然」を体現しているかのようなポカホンタスの日常の美しさも、「水平線に恋をしている」が故に彼女をほとんど捨てるようにして別れていくスミスの意外なほどの繊細な感受性も、その後彼女の夫となる農場主の「待つ」ことを知る男の優しさも、この映画の魅力になっている。
しかし私は、観た後時間が経つほど、あの冒頭の水の流れの描写だけが鮮やかな記憶になっていくのを感じた。典型的な「失楽園」の物語を描きながら、この作品がなぜかキリスト教的なものを私に感じさせなかったのは、あの「水の流れ」が寧ろ非西洋的なものを感じさせたからだろう。
私は、知人が言っていた同じ監督の「シン・レッド・ライン」を、どうしても観たくなった。
久しぶりにのぞいたら、あらま、こんな力作が、、ということで、思わず書き込んでしまいました。映画は見ていなくても、いろいろな思いが伝わってくる気がして、ちょっと唸らされました。
いっちばん最初の、タイトル「眺めのいい部屋」の文も好きです。
風が吹いてくるみたいで。
では、また、来ます。
書いて下さって、本当にありがとう。
月に一度更新出来れば自分としては上出来というくらいのスローな部屋ですが、またいつか思い出した時に来て下さったら光栄です。