眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

おまえたちは、シソウがオカシイ

2016-08-14 15:51:47 | 人の記憶

今から40年ほど前のこと。私が小学5年生のときの担任の先生の話だ。

4年生から上がるときにクラス替えがあって、担任の先生も変わるということだったので、1学期の最初の日には、みんなドキドキザワザワしていたと思う。

新しい先生は男性で、背が高く、ガリガリといってもいいくらい痩せた方だったけれど、初めて会ったとき私が一番驚いたのは、大きな眼の中の、底知れないような暗い光だった。(子ども心にも、はっきり「暗い」と感じた) 

顔にぽっかり、大きな黒い穴が2つ開いているようなその眼は、大人にとっても印象的だったのか、父兄会(と当時は言った)に出席した私の母親など、帰宅後にはなんのためらいもなしに、「今度の先生は、エライ虚無的な眼ぇした人やね。暗~い、ちょっと気持ち悪いような眼やないの」などと言った。

それでも学期が始まってみると、センセイは(10才ほどの子どもにとっては)「ごく普通」の先生だった。特に厳しくも口うるさくもなく、かといって面白かったり優しかったりもしない。センセイのことが嫌いという子はいなかったと思うけれど、「センセイ、好き!」という子もいなかった。

そうこうするうちに、私たちはだんだん、先生の存在を特に意識しなくなっていった・・・ような気がする。 

すると、ある日・・・

始業のチャイムが鳴ってしばらくしてから、教室の前の戸がガラリと開いて、隣のクラスの先生が顔を出した。その先生はセンセイがまだ来ていないのだと思っていたらしく、ちょっと慌てて、「すみません。あの・・・もうちょっと静かにしてもらえませんか」とだけ言って、センセイの方に何度も頭を下げながら戻っていかれた。

センセイはそれまでも、眉をひそめて椅子に座ったままだったけれど、ビックリして黙った私たちを前に、何も言わず、そのまま授業を始めた。(私たちは、自分たちがそんなに大きな声で騒いでいたのだとは、それまで気づいていなかったのだ)

その数日後・・・同じことが、今度は授業の真っ最中に起きた。

隣の先生は、もうセンセイの存在などに頓着しなかった。まるでセンセイがそこにいないかのように、私たち子どもだけに向かって大声で、「静かにしなさい!何べん言ったらわかるんだ!こちらのクラスでは非常に迷惑している!!」といった意味のことを怒鳴ってから、教室の戸を壊れそうな勢いで閉めて出ていった。

センセイの態度は、前と変わらなかった。 


センセイは一見、何を考えているのかわからないような、無表情に近い人だった。でも、私たち子どもは、センセイが長い身体を前後に折りたたむように揺すって、大声で笑う姿をよく見かけた。

たとえば、体育のドッヂ・ボールで、外野の味方同士がアセッてぶつかったり、引っくり返ったりすると、もうゲラゲラという感じで「二枚折り」になって笑った。タンコブが出来そうな男の子が、「センセ、そこまで笑わんでもいーがいね。イタイげーぞ、オレら」などと、それでも半分笑いながら抗議すると、笑いをコラエながら「いや、悪かった」などと、たまには謝ったりもした。

でも、普段は子ども側も文句は言わなかったし、センセイの方も全く悪気のない様子で、本当に楽しそうに笑っていた。笑っているときのセンセイの顔は明るくて、「虚無的な眼」なんてどこへやら。細い月を2つ伏せて「目」にしたような、小さな子どもの描く絵の中の顔みたい・・・と、私は思った。


センセイの授業は、別に面白くもなんともなかったけれど、一度だけ、みんなを驚かせたことがある。

国語だったか道徳だったか・・・「乗り物の中で、お年寄りに席を譲る」話が教科書にあって、いつものように「ごく普通」?に授業が進み、そろそろチャイムが鳴る・・・という時間帯。生意気盛りで、あれこれ言い募る子どもがいたのかもしれない。センセイは突然、手品の仕掛けをポイッと放り出すように、早口でこう言ったのだ。

「先生(自分のこと)に言わせれば、年寄りがそんな混む時間帯に、バスや電車に乗ってくるのが間違いや。年寄りは、普通は時間の自由が利くんやから、空いてる時間に乗るようにすればいい」 

アレコレ言い合っていた子たちは、一瞬絶句したのだと思う。間もなく、気を取り直した一人が(苦笑いしながら?)こう言った。

「センセ、そんなコト言うても、トシヨリだって用事はあるやろし。混むときに乗らんとイカンこともあるわいね」

「いや、そんなことはない。」

と、センセイも今さら自説を変えない。そして更に、話が飛んだ。

「さっきの社会で、ソ連やアメリカのロケットの話があったやろ。あれだって、あんな途方もないお金かけて月に行くより、他にせんといかんコトはあるんや。食べるもんも無いような人は、世界中どこにでもおるんやから」

さっき反論した男の子は、口をパクパクさせながら、それでも何か言いたかったのだろう 、やっぱり困ったように笑いながら

「センセねえ・・・それじゃあんまり、夢がない」 

みんなは思わず笑ったけれど、センセイは、「餓えより夢か」とでも言いたそうな顔で首を横に振って、こう断言した。

「夢の問題じゃない。そういうことを言うお前らは、シソウがオカシイ」 

男の子はもちろん、見ていた私たちその他大勢も、口をパクパクしそうだった。誰かが、小さな声で言うのが聞こえた。

「シソウってなんや?」 


私は元々、学校も、先生も、そもそもいかなる「集団」も、更に言うならオトナという人種自体、苦手な子どもだった。だから担任であろうとなかろうと、「先生」にはなるべく近寄らないようにしていたと思う。

ところが、センセイとはほんの一瞬、一対一になったことがある。

どういう経緯だったかは、もう覚えていない。とにかく、(先の予想があれこれ頭に浮かび過ぎるせいで)臆病な私が、何かのときに「決断」できなくて、みんなの前で恥をかいた?ときのこと。

クラスのみんなからは、その場でイロイロ言われたけれど、その後、次の授業が始まろうというとき、子どもたちに混じっていつものように、見るともなしに経過を見ていた(らしい)センセイは、席に着こうと傍を通りかかった私をじっと見つめ、小さな声でたった一言。

「○○さん(私の名字)・・・あんまり考えるな」 

私を見ているセンセイの眼には、「可哀想に・・・」とでもいうような、傷ましげな色合いが感じられて、私は恥ずかしさで身の置き所が無かった。(その後も結構長い間、いつも以上に「先生」を避けて過ごした記憶が残っている)

センセイは、なぜ私を憐れむような眼で見たのか・・・当時は自分の臆病さを、やんわりたしなめられたような気がしていたけれど、その後の長い年月のうちに、私はもう少し違うものを感じるようになった。 


センセイが戦争を直接体験した人だということを知ったのは、5年生も終わりの頃だった。例によって、「父兄会」から帰ってきた母は、あっさり言った。

「あの先生、大阪に居たんやってね。空襲で三度焼け出されたって」

あの虚無的な眼も、当たり前かもしれんね・・・と、さすがの母も、ちょっと同情するような風情を見せた。

そのとき初めて、私はセンセイが見せた、あの「可哀想に・・・」という眼の意味が、もうちょっとわかったような気がした。(あのときは、ただただ恥ずかしかっただけだけれど、それでもあの眼が単なる憐れみなんかじゃないことは、子ども心にも薄々気づいていたのだ)


その後、自分も親になり、オトナの側から「子ども」を見るようになると、あのときのセンセイの言葉と表情は、より一層鮮明になった。それはなぜか、私を慰めるようなところがあって、いつの間にか「温かい記憶」?の一つになっていた。

今の私の言葉で、勝手に想像するなら・・・

「世の中も、人生も、そんな大したもんじゃない」

「人の世には、子どものアナタがそんなに胸を痛めたり、一生懸命考えて、その結果傷ついたりするほどの値打ちのあるモノなんか、何もないんだ」

「だから・・・可哀想に、そんなに考えることないんだよ」


センセイは「教育」なんて、する気がなかったのかもしれない。処世のために「教師」をしていただけで。ただ、私たち子どもを見ていると、若い生き物、若い命の明るさが、愛おしかったのかも。

だから、「一生懸命教える」なんてことはしなかった。戦争の悲惨さ、愚劣さも含めて、一切合切、教える気がなかったんだと。

でも、だからこそ、私はセンセイから、「戦争」「教育」「生きるということ」・・・さまざまなことの根本にあるモノに、早くから気づかされたのかもしれない・・・と、今になっても考える。



センセイの担任は、1年間だけだった。センセイはその後移動になり、私たちのクラスだけ、学校で一番キビシイという噂のベテラン先生(女性)に変わった。

それが「保護者からの強い要望」のせいだったなんて・・・母から聞いたときは呆気にとられ、その後猛烈に腹が立った。

「学校で一番騒がしいクラス」でも、みんな全然勉強したがらなくても、私たちはとても仲が良かった。誰かを仲間外れにするようなことはなくて、学校から帰った後も、集まってみんなでよく遊んだ。

クラスに溶け込むのが元々下手で、田舎から引っ越した最初のクラスでは、1学期間集中的にイジメラレタ?ような子ども(私のこと)が、その次の1年間は本当に楽しかったのだ。それだけでも、大変なコトだったんじゃないか・・・と、「保護者たち」(もちろん私の母も含む。「あの先生じゃね~全然ダメよ。親はあれでは納得できないわ」)に、大声で言いたかった。


名前も思い出せないセンセイのことを、それでもいつも思い出す。意見が分かれる?度に、「お前たちはシソウがオカシイ」と、笑いながら男の子たちに言っていたセンセイは、私たちを「生き物」として対等に扱ってくれた、初めての大人だったと思う。
 



 


 

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4 コメント

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なんか (お茶屋)
2016-09-03 13:22:02
始めの方は怖かったけど、
中頃の遣り取りで可笑しくなって、
読み終わって涙が出てきました。
返信する
不思議なヒトでした。 (ムーマ)
2016-09-05 09:14:52
>お茶屋さん

長々しいモノを詠んで下さって、ありがとうございました。

ずっとこのヒトのことが忘れられないのは
なぜなんだろう・・・と、長い間思っていたのですが
要するに「戦争」・・・と思うようになって
やっと言葉にすることが出来ました。

書き込んで下さって、本当にありがとうございました。

返信する
まるで、、、 (青而)
2016-11-24 20:53:41
まるで短編小説のような印象です。

随分とご無沙汰です。相変わらず東京で働いています。戦争体験がからむのでなおさらですね。
日本の敗戦は、良くも悪くも思想の転向をなくして語り得ません。教師は、180度云うことが変わった。軍事教練は、廃止。天皇陛下万歳は厳禁。
メディアは、挙って進駐軍に賛辞若しくは米国より、、、骨のある思想なら白州次郎くらいですか。
わたしは、その世代に当たらずで実感覚としてはないにしても、多くの先人、先輩の話しをきくと酷いものだったらしいです。亡くなった吉本隆明氏もそのことにはかなり言明があります。
感想としては、可笑しな内容になってしまいました。ゴメンなさい。
他にもう一点、先生のキャラクターが、漱石の『こころ』に出てくるKとなんとなくかぶりました。変な印象をもってすいません。
では、おやすみなさい。
返信する
「こころ」のKに会いに行こうかな (ムーマ)
2016-11-25 13:53:44
>青而さん

東京は雪が積もっていましたね。
大変でしたね(って、過去形でいいのかな)。

青而さんのコメント読んで、ふと、この話のセンセイの「シソウ」という言葉が
元々はどこから来てたんだろう・・・と思いました。
「空襲で3回焼け出された」後、教師になった理由も含めて
その後の人生を(ぼんやりとでも)想像させるものがある言葉だったんだなあ・・・と。

白洲次郎も吉本隆明も、著作を読んだことがなく
この先ももう読むことはなさそうな自分(^^;ですが
「こころ」はもう一度読みたくなりました。

読んで下さって、書き込んで下さって
本当にありがとうございました(^^)。
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