眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

汽車の中で

2016-08-13 12:40:38 | 人の記憶

学生さん? 帰省? どちらまで行かれるんですか。

僕は福井までです。
お盆だから、久しぶりに妹とお墓参りに行こうかと。

お家は金沢なんですか。
金沢は空襲にも遭ってないし、いい所だそうですね。
兼六園・・・でしたね。緑が多くてきれいだって、行った人から聞きました。

福井は焼けちゃったから、緑は少なくなりました。


僕も子どものとき、空襲に遭いました。
まだ小学生で、妹連れて夜中に逃げて・・・

防空壕もあったんだけど、間に合わなかった。
もう遅いから、今夜は大丈夫やねって、みんな言ってたのに。 

お父さんは兵隊に行ってて、お母さんは下の弟たちがいたから
何かあったら、あんたは妹と2人で逃げるんよって
いつも言われてたから・・・

だから、あっという間に空があちこち赤くなって
人がわあわあ走り出したとき
妹連れて走ったんです。 

お母さんは、僕の方見て、頼んだよって。
声はちゃんとは聞こえなかったけど
顔でわかった。


とにかく山の方行ったらなんとかなると思って
もう一生懸命走りました。
妹はまだ小さかったんだけど、泣かなかった。
その後も、ずうっと何も言わなかった。

ひゅるひゅるひゅるって爆弾が落ちてくる音が
近くで聞こえると・・・怖かったですよ。
早く朝にならないかって、妹も僕も、もう必死でした。

実際は空襲自体は、真夜中の
ほんの1時間半くらいだったんですね。

でも、子どもだったし
いつまで続くのかわからなくて・・・
そのまま寝ちゃったんでしょうね。気がついたら
辺りは明るくなってました。

静かになってたし、恐る恐る下に降りて
家の方に歩いて行こうとしたら・・・

町並みっていうか、まともに立ってる家なんて
全然なかった。あちこち、黒焦げの柱とか
ガレキの山ばっかりで
歩いてても、まだ熱かったりするんです。
 

焼け死んだ人も見ました。

川の近くを通ったら
折り重なって・・・もうほんとにたくさんで・・・ 

でも、最初は息が詰まるほど驚いたけど
そのうち、丸太が転がってるように見えてきて
何も感じなくなりました。


家があったはずの所まで行ってみても
どこにあったのかわからなくなってた。

お母さんのことが心配で
でも、どうしたらいいのかわからなくて
思いつきで学校に行ってみたら
怪我した人とかで一杯でした。

でも、そこに伯父さんが迎えに来てくれて
妹と一緒に、伯父さんの家に行きました。


結局、母と弟たちには
二度と会えませんでした。

父も戦死したので、その後は
伯父の家の厄介になりました。

でも、僕は妹がいたから
まだ良かった・・・
一人っきりになった同級生の話も
後から聞いたりしたから。


今ですか? 今は関東の方に居て
マシコに住んでます。

ああ、益子をご存知なんですか。
いい焼き物があって・・・

そうそう、あったかい感じのする
ほんとにいい陶器なんですよ。
町も住みやすい、いい所です。


あ・・・そろそろ福井ですね。

僕はお先に失礼します。

益子の方にも、機会があれば
どうぞ来てみてやってください。 




 

70年代の半ば頃だと思う。私は学生で鳥取にいて、夏休みだというので渋々、金沢の自宅に帰ろうとしていた。当時は「大社」という直通の急行があって、新幹線と特急を乗り継いで帰るよりも時間はかかる(鳥取・金沢間で8時間!)けれど、安価で面倒がないので、私は帰省の時にはよく利用した。

「その人」が、どこの駅から乗ってこられたのかも、覚えていない。(益子から直接福井に来るなら、「大社」は使わないと思う) 「久しぶりの墓参り」と言われたので、多分、福井県内のどこかで所用を先に済ませた?か何かで、その後福井までの1時間ほどを、急行に乗られたのだと思う(全くの推測)。

こうして思い出して書いていると、随分饒舌な印象がある。

でも、実際の「その人」は、どちらかというと小柄で痩せた、地味な風貌の、普通に「口の重そうな」男性だった。「福井大空襲」のとき「小学生だった(と言われたと思うけれど、私の記憶もアテにならない)」とすると、私の母親と同世代だったことになる。でも・・・語っている間の「その人」は、もっとずっと若く見えた。

なぜ空襲体験の話になったのかも、思い出せない。ただ、私はたまに年配の男性と話をする機会があると、 なぜか相手の戦争体験を聞き出してしまう?という、妙なトコロがあったので、このとき(多分8月)も、自然にそういう方に話が向かったのかもしれない。


40年も前のことを、なぜこんなに(大事に?)抱えてきたのかというと・・・「その人」の話し方が、淡々として、しかも明るく感じられたからだと思う。

それまで私は、こういう話し方で「戦争」を語る人に会ったことがなかった。「戦争」にまつわる話は、両親からも祖父母からも、学校でも、数々の本の中でも、随分見聞きした?と思うのに、それらは全部と言っていいほど、「深刻で辛い」内容だった。なのに・・・

「その人」は違っていた。単なる思い出話をしているように、普通の表情で、私に何かを教えようという意図も、全く感じさせなかった。

おそらくは、だからこそ、私の心に染みて残るモノがあったのだ・・・と、今こうして書いていて初めて気づいた。


最後に「益子」の話になったとき、姉が学校の実習で益子町に行って、綺麗な焼き物をいくつも買って帰ってきたことを話すと、「その人」は本当に嬉しそうな顔をされた。それまでとは全く違う表情を見て、ニブイ私もはっとした。

どんなに「淡々と」 「明るく」見えようと、この人にとっては大変な体験だったのだ。それを誰かに語るというのも、どこかで身を削るような作業なんだ・・・と。

そそくさと手荷物をまとめて、振り返らずに降りていかれた「その人」 のことは、忘れないと思う。同じような経験をした子どもたちが大勢いて、その子たちの代わりに話してもらったのだと、今思う。






 


(自分用の索引として、別ブログの記事を貼っておきます。)
 http://blog.livedoor.jp/hayasinonene/archives/48219728.html 「”福井空襲”の話を書きました。」

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